
最近、路上で手に入れたもの2点
1 本物の昆虫の死骸
2 本物のルイ・ヴィトン製品
「オリジナル」の意味を問う2題


人はどのように物に対して「良い」と評価するか。
「職人」と「ファッション」というのがまず考えられると思いました。
職人的な審美眼はそのものが生まれる過程が、他の物を作る過程よりいかに難しいかが、かっこいいとか美しいとかにダイレクトに変換されるものである。よって、生成行為に難易度が高い領域、たとえば、料理とか裁縫とか大工なんかが好きだったりして、革製品とか建築のディテールを愛す人の感覚。彼らは、ある種マゾヒストで、時の止まった清らかな精神性を求め、同じものを一生つくってきた老人とかを称賛する。それはモラリストの感覚であるが故に保守的でもある。
ファッション的感覚はもっとも相対評価主義である。これの本質にはフェティッシュ(物心崇拝)があり、それが相対評価をするための情報を手に入れることの原動力となっている。彼らの多くは新しいもの、ただし、ある流れに身を置いていて、ほかの作品などとの関連性が見出せるものを愛す。つまり、差異を求め続ける態度という言い方ではなく、差異の氾濫した世界に現れる類似性の世界を実は愛すのがこの感覚だ。
ファッションが新しさを基盤にしているため保守的職人的なものの審美眼を強く持ちすぎている人とは時折バッティングする。それゆえこの二つのものの見方は面白い。これらは「物」としてある対象を評価する感覚だ。
しかし、人はもうちょっとごりごり物を見ていくと、概念でものを見る、形而上学的な審美眼が備わってくる者もいるだろう。これは、前2つの感覚の不安定さというか危うさ、つまり職人的本質の論理的脆さ、ファッション的な美の時に対する脆さを嫌う感覚であろう。それが故に「物」の中から「事」を見つける感覚ともいえる。彼らは歴史などを用いて概念を相対評価する。まったく美しくないとおもっても、歴史的に意味があると思ったり、概念が新しい物の見方を提示していれば、なぜだか良いとおもってしまう不思議な感覚である。
身体的に良いという感覚もあるだろう。ある空間に身を委ねたときふと良いと思う。物や事じゃなくて「状況」に対する評価。色々あります。
良いって何だろう。これは迷宮です。それが故にまったく辛いと感じる時も楽しい時もあるのです。ある人にリンゴを差し出したとき、物として事として状況(場)として人は評価する。人と「良い」何かについて議論する時に、こういう違いがあることをお互いが認識しながら話す話はおもしろいのだ。

デビットリンチは家具の夢を見る。そんだけ家具とか大好きな映画監督で、実は家具を実際に発表して売ってます。http://www.casanostra.com/dl-index.htm
この事実には正直萌えた。 なぜなら僕はリンチの映画で出てくる家具の大ファンだから。
パリのカルティエで幸運にも見れたリンチ展(電飾がバチバチいってる)

でもかなり危ないリンチ空間が再現されてました。

他にも「twin peaks」のブラックロッジとか

「インランドエンパイア」のウサギの部屋とかもなかなかやばいです。

特にブラックロッジの床材ってどう理解していいかよくわかんないんですよね。視覚的な効果を重視したのか、それとも記号的なものを狙ったのか。基本的にはリンチのデザインした家具はもろ記号性を重視したポストモダンデザインで、わりとそれ自体を穏やかに記号的な認識からずらしてやることで、空間全体にすごい違和感を作り出すっていうやつだと思うんだけど、あの床はそれにしては派手だし、記号としての親近感はないし。

まぁ、それはいいとして、リンチ自体のデザインの趣味はバウハウス好きってどっかに書いてあったから、基本的には、モダニズム建築成立期というか、工業化する前の美学的チャレンジ期の空間が好きなんだと思う。コルビジェとかよりチョイ前の素材がまだ抽象化してないやつ。あと、ハリウッド的なというかケーススタディーハウス的な都会的建築と、カントリー調の木のちょっと使い古した手製家具。なんていうか、具象!そっからああいうポストモダンに行くのは割と王道です。そういう趣味って言うより、目的がはっきりしててデザインがそれをうまく具現化できてるから好きなんです。

そういえばこういう邪悪なやつの対照的なの最近「でじーん」で発見した。

噂のホワイトロッジ?(ツインピークスを見た人にしかわからないと思いますが。)
屋根と天井の間隙が非常にすきです。でもこういうのは抽象ではなくて具象でやるべきだ。
ちなみに最近のしせいどうのcmをリンチがやってます。主役、鈴木京香!!

岩波 世界の美術の「コンセプチャル・アート」を読みました。
とにかく、事例の数が膨大かつ一個一個の作品とコンセプチャル・アートの文脈の関係が複雑なため、全くもって消化不良。なので少しずつ復習(復讐)がてら思った事をブログにしようということです。
コンセプチャルアート成立の流れを個人的に解釈すると、コンセプチャルアートは運動名的にはダダ(デュシャン)→ネオダダ→ポップ→ミニマリスムという流れの先で生まれ、その中で政治性の有無、シリアスかユーモアか、物質的か脱物質的かなどで複雑に揺れながら、主として、アート作品の持つ審美性の層を徐々に剥いで行くことで、概念(コンセプト)化していき生まれていきます。
ポップアートまでは「アートって何?」や「これもアートなの?」という疑問を喚起させるもの、たとえば、デュシャンの「泉」みたいに「便器もアートだ」と言い、そこに元来アートが持っているとされる審美性つまり、美に関する思考を与えていきます。それがいったん終わるのがポップアート、特にウォーホルで、次のミニマリスムぐらいから「アートって何?ってどうやったら考えられるか。」「これもアート?と問う態度はなんなのか」といった一つ上位の発想、この本ではリフレクションと書いているけど、つまり批評性を外ではなくて内に、自己批評を起こすような作品に変わっていき、そこには審美性は必要でなくなっていき代わりに概念が現れてきます。
作者のトニー・ゴドフリーはコンセプチャルアートは「レディーメイド」「インターベンション」「ドキュメンテーション」「言葉」の4つの形態のどれかを取っていると言っています。しかし、多くの作品はこれですんなり分かれるというより、これを組み合わせて複雑に絡み合っているのが実情です。
これらの中心にある関心の一つとして脱物質化は重要です。これはコンセプチャルアートをすんなり理解するためには欠かせない考え方で、コンセプチャルアートの位置づけもはっきりします。
さっきあげたダダとかポップとかっていうのは、それを構成する物質や主題となっている物質の点で流れができているんじゃないかと思いました。ダダ以前はアカデミックな見地で美的なもの(新古典主義)、ただ美しいとされるようなもの(印象派とか)が主題となっていましたが、デュシャンの便器で突如、美しくないもの、特別でないもの、つまり日常品が主題として挙がってきます。これは審美性の枠組み自体を揺るがすアートという意味で、コンセプチャルアートに最も影響を与えた作品と言って良いと思います。その後、ポップアートでは商品が主題となり、ミニマリスムでは物質的にもまったく普通のものが主題になって、コンセプチャルアートでついに物質が主題から消滅するとようになります。これが乱暴な脱物質の流れで、以下の流れでコンセプチャルアートは物質を提示しない方向での提示の仕方が模索されます。
この脱物質的趣向を背景に、コンセプチャルアーティストが物質の代替として提示したのが、ゴドフリーがまとめた4つの類型、つまり言葉(概念や調査、提言)やドキュメンテーション(地図やノートなど記録、証拠となるもの)、制作者不在のレディーメイドです(インターベンションの位置づけはうまく理解してません)。この流れに伴って、制作者も創造主からただの平凡な人や知識人、共同制作者の一人といった地位になっていくし、鑑賞者も見る人から能動的に参加する人、理解しようと試みる人という位置づけに変わっていきます。ミニマリスムと同時代のアートであるフルクサスなどは、コンセプチャルアートの参加者主体の形式を先どったものでした。
このような能動的に参加するように仕向ける作品を、ロラン・バルトは「作家的」という言葉で説明したそうです。バルトは、我々は作家を読む(つまり、与えられる)のではなくて言語を読む(自分に与える)のであって、能動的に読まなくてはならないといった主張をしています。作家的作品とはこういうものを指します。これは、与えられているのに慣れている者にとって「苛立ちをおぼえるが、やがて活性化される」ものなのです。
この考え方はモダニズムからポストモダニズムへと時代認識が変わっていく際、大きな原動力になったものですが、それは納得できるものだと思います。お互いがコミュニケーションできるように共有言語を持とうとする形式化こそがモダニズムの根幹であったのに対し、作品が作家の手を離れて一人走りするものであるという真っ向から否定するような理論がここでは展開されているからです。
僕も、作品をある形式に当てはめすぎること(例えば東工大建築の構成論のような認識論に立ったあらゆるものの形式化)には否定的で、どんな意見でもいいけど豊かな批評を導けるものこそ素晴らしいという立場です。キュビズムの方がデ・ステイルより重要だと言い切る人がいるなら、大体がこの立場によるものではないでしょうか?
こういうとき、保守的な人がする拒絶反応は、バルトの言葉で言うと、「作家的」な作品が嫌いということになるでしょう。つまり苛々させるな、考えさせるなということです。この顕著な例が「せんとくん」です。これは僕の私的な理論なので、正しいとは限らないけど、まず、せんとくんを見た時、その形式がはっきりしていなかったことによるパターン認識ができなかった大衆は自分で対峙しなければならないという孤独感から、めっちゃくちゃ不安になったり苛立って反対運動とかして怒りました。しかし、不安な人たちが集まっているという共有意識や、メディア露出の繰り返しによる慣れとともにある形式が見えてくるようになって、親しみを覚えていきます。そして、今じゃ人気者です。これは北野武の映画に見られる「振り子理論」といっていて、悪い奴ほど良い奴になれるという理論に非常に似てますよね。このように、とっても良いものになれる(悪いものにもなる)可能性を持っていること、これこそが作家的な作品の良さなのです。
しかし、「作家的」作品の傾向が、現在のコンテンポラリーなアートにまで受け継がれているというのが「アートってのは難しくてとっつきにくくて嫌いっ」っていう大衆のアート離れの要因の一端となっているのも否めません。観客の能動的参加は消費社会に使った我々にはちょっとイライラする存在なのです。美術館の学芸員がしきりに、「わからなくていいんです、自分で思い通り感じてください」と作品に対して説明するのは、正しい言葉ではなく、正しい理解だけを必要に求めることで興味を持たれなくなることを警戒した折衷的な態度なのです。
まぁ、コンセプチャルアートは現代アートの生みの親的な存在で非常に興味深いものなので、この本読んで初めていろいろわかったけど、もうちょっと理論自体がメディア露出してもいいかもしれません。
ps
コンセプチャルアートの出現に関するまとめとして、ゴドフリーが言葉の出現の要因を6つにまとめていて、これが非常にコンセプチャル・アートのキャラクターをうまく説明しているのでザクッとあげとくと、
1.脱物質の代替 2.人との共有願望 3.人の頭に入ってみたい願望 4.すべての芸術作品は本質的に言語的だという主張をする人々が多かった 5.アートの意味の理論化 6.アート市場への嫌悪、商品としてのアートから脱するための言語
これらのうち、2,3は現代アートの基本的なスタンスに近いけど、1,4,5,6はそこまで率先してやられていなかったり、今では否定されているものなので、裏返せば特に、コンセプチャル・アートの精神とも言うべきものかもしれないです。特に、6のコマースぎらいは、のちにコンセプチャルアート自体が市場で高騰していく中で、自己矛盾を作り出していき、コンセプチャルアートの急激な衰退の要因となっていくのです。
続く?

ふと、書こうと思って書いてみました。
1 機能主義や合理主義は本質ではなくて一つのイデオロギーにすぎない。最も対立する物として宗教的価値観や魔術的価値観、地域・集落的価値観などがある。
2 美術と建築のモダニズムは違う。美術におけるモダニズムは平面性や形式を重視しており、純粋なものが目指された。社会的な物が加味された運動とは違う。建築におけるモダニズムの主題は大量生産、合理的建築で、その過程で表現された反復やデカルト幾何学が純粋であったことによって両者は同じと勘違いしやすい。
3 モダニズムは近代全般を占める思想ではない。もう一つの大きな文化運動の流れは芸術においては資本主義に対応したダダ、シュルレアリスムからポップアート・・・。建築においてはシカゴ、マンハッタンなどの高層ビルや遊園地などからベンチューリ、コールハースまでがそれに当たる。建築はコルビジェを今でも崇拝しすぎてて、その影響が強すぎる。両者はキュビスムに端を発している点は興味深い。
4 ミニマリスムはモダニズム(アート、建築)の美学の延長ではなく、本質的に逆。3の話の続きで、ダダとかポップアートの流れにミニマリスムは位置するため、モダニズムとは相反する(連続的な視点もありうるけど)。また、おさまりがいい均整な建築のディテールはそれがカッコイイとかきれいとかそういうことを語るのに対して、ミニマリスムのオブジェは概ね、何も語らない点で大きく精神が異なる。
5 日本において、モダニズムは皆に愛されているわけではない。大衆はよりキッチュなもの愛している。そうでなくては、町はもっと端正な面持ちであったはずだし、もっと現状に批判があがるはず。
6 コルビジェの思想は成功したのではなく失敗したと言った方がいい。ジェイン・ジェイコブスの「大都市・・・」でコルビジェ的都市計画の犯罪率が高いことが確認されている。また、ここ2,30年は(合理主義と地域主義の仲裁もしくは歴史主義との仲裁という苦肉の策以降)、モダニズムが進化したという感じの建築は現れてないのでは?むしろ成功したのは巨匠としての建築家というカテゴリーを最も初期に作ったこと。
ps モダニズムにネガティブな意見を書いたが、しかしモダニズム、モダニズム建築運動、モダニズム美術運動は近代最大の美学もしくは美学的運動であったことは間違えがないことを加えておく。現代においては???

『美学への招待』よんで学んだ事を考察。ノリで書いてみたけど自分にとって結構重要な文章が書けた。
19世紀末から内容重視から形式重視、つまり、形式が内容に取り込まれて行く現象が生まれてくるらしい(例えば、マーレビッチ、マチス、ピカソ‥‥)。
ざっくり言うと、指し示す物の意味より形が重要もしくは、形あっての意味主義。
そこでちょっと形式について考えてみたが、
形式主義には2種類あるように思える。内容と形式を往復しながら形式を重視するタイプと、相対的に形式と形式を往復する事で形式を作ろうとするタイプ。
後者で重要な事は、ほとんどの者が、後者においても内容を捨てきる形式はあり得ないと考えている点であろう。形が指し示す意味がまったく無い形を人は許容できない。これは形に限らず、意味の空白(何も意味の無いもの)は人にとって恐怖なのである。相対化される形式も元を正せば内容があるという前提に基づくがゆえに、既に形式化された形式に対して、相対化を繰り返しながら形式化していけるわけだが、その反復作用によって前提である内容は擦り切れて極めて希薄になってしまう事が多くある事が予想される。何度もコピーを繰り返すとオリジナルがよくわかんなくなるように。その時、西欧をベースとした文明は歴史的に類を見ないほど意味が希薄な世界を目の当たりにする事となったのである。
例えば、都市空間。
中世の都市とかの装飾もそれなりに意味をなしていただろうし、広場の作られ方とか色々、まぁ内容がある訳だけど、中国の大量に建てられる高層ビル群は明らかに内容が希薄。キャドの性能や、CGの見栄えで決まる外観や、大量に量産される同等の質の空間を横断する体験。それらに差異を作るために頂部だけ歴史からサンプリングどかーんetc。
これは、きっと日本人とかそんなに抵抗無いけど、西欧人(のインテリとか)にとっては大変な衝撃なんだろうなーとおもいました。これをボードリヤールはいち早くきっと指摘してるのだろうけど(読んでないからわからない。)。頭で各々が構築する所謂「世界」が、「内容の世界」から「無内容の世界」へ。シュルレアリストが格闘した主体と客体の戦い(「シュルレアリスムは、主体と、われわれにとってはいわゆる現実が引き受けている形態である客体との戦いを抹消せんとする、徹底的な試みとして現れる。」by オクタビオ・パス)は、だいぶシュルレアリスト優位の展開になってきた訳です。これが、僕がシュルレアリスムに今注目する理由です。ちなみにこの戦いはロランバルトによって日本も引き合いに出されてます。
主題である建築の話をすると
建築には芸術としての側面とデザインの側面がある。アートにも両側面があるが(めっちゃださいアートはあまり成立しない現状がある。それは当然、アートは美学の範疇だから、美的でないという認識をされることは、作品の美学的内容に関わらず多くの誤解をよんでしまうきっかけになってしまうから。ちなみに、アートと藝術は違う概念だと思う。)しかし、技術的(職人的)側面が目立つ分、建築をデザイン分野として強く意識されるのが現状であろう。
では、そもそもデザインと芸術、両者は何が違うのであろうか?
『美学への招待』によると、芸術には内容があるが、デザインには内容がない(特筆すべき内容が無いという意味。)らしい。これは、芸術にはタイトルがあるが、デザインにはタイトルが無い事がこの状況を示している。タイトルとは、筆者が言うには「作品をしかじかのものとして見よ、という命令で、この知覚の命令は、作品が一つの精神的世界をもつことを前提とし、その世界についての解釈の方向づけ」であるという。これが無いということは、内容が無いと同義なのである。馬鹿でも見りゃ分かるだろってな具合に。
ここまでくれば、建築が形式主義と相性が良さそうだなーと予感が湧いてきましたか?
差異を作らなければいけないが、アートのように純粋な観念でなくても良い「建築」は、デザイン的側面を発揮する事によって、「ちょっと違うけど内容的には近似するコピーの量産」に対する要求を満たす事に秀でている。それが、現在の建築的状況といってよいほどである。だから、時代の美学としての形式主義自体に対しても百花繚乱な形式を持って、120%で建築は応える。このように、内容→形式の移行がアラブやBRICS(中国とか、分からんかったら調べて。)における急激なグローバル都市化の状況に伴い進んでいく事を背景に、建築の本質が重要な変質をしてきた気がします。後ろめたかった形式主義が前向きになってきた。
何がそうさせたのか?
責任もって、ここまで説明しとくと、形式主義の台頭はメディアと密接に関係があると思ってます。多分、一番の理由は絶対これ!「動物的」なメディア消費になってくれば当然、内容なんて追ってられない。メディアによって情報垂れ流し消費状態なので、とにかく形で違うもん見せろって感覚になってくるのは当然である。建築家における巨匠制からスター制への移行も、もろに、こういう背景があるであろう。学ぼうとする勤勉な態度と憧れ真似をする怠惰の態度はそのまま、メディアに対する我々の態度の変化の表れであると言えそうだ。需要者も供給者もこうなってくると、魂削って内容を切り詰めるアーティストも、職人技で頑張るマイスターもあまり報われない現状が待っている。特権的な立場でいられるのは、広告代理店とか、雑誌の編集者、内容を作って形式を量産させるよう多くの優秀な人材を集めたとこのボス、カイカイキキ(村上)/クマジム(隈)/OMA(レム)ってことになりますかね。
僕が危惧するのは(誰もが同様に思っていると願うわけだけど)、以上の状況(形式主義の超台頭)であろうとなんだろうと、建築は常に社会における公共性の重要な部分を担っている、という一言に尽きる。西欧における、建築や都市の「内容」はコモンセンスに関わる公共的なものであったはずだ。そのことを担う職能が建築家であるという認識が僕にはある。よって僕は形式を排除するタイプでは全然ないけど、完全に内容主義である。建築家という概念自体、本来、西欧的なものであるから至極当然の事に思うし。

dezainnetとかDEZEENとかでまとめて最近のデザイン/アートニュース見ましたが、非常に面白かったのがどっちもポップアートに近かったんで一緒にコメント。
1つめ 今年のベネチアビエンナーレで金獅子とった、グレッグリンのインスタレーション。毎回ベネチアの金獅子は個人的趣味とかなりリンクします。
大量生産の子供のおもちゃを溶かしてくっつけたもの。切断の切り口が完全にCG大好きな人のデザイン手法で、キッチュな素材を使うのもアメリカのポップアートの王道行ってる。この組み合わせは今まで見た事が無かったので死ぬほど新鮮。単純すぎるかもしれないけど、コンピューター・サイエンスとウォーホルの美学が合体したみたいな。
大人のおもちゃでやったらもっといけてる気がするんだけどなー。YOUTUBEも!!
2つ目 ジェフ・クーンズがフランスのベルサイユでエキシビジョン!
この人、完全に狙ってたはずです。古典とキッチュはめちゃくちゃ相性がいい事、そして、それらは詰まるところ同じだっていう事を。
これを機に日本人とかも早く気付いてくれたら良いのに。結果的にそういう物が公共性を浮き彫りにするのになー。
なんかキッチュはいつまでたっても認められませんなー。オタク・カルチャーがあるじゃないか、って言うけど、誰も言わないけど、やっぱりどっかでめちゃくちゃ嫌われて(差別されて)て、この国民性は根が深い。多分、過去に徹底的に貧しかった島国の歴史を持つ大衆上位型社会構造だから上部も下部も排除したいのか?
結果的に公共空間におけるキッチュ(原宿で踊ってた人とか、秋葉の歩行者天国)は陰謀だってぐらいキレイに無くなるし。あれは「通り魔」とか「沢本あすか」のせいだけじゃないと思う。
っていうのも、先日、国立新美術館に行ってみたら(高いんで展示は入らなかったけど)、めちゃくちゃ醜悪な雰囲気に包まれてたんだよー(文句)。
おばちゃんはがんがんぶつかってくるし、おっさんチョッキ着てつまんなそうにしてるし。マナーが悪いとか、ファッションが西欧的でないとかではなくて、おじちゃんおばちゃんの醜悪さ(と僕が感じたところ)は多分、無関心さだと思う。 そんな感じはそのままキッチュの概念に近いのにキッチュ嫌いって……。まぁ彼らは、それを楽しむ余裕を持とうっというメッセージを送ってるわけか。

このキュウイ、同じ形してるんですよ。昨今、CGの技術が異常に上がって、すごいことになってる。なんていうか、フォームジーとかはイラレの3D化って感じだけど、今はフォトショを3Dにした感じだわ。あほみたいにレンダリングに時間がかかるけど。
そのまじあり得ないクオリティーを誇る某レンダラのマテリアルギャラリーを眺めながら思ったのだが、一般的な素材っていうのは、その素材が放つ審美的価値が経済的価値に非常に依存されているっていう当り前のことが気になった。
ふつうの人は、ダイヤモンドはガラスとは圧倒的に違うという風な感じで、とうぜん高価なものは美しく見える。
それがわからない人はもう二流だねっていう、かんじの価値観。物の素材←→経済的価値の反復運動はあらゆるものを見るときに我々が無意識的に通すフィルター。
しかし、3Dソフトでマテリアルをあてがう態度は全くそこらへんの価値基準が不安定になる。ダイアモンドでできた住宅を人類が初めて見たのはこの手のソフトだと思うんですが、そういうのも真に迫る画質でぱぱっとできてしまう世界なのです。要するに、リアルな世界にも認知限界があり、そこに画像が到達している状態、つまり見分けがつかないレベルにまでCG技術は達している。
ここで、物にアウラを求める人(いわゆる、もの派)を不安にさせるのだけど、ほんとに素材に対する審美眼がCGを作っていると変わるのだ。これがこの投稿のテーマ。
素材とは複製不可能な経済的価値の高いものであればあるほど、素晴らしく見えるというのは前述した通りであるが、CGを作る現場においては「交換」ではなくて「複製」が行われる。そのことは物に対して徹底的に審美眼が変われる契機を生み出す。この審美的世界は残念ながら見る人より作ってる人がもっとも体験できる世界なのだが、だとしても、今までこういうことはほとんど無かったように思える。
マテリアルのデータっていうのは当然、情報の階層があって、上に載せる画像であったり、効果であったり、色であったり、反射、透過の性質であったりを組み合わせて作っていく。非常に構造的で、結構だれでも理解できる世界。
そこでは例えば、クロムとニッケルとステンレスの差、ガラスとプラスチックとダイヤモンドの差は反射、透過といった光に対する性質の差にすぎない。そこに微細なテクスチャが上乗せされると見事にリアルな物質に見えてくる。裏返せば、現実に存在する物が、これらの数値性能のマトリクスのすべてを網羅しているのわけではないので、より、組み合わせの分だけ発見的に多様な物を表象していくことができる。
当然現実がどうか、とか関係ない世界なので、より感知者があるイメージに近い表象を目指すわけだから、そこには当然、いわゆる「素材の美学」のような「鉄」なら「鉄」なりの使い方があるとかそういう職人性はなくて、もっと現象学者のような視点が存在する、と思います(僕がそうだから)。
このような物の価値判断を、物とそれが生み出す現象に 忠実であるという観点から、より「物質的な」視点になったといってしまおう。バーチャル世界だからというのが、逆説的に働く。(邪険に取る人がいるかもしれない けど、むしろ、この逆説はポエティックな現象だと思う方が素直ちゃん。)
CGデザイナーっていう人たちは多分、この膨大なマトリクスの上でダンスをする人たちである。個人的には写真の発明と似てる気がする。あんま気付かなかったけど。
良いとか悪いとか言ってるんじゃないですよ。いろいろ違くて新しい。
このようなものを賛美する美学に対して補足的な文章として、たまたま昨日読んだものから、
「哲学者が詩人たち、ミロシュのような大詩人に、
世界をいかにして個性化するかという教えをもとめると、
哲学者はただちに、世界は名詞の秩序にもとづくものではなくて、
形容詞の秩序にもとづくことを確信するにいたる。」
『ガストン・バシュラール / 空間の詩学』
なんか大海原に投げ飛ばされるような文章だけど、以下のようにも言っていて、
「愛された曲線は巣の力をもつ。すなわちそれは所有せよとよびかける。」
物の審美性にはこういう本質的なものも存在すると、僕も考えていて、それと環境によって揺れ動く審美性はある程度の相関関係にもあるし、どちらも含めて、知覚する際に審美的に感じたものは優れていると思うわけだから、両者をぐちゃぐちゃに混ぜて「世界を個性化」するために、CGってのは非常に面白い「素材」なんだと思います。(ぐだぐだ‥‥‥)
・
最後に今まで話してきた審美眼、経済的価値を除いて、「色・反射・透過・形」を重視する姿勢、ここに個人的には「記憶のイメージ」を付け加えたい。受け手の知覚はここから始まる気がするのです。

なんか、文章書いてたら、使わなくなっちゃったからupします。
この異形の石は台北の国立故宮博物院に収蔵されている「Meat-shaped stone(肉形石)」である。
我々はこれを目にしたとき、最終的には脳内では一つのものとして認識しなくてはならないのに、豚の角煮のイメージと石に関するイメージを一つの対象物に対して同時に持ってしまう。
この矛盾を和解させてくれるものは、やはりイメージの力以外あり得ないのではないか。結局のところ、イメージは二つのイメージの独自性を損なわないまま一つのイメージを作り上げることができる。
物の中には複数の対立的イメージを閉じ込める事によって物のイメージは魅力的になることは、この石が故宮博物院で最も人気の高い彫刻品の一つである事から容易に想像する事ができる。
そして、この矛盾するイメージ統合して魅力的なイメージに作り上げるのは、最終的には、制作者ではなく受け手の想像力にかかっている。
、ということです。


くそな生活。
くだらない問題が山積み。
脳内はドロドロぐちゃぐちゃ。
楽しい事と言えば歩き煙草→ポイ捨て、と、妄想。
なんとなく、考え方(もしくは建築的アイデア)が日々進化してるような勝手な憶測のみによってぎりぎり生かされてるような実感を受ける事があるわ。(その自発的自己憶測こそが、生きるっていうこと? → だとするならば、充実した生活をしていれば、この声は聞こえてこなくなり、やがて想像力は退化する?)
まぁ、それはそれでおいといて、ところで、
日頃から、デザインってジャンルは基本的にすごい敬遠してるんですが、たまに飲み屋でお世話になってる有名なデザイナーの方の仕事になかなか感銘を受けた。web本というカテゴリーのインターフェース構築。当人の日記も異常に面白い。そこで登場するデザイナーたちを見ていて思ったが、彼らはなんて軽やかに生きれるんだろうか。そう見えるだけだろうか?なんかすごく嫉妬したので理由を考えてみた。http://bccks.jp/bcck/10736/1/A/
オクタビオ・パスの言ってた、人間の中の<孤独性(リアル内的世界)>と<他者性(外的世界の内的再構築)>の二項対立でいくと、詩や芸術は孤独性を刺激するのに対して、デザインは他者性を刺激する。自分の世界を他人に見せる仕事をしているアーティストは自分自身もどうしても孤独がつきまとうけど、デザインは連帯を本質的な使命としているからなんか楽しそうだ。でも、情報(主にデザインに関する記号)を共有する=情報の単純化をしなくてはいけないから、やれる範疇が異常に狭まる。おそるおそる言うとするなら、建築に対するインテリアのような職人的「巧(たくみ)」の世界のイメージ。色々勉強すると、原理がすごく分かってしまって刺激が少ない、もしくは消費してしまうのが簡単(分かったからといって自分ができるとは限らないけど)っていう理由で、個人的にはふだんは避けてます。
でも、今日思ったのは、そういう性質では無い故に芸術とか人生を疎かにしてしまう可能性が高いっすね。全力投球はどっちもするんだけど、アーティストは自分を球にして投げる!みたいな。まぁ、そういうの嫌いじゃないんですけどね。ちなみに、紹介した日記は自分を球にして投げてます。デザイナーだけどアーティスト。

今の自分がこいつだったら、20cmの鼻でジャンプしようとしても
斜め後方にバウンドする感じだ。

人間中心主義の視線で見なければ、上の写真は高度200mから撮った人間の集合写真と同一の世界である。どのような写真の中にも、実は様々な世界が隠されているが、人はそれに気付かない。この場合気付くためには拡大が必要だ。
世界が200倍になったと考る事と、人が1/200になったと考える事に大した差はあるだろうか?
「空間とは人に属するものである」という左脳的機能ー経験作用さえなければ、問題なく、人は世界を無限に拡張する事が可能であった。世界が人を無限に収縮する事も同様に可能であった。世界は強いイメージを持つことができた。
つまり、原始的空間もしくはピュアな世界では、世界の大きさは伸縮性をもつ。裏返すと、スケールは人間中心的世界をぱきぱきに秩序立てるには欠かせない。
ぱきぱきとぐにょんぐにょん。
また、以下のようなアプローチも存在する。
シュルレアリスム作家、ルネ・ドーマルの「La Mont Analogue 類推の山」。この小説では人間中心的(ここでは「縮尺が合った」と表現される)山である、存在するかどうかも不明な世界最高峰の山(類推の山)を、実存する全ての山を極めてなお飽き足らぬ向上心をもった登場人物たちが目指す冒険小説である。この小説における山は、「縮尺が合って」はいるものの、「自然によってつくられたありのままの人間にとって、その峰は近づきがたく、だがその麓は近づきうるものでなければならない。それは唯一であり、地理学的に 実在しているはずだ。不可視のものの門は可視でなければならない。」
バベルの塔にみられるように、自己をより高みに達せようとする無限の衝動、則ち<高所衝動>が、冒険者たちを類推の山に目指させる。往々にしてそういう山は山頂(終わり)が存在してはいけない。こういう世界はうにょにょにょーんだ。
世界のモデルが「ぱきぱき(固定)」「ぐにょんぐにょん(不定形、超自由)」「うにょにょにょーん(一方発散)」とかいろいろありますよね。
コールハースの言うロボトミー化(建築の内外の不一致、乖離現象による建築形態の変形)もしくは、同じ形のグリッド基壇の上に自由な造形が展開されるような『囚われの球を持つ都市』は、あきらかに、「ぐにょんぐにょん」もしくは「うにょにょにょーん」の世界だ。それが実際に中国でリアライズされてきている。つまり世界は、「ぱきぱき」したものから、後者「ぐにょんぐにょん」「うにょにょにょーん」の世界に少しずつ変わりつつあるんではないでしょうか?
どうでもいいこと書いちゃったかも。

副題:二律背反するものの同一性が作る詩的イメージについて(怪‥‥。)
結構、本気で書きました。多分今までで二回目(一回目はジェフ・ウォール)。前回からの個人的最重要テーマ(多様性はどうまとまるか。反モダニズム。反言語説明主義。)に一貫性が作れて個人的には満足しながら文章書きました。
『弓と竪琴』オクタビオ・パス
前回の投稿において、槇と丹下のメタボリズムにおけるモノ、コトの対立について書いた。確かにそこには対立があったという事は確かであるが、今回はもっと抽象度を高めた話。モノ=コト、言い換えればモノとしての紙と、コトとしての燃えている紙を和解させるもの、イメージについて。
オクタビオ・パスは最後期のシュルレアリストにしてメキシコのノーベル文学賞作家の詩人で、この本『弓と竪琴』は彼の代表的詩論。これは、あらゆる表現主義者のための聖書であり、西欧的合理主義もしくは近代主義(モダニズム)に対する究極のアンチテーゼ本である。個人的なところでいくと、デビットリンチの作品の時間概念(僕らを悩ます)空間概念は、この本を援用しているとしか思えない一致ぶり。リンチの作品評はいままでかなり読んできたけど、今んとこ、パスの思想を引き合いに出した批評は発見していない。っていうか、マジこの本は今まで読んだ本で五指に入る面白さでした。
パスは言う。
「孤独は人間の条件の根本である。人間は自分が一人ぽっちであることを感じつつ、他者を探し求める唯一の存在である。その本性は‥‥‥他者の中に自己を実現したいと希求するところにある。人間とはノスタルジーであり、連帯の探求である」(『孤独の迷宮』)
まず、訳者の牛島信明による「オクタビオ・パス論」によると、パスの最も重要な関心は、人間における「孤独」と<他者>との「連帯」あるいは「共生」である。一人の人間の中に、自己と他者が共存しているという「二重性」。この、パスの「他者性」という中心的課題は、メキシコ人のアイデンティティーの問題として有名なメキシコ論『孤独の迷宮』で展開されるが、本書でそれはシュルレアリスムの詩と共鳴する。
「シュルレアリスムは、主体と、われわれにとってはいわゆる現実が引き受けている形態である客体との戦いを抹消せんとする、徹底的な試みとして現れる。古代の人びとにとって世界は、意識と同じように充実したものとして存在しており、人間と世界の関係は明快で自然なものであった。われわれにとって世界 の存在は激しい議論の形態をとる ー 一方では、世界は消散して意識のイメージとなるが、また一方では、意識は世界の反映なのである。シュルレアリスムの 冒険は、主体と客体の葛藤を解消せんとするものであるが故に、近代世界に対する攻撃である。 <〜> 客体を溶解するのと同じ酸が、主体をも分解してしまう。自我も無いし、創造者もいない。あるのは一種の詩の力だけで、これが所かまわず駆け巡り、根拠の無い、そして説明し難いイメージを生み出してゆく。」
シュルレアリスムにとっても、パスにおける自己にとっても、古来より二律背反しているとされているもの、主体と客体、自己と他者が、溶け合ったあと残るもの、(非常に形容し難い)根源的な主体もしくは自己のようなものを表出させようとしている。
(この「背反する二重性の同一性→一元論」こそが非常に特徴的でおもしろいところで、仮説としてもともと持っていたので、この本との出会いに涙しました。)
そして、パスはこの人間の二重性、つまり本源的回帰を啓示するものとしての詩的イメージを提案する。
「詩人は事物に名を与える ー これは羽毛であり、あれは石である。
そして不意に断言する ー 石は羽毛であり、これはあれである。」
「石はざらざらして <〜> 羽毛は羽毛のままであり、軽い。そのイメージ(石は羽毛である)はおどろおどろしいものとなる。なぜなら矛盾律に挑みかかるからである ー 重いものは軽いものである。相反するものの同一性を言明することによって、それはわれわれの思考の基盤を侵犯する。従って、イメージの詩的現実は事実を望みえない。」
このような考えの前提として
「人が手を触れるものは何でも志向性を帯びることになる ー <・・・に向かって>行くのである。 人間の世界は意味の世界である。それは曖昧性、矛盾、狂気、あるいは混乱を耐えることはできるが意味の欠如を耐える事はできない。ほかならぬ沈黙にさえ記号が住み着いている。」(それは、近代の生んだ、悪名高き抽象概念、「空間」でさえ!!)
この考え方においては、矛盾した(と、われわれが考える)文章も例外なくそれ自体に意味をおびる。ここでいう「イメージ」とは、この文章にまさに起こりつつある意味の欠如、「沈黙」に対抗する必死の手段である。パスは、ポエジー(詩性の必要条件となるもの→詩的なもの、つまりポエジーを有するもの)によって生まれるイメージこそが芸術の本質的統一(音楽も絵画も詩も同様に芸術であると言えること)を成し遂げると考えているわけだが、その「イメージ」もまた、無意味と背中合わせであり、
イメージとは無意味であり、これはあれである
という、ややこっしい状態なわけである。つまり、無意味であるからこそイメージの必要性はつよくなるという意味で、早速、無意味は無意味でなくなったわけだ。つまりつまり無意味ってのは意味であり、イメージの無意味性はイメージそのものである。(ジョン・ケージの言うsilentという名の音の存在を想起せよ!)
パスの考えるポエジーの世界では、事実かどうかA→Bという順説より、逆説と沈黙こそが神である。
この「背反するものの同一性」について、パスはそれらの「動的かつ必然的共存」のみならず「究極的同一性」を見いだし、そこに西欧の合理的思想の限界を糾弾する。西欧人にとって、思考のコスモス(宇宙)すなわちカオス(混沌)からの世界の再創造は、存在と非存在の間に線を引くことである。火は水ではない。
そして、パスは、この非西欧的、非合理的な、背反するものの同一的な詩的イメージを人間の自己と他者の二重性を啓示するもの、根源回帰のきっかけになるものと考えるわけである。まぁ言ってみれば自己啓発。詩と魔術を非常に近いものと考える詩人オクタビオ・パスにとって自然なかんじ。
そして、西欧的な<これとあれ>ではなく、<これすなわちあれ>、つまりは背反するものの同一は東洋思想(仏教やヒンズー教、道教など)の根幹をなすとパスは考える。
荘子曰く、
「これにあらざるもの無し。あれにあらざるもの無し。これはあれとの関係において生きる。これとあれの相互依存の教えかくのごとし。生は死に対して生なり。この逆もまた真なり。肯定は否定に対して肯定なり。この逆もまた真なり。よって、もし人これに依らば、あれを否定するにいたるべし。しかれども、これ、己の肯定と否定を備え、かつ、己のこれとあれを生ず。よって真の賢人と言えるは、これとあれを退け、<道>につく。」
そしてパス続けて曰く(既に賢者!)
「これとあれ、石と羽毛が融合する時点がある。その瞬間はもろもろの時代の前にも後にもなく、またその始めにも終わりにもない(!)。 <〜> それは連続の王国 ー まさしく相対的対立の世界 ー に住んでいるのではなく、それぞれの瞬間の中にあるのである。」
‥‥‥泣けてきませんか?
「それは自らを生み出し、湧き出させている。そして絶えざる始めである終わりに向けて自らを開いている時間そのものである。噴出、泉。そこ、存在の ー あるいは、存在することの、と言った方が良いかもしれない ー 深奥では、石と羽毛、軽いものと重いもの、生きることと死ぬこと、実在することが、ひとつにして同じものなのである。」
‥お経を模写する行為に入ってます。模写っぷりが心酔っぷりだと思ってください。
「人間と世界、意識と存在、存在と実存の究極的同一性は、人間の最も古い信念であり、科学と宗教、魔術と詩の根源である。われわれのあらゆる企ては、この二つの世界を結ぶ古き小道、忘れられた道を発見することに向けられる。われわれの探求は、対立するものの普遍的照応、その始原的同一性の反映を再発見せんとする、あるいは立証せんとする傾向を持つ。」
こういう背反するものの究極的に溶け合った状態、そして無に至る境地がおそらく悟りの境地であるだろうと、東洋の偉大な哲学者たちは考えたらしい。僕の予想だと(必然的に悟りは分かりえないし、言語化不能なことは目をつぶってトライアルとして言うと)、あらゆる物の関係に対して直線的な相対関係をつくり、溶かしていき(同一化)、最終的には空なり無みたいなものを中心として、放射状にあらゆるものが無限遠にのびていって球体を作るイメージが悟り。ここでいう球は、全体にして無。まぁ、とにかく悟りと言うのは基本的に伝承不可能なのが大原則であるが、その存在を知らすために逆説的に、詩的イメージが必要なのである。ここに、背反するものが弁証法を経て、言葉を超越した(言い表すことのできない)イメージに到達する詩的性質の崇高さがある。(この「崇高」な感じは僕らにとっては、原始的魔術のイメージから来てるきがする)。
トルコのイスラム教神秘主義メヴレヴィー教団のSema(セマー) 反時計回りにひたすら回転する旋回舞踏 右手は天、左手は地を向け、トランス状態→空の状態に入っていく。スカートの広がりは宇宙を表し、回り続ける事で神との同化(仏教でいう涅槃)を目指す。
ちなみに、悟入状態(さとっちゃった状態)における仏の微笑は、悟ったことの表象であると同時に、「その道の大家が何も見出しえなかったことも示しうる」とか。ロランバルトの『表徴の帝国』における表徴の<零度>/<裂け目>ってのは要するにこの理論の二番煎じ。日本人もこのような ー 虚空、すなわち、森羅万象の境地 ー を持っているとされる。日本人の言語をみても、西洋のように一つ一つ定義していって完結に意味の交換的に説明するのではなくて、「あれってやばいよね。」みたいに、代名詞を多用したり、何も言わなかったり(書かなかったり)して何かを伝えようとする。この態度は、<これすなわちあれ>。これは意味の交換の精度を捨てる代わりに、言葉の多様性、冗長性を捨てない態度だと思えば良いと思う。
くどいかも知れないけどまとめると、ここでいう悟りはすなわち、この意味の交換をゼロに限りなく近づけ、そのかわり、言葉の意味の広がりを無限に開く、すなわち、あらゆるものを包括する事。それは同時にあらゆるものを包括しつつ、それらに何の差異も見出さない、無なのである。ここにある衝突、もしくは緊張は、絶対的無限と相対的零度の対立とも読むことができる。そこに、人間性なるものを問うならば、意味の拡大は何者にも縛られない主体のマイ・コスモスの無限の広がりであり、同時に、交換の消滅は人間の本質的孤独、つまり関わり合いの零度を言い表していると読むことができる。
これは、僕の興味で言えば、「静止した状態の紙は燃えた状態の紙である」→「建築におけるモノはゲンショウである」。結局、建築は物であるか、現象であるか、もしくはどっちの視点で眺める方が良いか、っという前回の最後にちょろっと書いた議論は、実はあまり意味がなくて(すいません)、物と事の相克の果てにある、「建築」と我々が呼んではいるものの漠然とした「名称」が指し示す記号概念ではなく、建築的な詩的イメージ、全体性、緊張状態にある「物と事の複合体」にこそ、建築の詩性というものは強く宿ると考られる。
ただし、物と事という対立は存在である場合がほとんどであって、表現には向かないかもしれない。まぁ、詩性を体現する弁証状態は、物と事に限らず、「内ー外」だったり、「構造ー空間」だったり、「新ー旧」だったり色々あると思います。ただ「ものこと」が一番激しいと言っただけ。あ、そういえば絵画と建築の緊張状態を書いた「対立の家」とかいう恥ずかしい文章をm1の時、書いたかも。
結局、パスの言う「イメージ」とは、多様性を緊張的関係のまま、個々の要素を変質させないまま、統合することで全く新しい現実を作り出す契機となるものである。シュルレアリスム(ダダイズム?)の有名な、「こうもり傘とミシン台の出会い」の美学ってのは究極的にはこういうことなのであろう。
決定的に言語的意思決定と合理主義な価値観が横行する世の中だから(世の中自体を外から見ると、とってもシュルレアリスティックで面白いんだけど)、詩性を失った純粋工学の世界だからこそ、ここは皮肉ではなく能動的に、現実の多様性を再生、統合できる「ポエジー(!)」路線で行こうではないか、っていうのが僕の意見です。
〜〜小休止〜〜(サザンのジャケットより、「これが愛の原子爆弾だ!」)
ちなみに、文章読んでて、ふと、セックスが頭によぎりました。
「男は女で逆もまたしかり。私はあなたで逆もまたしかり。僕らは宇宙で逆もまたしかり。」と無根拠に走り書き。
なんだ。どうやら、しっかりあるみたいですね。タントラ教(インドにおける世界最古の信仰とされている)!この宗教の教義では、「肉体を宇宙の隠喩、あるいはイメージ」とすることで、性交を通して宇宙の真理を知るらしい。やっぱ東洋思想のほうがしっくりくるなー。
詩とポエジーについて補習 (写経をもうちょっとしたかっただけだけど。)
「ポエジーは認識、救済、力、放棄である。世界を変えうる作用としての詩的行為は、本質的に革命的なものであり、また、精神的運動なるがゆえに、内 的解放の一方法である。ポエジーはこの世界を啓示し、さらにもう一つの世界を創造する。選良のパンであり、同時に呪われた食物である。」
「ポエジーはあらゆる詩の総和から生まれるものではない。詩的創造は、それ自体が自己充足的な統一体である。」
「詩的創造に おいては、職人たちの虚しい美意識が求めるような素材や道具に対する勝利など存在せず、あるのは素材(詩でいうところの言葉)の解放である。ことば、音、 色、そしてその他の素材は、詩の領域に入るやいなや変質をこうむる。それらは意味や石の伝達手段である事をやめずに、<ほかのもの>になるのである。その 変質はー科学技術の場合とは異なってーその本然的な性質を放棄する事ではなく、それに戻ることである。」
「両面価値的存在である詩語は、十 全にその本来あるべきものーリズム、色、記号内容ーであると同時に、またそれ以外のものーイメージーでもある。ポエジーは、石、色、言葉、そして音をイ メージに変える。イメージであるというこの2番目の特徴、そして聞く人に、あるいは見る人にイメージの星座を喚起するこの奇妙な力は、あらゆる芸術作品を 詩に変える。<〜>詩は言語ー意味と意味の伝達ーであり続けながら、言語の彼方にある何かである。しかし、言語の彼方にある何かには、言語を介してしか到 達する事ができない。絵画は、それが絵画的言語を超えた何かであれば詩であろう。」(ここの絵画を建築に変える事はもちろんできる)
「詠嘆 の場合、ことばは虚空へ投げ出された叫びであって、対話者を必要としない。ことばが抽象的思考の道具である時は、意味がすべてをー聞き手と言語的快感をー 貪り食ってしまう。交換の手段となると、ことばは堕落する。<〜>これらに共通する不具状態の原因は、言語がわれわれの道具、手段、ものになるところにあ る。<〜>しかし詩人はことばを利用しない。詩人はその僕なのである。ことばに仕えることによって、彼はことばに本来の性質を戻し、その存在を回復させる のである。<〜>まず第一に、一般に思考によってさげすまれてきた、その柔軟な、音響的価値、第二に、情緒的価値、そして最後に、意味的価値である。」

ぁぁあー くじゃく好きだー。上野動物園で一番心引かれたのは何を隠そう孔雀さんだが、子供の頃初めて見たエロアニメ「孔雀王」(徐に主人公の目の前で姫が犯されるシーン)と関係があるかと言えば、無い。
そんな孔雀がミュンヘンの動物園では、他の動物たちの引き立て役として一緒の島に居させられていたのには、ずいぶん腹が立った。
ところで、
1 求愛のための模様なのだから、孔雀自身はこういうのを美しく思ってる。
2 人も孔雀の模様を美しく思っている。
↓
3 普遍的な美?
まぁ自分で言っといてなんですけど、普遍的な美なんて無いですよね。ここで言ってるのは、ある、歴史をすっとばして人類が共通で感じるような美という程度のものです。
多分、孔雀と人が見えてる世界は絶対違うから、普遍の美とは違いますかね。とすると、人と人においても美意識は確実には一致しないとも言えるし(逆に意外と一致しているとも言えるが・・)こういう事はあまり探求しても報われないかもしれませんね。結局造形作家にとって目指すべき場所はより多くの賛同を得るor専門的な人の共通の審美眼に叶う事で・・・。どうでもいいつまんない話だなー。自己完結な疑問でした。
ちょうど良いから(何故か?)、僕が今編み出した美の類型を書いとくと(全く懲りてない。)
α 正の情報を伴うもの
(女性は優秀な精子が欲しいので、賢い人はかっこ良く見えるようになっている、合理的な形(この言葉をポジティブに使用した時)は美しい、みたいな事とか)
が世の「美しい」や「かっこいい」の大半を担ってる気がしますね。神秘主義たちの図像崇拝ですらこれが多いと思う。
β 負の情報を全く伴わないもの
(何やら分からないけど力強い形、理屈は分からんけどそこに存在する凄み、見た事の無い物など)
このような審美眼は古典な気がするけど、感度のいい人(霊感といってもよいかも)は未だにこれに引かれるわけです。そしてこれからの時代に求められるポテンシャルは感じるのだけど、どうして良いのか分からないのです。シュルレアリスムの審美眼もこれに属すと思います。
そして
γ ? 謎なんですね。
「かわいい」ってのは根本的にαでもβでもないのかも。そういうものからずれてる感覚で、現象としては面白い。ある種のフェティッシュなんで、そういう感覚がないと全然楽しめない閉鎖的な価値観だからいろいろ議論を呼んでますね。ちなみに、これは「美」とは無関係という意見は受け付けません。形になるもの、そこに美意識無き物は無し。
あとがき
ちなみにバタイユは、α的な美を侵犯する行為にエロスを見いだしてます。つまり、人間性(当時のヨーロッパの人の感覚、美意識での)、それを思わす端正な顔(なるたけ動物、特に類人猿と離れた方が美しく見えるらしい)を動物的行為、つまりセックスによって侵犯すると言っている(ちなみにレオナルドダビンチが言うように性器はなんと言おうと美的に醜いものらしい、なるほど)。そこにエロティシズムをみいだすわけですが、そのような興味がβ的美意識集団であるシュールレアリスト達との対立をもたらすのは非常に僕的には納得ができるわけです。ちなみにバタイユはアンドレ・ブルトンのライバルとされていました。
おわり

本来写真ブログのつもりで始めたブログがいつの間にやら文章でギシギシになってしまったので、ここ1ヶ月で西日本、中国で発見した風景をアップします。さくっとコメント入れていきます。多分ネタが切れるので一回で祭りどころか写真ブログ路線は終わります。
(※結構、秀逸な現代建築も見たんだが、あまりこの場に引っかからなかったのは以下紹介するものが凄すぎるだけで、それらが琴線を弾かなかった訳では無い。)
投入堂 ☆☆☆☆☆
多分行ってみた人でないと共有できないと思うんで、パス。
出雲大社 ☆☆☆☆☆
出雲大社は現在の日本人のスケール感とはまったく違うと思いました。いわゆる日本の神様の家としては大きすぎる。めちゃくちゃ戸惑いました。しかしこの建築がメタボリストのメガストラクチャーに対する倫理観(日本的な物を作るという)を大いに励ました事は事実なんじゃないでしょうか。
旧日本軍毒ガス貯蔵庫+発電所跡 ☆☆☆☆☆
上の毒ガス貯蔵庫は完全に邪悪な神殿風。千羽鶴や地蔵が転がる始末。下の発電所は打って変わって、驚くほど清々しく内外の境界が薄く強度の強いサナーのような空間でした。青木純の言う「原っぱ」とはこういう事だと思います。
小倉城 +ショッピングセンター ☆☆☆☆☆
ジョン・ジャーディーによるscがインポーズされた小倉城。地方都市の観光資源は大抵「城」だ、って教授がおっしゃっていたが、その城がもう一つの強力な観光資源ー大型ショッピングセンターと合体!休日は結構、賑わってらっしゃいます。
深圳のメガ軸線 ☆☆☆☆☆
小倉のジョン・ジャーディーと同じティストの完全に狂っちゃってるビルは、中国人の建築家が作った市民中心(市役所等)で、この屋根のうねったところは巨大な都市軸(黒川紀章デザイン)と対応しています。写真は全長の1/2にも満たないです。正面に丹下のピースセンター風のコンベンションセンター、側面にCBDの摩天楼(OMAも設計中)逆サイドはシンメトリーに近い山があり頂上に巨大な鄧小平の像(目視可能)。現代においても軸線は有効。人間的空間ゼロ。すばらしい!(こんな誇大妄想が機能する(受け手も妄想する)シュルレアリスティックな情況万歳(まんせー))。
ちなみに鄧小平は深圳の経済特区としての発展の最大貢献者として神扱い(ほぼ関羽並み)です。
天一閣(寧波)☆☆☆☆☆
舞台のドームの内側にらせん→頂部に鏡→異界という見事なミクロコスモス表現。日本の能舞台との違いを考えると、やはり決定的に中国と日本は感性が違うなぁと改めてなっとく。すなわち、するりと横から現れる水平的な移動を演出する神(憑イ型シャーマニズム)に対して、これは明らかに上昇的なベクトルのトランスをするシャーマン(脱魂的シャーマニズム)の舞台。
採掘場 ☆☆☆☆☆
アスプルンドの葬祭場のランドスケープを思わせる、地形に対するマンパワー芸術。こっちの方がトポロジーな感じが好み。つまり世界遺産級だが、観光地ではないのでほとんど知る人のいない超穴場です。まじ感動して震えた。最近の現代建築の空間がメタファーにしている状景に非常に近いのではと思われるこれらの異形な柱と梁、それらが一体となった天井、そして、よく考えると地面までも同じ素材で繋がっているのです。こういう現代建築良く見ませんか?台北あたりとか。
ちなみにこの採掘場は数千年前?からあり、ここの石は柔らかめなので、中国全土に運ばれ、多くの仏像が切り出されたようです。
あとがき
ものすごい消費的な取り上げ方をしてしまったが、実は個人的にはどれもこれも僕の感動の涙でびしょびしょです。でもそれを一生懸命人に伝えるモチベーションは無かったです。ごめんなさい。
PS 3月に研究室旅行で行った飛騨高山の吉島家住宅も載せたかったけど良い写真がなかったです。

レム・コールハースによる磯崎新へのインタビューに行ってきました。
テーマはメタボリズム。このテーマは2年前に芸大で行われた講演も聞きにいったので2度目。
前回の講演で個人的なレムの興味の解釈は、
日本の60年代のメタボリズム運動(磯崎的にいうと、最後の近代建築運動)を研究する事で、現在急激に開発されているドバイのプロジェクトとの関連性を見いだそうとしているってことで、具体的には、有名な人工島がヤシの木の形をしていたり、磯崎のメタボリ時代の作品をアラブの富豪が建てようとしたりと。そこで僕は、ある社会的状況(ここでは急激な経済の発展、インフラ整備)がメタボリックな代謝的形態を求める、という事を言おうとしていたのでは、という事で理解をしていました。
今回の講演はどうやらその読みはちょっとずれてた事がわかって、レムがメタボリズム運動で注目している点は、メタボリズムが芸術家的な建築家によって進められたデザイン様式ではなく、国のサポートが強力に働いた運動であり、その運動が建築史において初めて非ヨーロッパにおいて芸術運動成り得たこと、その事を学ぶ事は、現在のアラブの建築の状況と照らし合わせると非常に価値があるという事でした。そういう意味で、メタボリズ運動を一段落させた後アラブで仕事をし始めた「丹下」は凄いのですが、今回のインタビューではそこまで面白い話には発展せず……。
建築表現ではなくて建築成立状況が関心の中心にあるので、作品の分析ではなくインタビューという形式を選んでいるらしいです。
建築の形式や空間でなくて建築が建つ状況に興味を持つ姿勢はまさにジャーナリストで、相変わらず新鮮でした。しかし同時に、僕らのような立場の人間(下請け的建築家)にとって、有効な建築理論を現在の彼の活動からはあまり得られないのではとも最近思います。深い現代思想を汲み取る事の意味を見いだす事は非常に重要だと直感的には思うけど、僕らがそれを実践する事、もしくは、それに影響を受けて人に伝えるレベルで建築に昇華する事でさえ、非常に難しい事だという実感も同時にあるからです。相変わらずなかなか不安にさせる人です。
まぁ、「建築は政治から脱却しなければならない」(ここでは、『次の表現に行くために政治を脱却すべし』と解釈しました。なぜなら、序盤に「建築家は設計する際、ユートピアの要素を少しも持たない奴は死ね〜」みたいな事を言ってたから。)という言葉は本当に現代において建築文化の頂点を担う人物として彼を信頼できる言葉で救いでしたけど。
インタビューの内容はどっかのブログとかで拾ってください。あんまりないかもしれないけど。
個人的に興味があったのは、
1 万博が閉幕して6ヶ月で壊された事を磯崎は「ユートピアの廃墟」とみて、その後ユートピアを消し去る芸術運動を68−70(73?)までした。そこで生まれたのはある種のタブラ・ラサでそこから新しく建築を考える際、ピュアな言語であるプラトン立体(群馬県立近代美術館で実践)から始めるという思考の流れを組み立てた。その後は建築家は目標を消してどう走るかを思考しだす事となる。
この話の流れで、飛び入りの浅田彰が「タブラ・ラサとプラトン立体は等価だ」と言っていたのが興味深い。
個人的には、タブラ・ラサ、ユートピアと建築の思考が繰り返されたあと、ユートピアの存在の信頼が失墜して、現代において「ずーとタブラ・ラサ状態」(裏返すとタブラ・ラサが無いとも言える。磯崎の言葉だと、「目標なく走る時代」でもいいとおもう。)において、建築理論無視の発見的スタイルのスターキテクト時代が到来した、と読めるのでは、と思った。レム自体がスターキテクトの頂点の一人に立ちながらその居心地の悪さを訴えるのは、「ずーとタブラ・ラサ状態」に対するユートピアを見いだせている自信があるからではないだろうか。
2 磯崎が言うには、「進歩と調和」というコンセプトに対して、岡本太郎は「退行と逸脱」という裏コンセプトを考えたらしい。具体的には、お祭り広場の水平性(モダニズム建築の要素)に対して岡本太郎は垂直的な太陽の塔で答えたのだが、丹下が建築家はコンダクターが役割という思想を持っていたのに対して、アーティストである岡本がこういう緊張的な対立構図をアーティストが求めた事が非常に面白い。
こういう調和VS異物対立の二項対立は、現在の建築家の中でも未だに建築に対する審美眼の最も大きな対立であって、僕の中でも最上位な興味の一つです。内藤・ずんとー派とレム派、デザインと芸術、物作りとアカデミズム、手と頭など色々関連があるでしょう。
対立的な要素を建築に入れまくる建築家のレムが「退屈」という言葉を建築や都市に対する一つの評価基準にしているのも示唆的ですな。LESS IS MORE / LESS IS BORE 一応、建築史的にはミースとベーンチューリの対立とも考えられなくない?うーん。便利な物が聖なる物に昇華した日本文化表象の事例ってあんまないから、まぁうーん。MORE IS MOREが流行らんのもなんか分からなくもないけど、一般人の普通の感覚的にはLESS IS BOREではあるでしょ、とかは思うけどなー。
あと、普通に磯崎新の建築も素晴らしかった。当時の作品にはシンメトリーが多く使われているように思えたが、最近はシンメトリーはなんか嫌われてるなー。僕大好きだけど。権威的だと思われるのは、きっと空間のせいではなくて、それを作った建築家という存在を強く連想させる形態がシンメトリーで、その連想と社会的建築家のイメージが悪い意味で合体するからでしょう。世の中の建築家の立場が変われば見え方もまた変わるんでしょうか?


前回の続き
実際の講演をきいて気になった箇所をピックアップしました。
基本的に、右脳は今を司っているのに対して、左脳は過去、未来を司っていて、両者は別々に考えているそうです。ちなみにこの人は基本的に人間の主体は心臓(ハート)じゃなくて、脳みそ(ブレイン)だと思ってますね。
『 I am an energy being connected to the energy all around me through the consciousness of my right hemisphere. We are energy beings connected to one another through the consciousness of our right hemispheres as one human family. And right here, right now, all we are brothers and sisters on this planet, here to make the world a better place. And in this moment we are perfect. We are whole. And we are beautiful.』
『But perhaps most important, it’s that little voice that says to me, “I am. I am.” And as soon as my left hemisphere says to me “I am,” I become separate. I become a single solid individual separate from the energy flow around me and separate from you.』
右脳はかんぺっき!!!に自由なんですって。つまり、過去や未来に毒されずに物を感じられる。多分、彼女はその無垢な思考/存在に「宇宙の意思」「エナジー・フロー」とかとの接続を主張してて、左脳はそれを絶対的に個人に切り分ける(つまり思考も個人の思考レベルに落とす)機能をするのだとちょっと興味無さげに語るんです。
これは何気に気付かなかった、っていうか知らなかった。知ってそうだけど。全体的にこのプレゼンテーションの面白いところは右脳だけっていう環境にフォーカスしているところ。右脳っていうのは常に左脳との相互関係の中にしか見いだせないとなんとなく考えてしまう癖があった。きっとほとんどの人がそうでしょう。右脳だけが独立すると生まれるやばい世界についてまったく考えられていなかった。
Jill Bolte Taylorは、主に右脳に興味があって、左脳が脳卒中で機能障害を起こした時、完全にニルバーナを見た!と何度も叫んでるんです。それも空間体験的な言い方で。まじやばー。
例えば
『and I realize that everything inside of my body has slowed way down. And every step is very rigid and very deliberate. There’s no fluidity to my pace, and there’s this constriction in my area of perceptions so I’m just focused on internal systems. 』
左脳機能停止で空間認知が固くなる。空間認知と思考は別に働かせられる。
『And I look down at my arm and I realize that I can no longer define the boundaries of my body. I can’t define where I begin and where I end. Because the atoms and the molecules of my arm blended with the atoms and molecules of the wall. And all I could detect was this energy. Energy. And I’m asking myself, “What is wrong with me, what is going on?” And in that moment, my brain chatter, my left hemisphere brain chatter went totally silent. Just like someone took a remote control and pushed the mute button and — total silence.
And at first I was shocked to find myself inside of a silent mind. But then I was immediately captivated by the magnificence of energy around me. And because I could no longer identify the boundaries of my body, I felt enormous and expansive. I felt at one with all the energy that was, and it was beautiful there.』
『 But it was beautiful there. Imagine what it would be like to be totally disconnected from your brain chatter that connects you to the external world. So here I am in this space and any stress related to my, to my job, it was gone. And I felt lighter in my body. And imagine all of the relationships in the external world and the many stressors related to any of those, they were gone. I felt a sense of peacefulness. And imagine what it would feel like to lose 37 years of emotional baggage! I felt euphoria. Euphoria was beautiful
『 I picture a world filled with beautiful, peaceful, compassionate, loving people who knew that they could come to this space at any time. And that they could purposely choose to step to the right of their left hemispheres and find this peace.』
この種の魅力は純粋な暗闇を眺める魅力(見た事ありますか?)と似てるんではないでしょうか。あの自己の精神が投影される美しい光景!!!僕は脳卒中体験してないから分からんけど、おそらくパ ターン認識一切なしのマッシブな物質の世界が、「the magnificence of energy around me」なんでしょう。彼女はそこにニルバーナを見いだしたということです。
どう解釈してもいいし、なんも解釈しなくてもいいものを「美しく」「平和なもの」と感じられたのは恐らく、彼女の素晴らしい想像力と審美眼なくして不可能であると思うんです。つまり、僕、最近めちゃくちゃ確信がある事で、「想像力」がいわゆる美を作るんだとおもうんですよね。美しいとされるものには想像力を喚起する力と想像力を共有させる力があるのではないか、と。たとえば遺跡とかわかりやすくそうなんでは。まぁ多くの人にとってそんな事分かりたくないだろうし、どうでもいいだろうから、どうでもいいのだろうけど。
そんで最後の締めが面白い。
『So who are we? We are the life force power of the universe, with manual dexterity and two cognitive minds. And we have the power to choose, moment by moment, who and how we want to be in the world. Right here right now, I can step into the consciousness of my right hemisphere where we are — I am — the life force power of the universe, and the life force power of the 50 trillion beautiful molecular geniuses that make up my form. At one with all that is. Or I can choose to step into the consciousness of my left hemisphere. where I become a single individual, a solid, separate from the flow, separate from you. I am Dr. Jill Bolte Taylor, intellectual, neuroanatomist. These are the “we” inside of me.
Which would you choose? Which do you choose? And when? I believe that the more time we spend choosing to run the deep inner peace circuitry of our right hemispheres, the more peace we will project into the world and the more peaceful our planet will be. And I thought that was an idea worth spreading.』
宇宙と繋がるか一人の人間として生きるか、みたいな無茶な選択を迫られてるような気がします。ていうか、繋がれ〜みたいな。「the life force power of the universe」!!! うーん。言霊を感じる。
全体的に脳みそ教の教祖の一つのイデオロギーにすぎないのだけど、めっぽう強烈なパンチがあるんですわ。なかなかこういうニルバーナ体験を客観的に語れる人はいないですよ。ありがたい文章です。是非プレゼンテーションの方をお聞きください。
リンク→http://blog.ted.com/2008/03/jill_bolte_tayl.php#morehttp://

に示唆的な文章です。http://wiredvision.jp/
『神経の専門家であるTaylor氏は、自身の体が徐々に機能を停止する様子をつぶさに観察していた。同氏は、まるで好奇心の旺盛な探検家が観察記録をつけるように、体が段階的に衰えていくのを4時間にわたって見つめた。最初に失ったのは、自分自身と周りにあるものが別物であることを認識する能力だった。
いったん、話を最初に戻そう。Taylor氏は自身の脳と体に起こったことを語る前に、脊髄(せきずい)が付いた本物の脳を取り出した。そして、右脳と左脳の機能の違いを説明した。
同氏によると、右脳は現在をつかさどっているという。右脳は感覚器官から送られてくる情報を処理し、何が見えるか、聞こえるか、どんなにおいがするか、どんな手触りかといった、その瞬間の状況を教えてくれる。
一方、左脳は「現在のコラージュ」を作り、詳細を拾い出して分類する。そして、自分が過去に学んできたあらゆるものと結び付け、その結果を未来に投影して可能性を判断する。Taylor氏によると、頭の中で喋り、「私は私だ」と主張する声は左脳に存在するという。自分と周りにある景色とが別物であることを教えてくれるのも左脳で、Taylor氏は脳卒中が起きている間、こうした左脳の機能を一時的に失った。
1996年12月10日の朝、Taylor氏は目覚めると、左目の奥にずきずきと激しい痛みを覚えた。痛みは同氏を苦しめながら、波のように押し寄せたり引いていったりした。それでも、自分に何が起きているのかわからず、Taylor氏はいつもの朝の日課にとりかかった。
エクササイズマシンに乗って、自分の両手を見下ろすと、原始的なかぎづめのように見えたという。同氏は自分の体を自分のものと認識できなかった。
「自分の意識が、自分を自分の人格だと認識するのをやめ、謎の人物がこの体験をしているという意識へと変わってしまったかのようだった」とTaylor氏は振り返る。
Taylor氏は、自分の体がどこで終わり、どこから周りにあるものが始まっているか、境界までがわからなくなった。自分の腕の分子が壁の分子と混ざっている。自分が大きく広がって、周りにあるすべてのエネルギーとつながっているような感覚で、穏やかな気持ちになった。
「37年分の心の重荷が消えたらどう感じるか、想像してほしい」とTaylor氏は言った。
そして、仕事に行かなければならないと思いついたのだが、そのとき、Taylor氏の右腕がまひしてきた。ここでようやく、脳卒中が起きていることに気づいた。
Taylor氏が言うには、同氏の脳は動揺することもなく、「わあ、すごい」と言ったという。やはり科学者の考え方は普通の人とは違う。
Taylor氏は職場に電話することにしたが、電話番号がわからなくなっていた。そこで、名刺の束を引っ張り出し、職場の番号が載っているものを探した。3分の1を見終えるのに45分かかった。そのころには、脳内の出血が拡大し、電話の使い方もわからなくなった。
Taylor氏は意識がはっきりする瞬間を待った。周期的にはっきりするときがくるのだ。しかし、1枚の名刺に書かれた電話番号をダイヤルしようとしても、数字はくねくねした線にしか見えなかった。
それで、名刺にある線の形と、電話機に書いてある線の形が一致するものを1つずつ見つけて、ついに同僚と話すことができた。電話に出た同僚の言葉は「ワー、ワー、ワー」としか聞こえなかった。マンガ『ピーナッツ』に登場する大人たちが発するような声だ。返事をしようとして口を開けたのだが、出てくるのは同じ音だけだった。
この後、救急車に乗せられたTaylor氏は、体内のエネルギーが自分から離れていき、精神が白旗を揚げるのを感じた。
「あの瞬間、もう私は自分の人生の振付師ではないと悟った」とTaylor氏は振り返る。同氏はその日の午後に目を覚まし、自分がまだ生きていることに驚いた。2週間半後に手術が行なわれ、同氏の頭からゴルフボール大の血栓が取り除かれた。
それから完治までに8年がかかった。』
これはすごいです。結局デザインに限らず、あらゆる表象は右脳と左脳の使い方に依存するわけですね。人によっては右脳よりの知覚をする人もいるし(僕はそうです。)左脳よりの人もいるみたいです。見えてる物が全然違う事が彼女の文章や動画からも容易に予想できます。面白いなー、人間。
『エクササイズマシンに乗って、自分の両手を見下ろすと、原始的なかぎづめのように見えたという。』
これに萌えたんですわ、完全に!!!
左脳情報を外してやるともっとも慣れ親しんでる手が、力強い表象に見えたみたいです。(ここでは恐らく、すでに手にもかぎ爪にも象徴作用が起こらないにもかかわらず!)逆説的に、記号的なコンテクストが無かったから『かぎづめ』のような捉えどころの無いものに変化したといえるかもしれません。
建築の空間っていうのは他のオブジェクトに比べて圧倒的に抽象度が高くて、記号を排しやすい造形文化だと思います。例えば安藤忠雄の空間なんかはその代表的な物と言えて、彼の作品はとにかく左脳を使わせにくくするのでしょう。そういうものを一見、身体性と呼ぶ人もいるかもしれないけど、左脳も一応身体なので語法として間違ってると思います。
また、このような右脳と左脳の機能分割は建築、芸術におけるモダニズムとシュールレアリズムの弁証的な表現の流れという歴史観とも対応可能だと思います。抽象と具象、社会主義思想と資本主義思想、言語と感性。
その文脈で右脳的な記号はあるのか?という疑問もわいてきました。よく、画家が隠して持っているモチーフなどはそうかもしれない。例えばピカソのミノタウルスとか。または、左脳的な抽象性。記号が集合の仕方によって抽象化したような風景のイメージとかも。原広司、コールハース。 矛盾してる? そうでは無いんじゃないかと僕は考えてるけどこれ以上は秘密ね。あんま言語化されてないし、答えが無い方が今んとこ面白そうだ。建築や美術で表現すれば良い。とにかく脳という知覚器官は所属文化と呼応して無限の可能性を表象に与えてくれるでしょう。将来、この二つの人類文化の右脳と左脳の倒錯的状況は統合されるのではないでしょうか、と思ってるんです。
PS おまけフリーメーソンのへそピラミッド

今さら気付いたけど、2年前ぐらいの新島で撮ったこの写真の彫刻たちのプロポーション
と背後の完璧な暗黒物質。これは理想的なんじゃないか、と。写真としてじゃなくて、物の関係として。
ようするにキッチュなもの(どーもくん)が神で巨大な悪を後ろに生成していて、原始的な神(モヤイ像)がそれをサポートする構図。
これは現代的な宗教画と言わずしてなんなんだー? もうっ!
『Happy Nightmare or Nightmare of Happiness』
世の中のキッチュなものたちは我々をハッピーにしてくれるが、突如牙をむいて、自分の身に降り注ぐ邪悪なものへと変化する。
そんな瞬間に美は降臨するのではないでしょうか?
ごめん。うさんくさい文章で。