




就職して、もくもくと作業しております
告知 ・ 9月13日新宿御苑 ごめんねピクニック 昼から 雨天不決行 → カフェでシャンパン


最近やっと空間というもの自体に興味が持て始めたが、そこで、我々が何もない場所と思っている場所、つまり空間には空気という物質があるという事に気がついた。
当たり前のことなのに、気が付くまでに建築を勉強してきてずいぶん経ってしまった。
何にもない場所を感じて「空間」とよんでいたこの感覚は、今では空気なるものに満たされている非常に密な場所と感じ替える事も出来よう。
これは一般の人にとっては単なる感覚の変化ともいえるが、建築家にとってはずいぶん重要なことだ。特にフォルマリストにとって極意とも言えるものではないだろうか。矛盾をもった言葉として「空間」を捉えると、「空間」は一般的な存在としての言葉を離れ、観念となる。「これは良い空間だ」とか言う前に、「空間って何だ」という疑問が湧いてくる。そんな感覚になってきた。だから自然な流れで、「空間って何だ?」を想起させてくれるような空間に興味が傾いてきたわけです。
空気の充足と物の欠落を同時にかんじるには、常識的に後者のイメージはあるとして、前者の空気の充足を感じるための形のイメージがなくてはいけないんだとおもう。フォルマリスト(形式じゃなくて形態主義)の成功者はおそらく空気の充足を感じさせる入れ物のイメージの構築に成功した人たちで、裏返すとフォルムに興味がない建築家っていうのは空間は物の欠落つまりヴォイドだと短絡的に考えているのかも?
ミースのバルセロナパビリオンの白ガラスと大理石に囲まれた光り輝く光箱、パビリオンのあらゆる反射光によって光そのものが光を享受している空間について鈴木了二はそれを受動性をもった様態である闇として次のように述べている。
「暗さの揮発した蜃気楼のような闇、
水のぬかれたプールの空洞のような闇、
照明弾によってすべてをさらけ出された逃げ場のない夜のような闇」
すごい表現です。ミース・ファンデルローエの戦場という本で田中純はこのような矛盾した両義性にパビリオンの本質を見ようとするんだけど、ここで言いたいことも割とそういうこと?


デビットリンチは家具の夢を見る。そんだけ家具とか大好きな映画監督で、実は家具を実際に発表して売ってます。http://www.casanostra.com/dl-index.htm
この事実には正直萌えた。 なぜなら僕はリンチの映画で出てくる家具の大ファンだから。
パリのカルティエで幸運にも見れたリンチ展(電飾がバチバチいってる)

でもかなり危ないリンチ空間が再現されてました。

他にも「twin peaks」のブラックロッジとか

「インランドエンパイア」のウサギの部屋とかもなかなかやばいです。

特にブラックロッジの床材ってどう理解していいかよくわかんないんですよね。視覚的な効果を重視したのか、それとも記号的なものを狙ったのか。基本的にはリンチのデザインした家具はもろ記号性を重視したポストモダンデザインで、わりとそれ自体を穏やかに記号的な認識からずらしてやることで、空間全体にすごい違和感を作り出すっていうやつだと思うんだけど、あの床はそれにしては派手だし、記号としての親近感はないし。

まぁ、それはいいとして、リンチ自体のデザインの趣味はバウハウス好きってどっかに書いてあったから、基本的には、モダニズム建築成立期というか、工業化する前の美学的チャレンジ期の空間が好きなんだと思う。コルビジェとかよりチョイ前の素材がまだ抽象化してないやつ。あと、ハリウッド的なというかケーススタディーハウス的な都会的建築と、カントリー調の木のちょっと使い古した手製家具。なんていうか、具象!そっからああいうポストモダンに行くのは割と王道です。そういう趣味って言うより、目的がはっきりしててデザインがそれをうまく具現化できてるから好きなんです。

そういえばこういう邪悪なやつの対照的なの最近「でじーん」で発見した。

噂のホワイトロッジ?(ツインピークスを見た人にしかわからないと思いますが。)
屋根と天井の間隙が非常にすきです。でもこういうのは抽象ではなくて具象でやるべきだ。
ちなみに最近のしせいどうのcmをリンチがやってます。主役、鈴木京香!!

ふと、書こうと思って書いてみました。
1 機能主義や合理主義は本質ではなくて一つのイデオロギーにすぎない。最も対立する物として宗教的価値観や魔術的価値観、地域・集落的価値観などがある。
2 美術と建築のモダニズムは違う。美術におけるモダニズムは平面性や形式を重視しており、純粋なものが目指された。社会的な物が加味された運動とは違う。建築におけるモダニズムの主題は大量生産、合理的建築で、その過程で表現された反復やデカルト幾何学が純粋であったことによって両者は同じと勘違いしやすい。
3 モダニズムは近代全般を占める思想ではない。もう一つの大きな文化運動の流れは芸術においては資本主義に対応したダダ、シュルレアリスムからポップアート・・・。建築においてはシカゴ、マンハッタンなどの高層ビルや遊園地などからベンチューリ、コールハースまでがそれに当たる。建築はコルビジェを今でも崇拝しすぎてて、その影響が強すぎる。両者はキュビスムに端を発している点は興味深い。
4 ミニマリスムはモダニズム(アート、建築)の美学の延長ではなく、本質的に逆。3の話の続きで、ダダとかポップアートの流れにミニマリスムは位置するため、モダニズムとは相反する(連続的な視点もありうるけど)。また、おさまりがいい均整な建築のディテールはそれがカッコイイとかきれいとかそういうことを語るのに対して、ミニマリスムのオブジェは概ね、何も語らない点で大きく精神が異なる。
5 日本において、モダニズムは皆に愛されているわけではない。大衆はよりキッチュなもの愛している。そうでなくては、町はもっと端正な面持ちであったはずだし、もっと現状に批判があがるはず。
6 コルビジェの思想は成功したのではなく失敗したと言った方がいい。ジェイン・ジェイコブスの「大都市・・・」でコルビジェ的都市計画の犯罪率が高いことが確認されている。また、ここ2,30年は(合理主義と地域主義の仲裁もしくは歴史主義との仲裁という苦肉の策以降)、モダニズムが進化したという感じの建築は現れてないのでは?むしろ成功したのは巨匠としての建築家というカテゴリーを最も初期に作ったこと。
ps モダニズムにネガティブな意見を書いたが、しかしモダニズム、モダニズム建築運動、モダニズム美術運動は近代最大の美学もしくは美学的運動であったことは間違えがないことを加えておく。現代においては???

「自然」、もしくは「人工」と聞いて我々は何を想像するだろうか。これが最近、興味のあることです。
これについて、ヤフー知恵袋で面白い質問があって、「なぜ自然の対義語が人工なのですか?納得できません。人間も自然の一部だと思います。」というのがあって、これは非常にもっともな質問だと思ったのです。
その答えが4つあって、意味分かんないのが二つは無視して、なんとなく正しそうな
「人間の手が関わらないことがら=自然ですから、その対義語は人の手によるもの=人工です。」
「人間は自然に生まれますが、盆栽は絶対自然には生まれません。」
という、形成過程に差異を見出す意見があります。僕の場合は、自然の物は樹木とか花とか谷とかで、人工の物は都市とか機械とかロボットとか、っていうところから、なんとなく表層的な物質性で対立させている対義語のイメージを持っています。
しかし、自然の対義語は一般的に人工なのですが、人工の対義語は「天然」であることが示すように、自然と人工は厳密な二項対立でない言葉で、「自然」の方がより指し示すものが広く深みのある言葉で、それが故に正確に対立する言葉が無いので差し当たり「人工」を使っているんだと思います。
英語を調べてみると自然はnature , works of God , God’s worksという三つが出てきて、人工はartの一つだけ。英語のartの意味を考えると、明らかに英語では、「art」と対応するのは「nature」ではなくておそらく「works of God」、「God’s works」の方であって、どうやら人工の反対の意味として自然を使う時には、その制作者を問うている可能性が高そうです。
ここで議論したいのは正に、英語の意味での対立、art(works of man)/works of Godの「works」です。この二項対立の際の自然/人工の意味をこれらに絞るならば、「人間も含めて自然なんじゃないか」っていう議論の答えは、宗教観によって、自然、もしくはどちらでもないとなるわけです。
(ちなみに人工をartに含める言語は良いですね。この意味だと日本人の最も得意なartはロボットとか。俄然かっこいいっていうか・・・。works of Godはキモイけど。他になんかないのか、っていう。)
事の始まりはかなり個人的で身近なことですが、最近引っ越してそこの窓から、都庁と中央公園ががっつり見えるのですが、なんとなく、都庁の方が自然で中央公園が人工なものに見えたからです。この写真を見てもわからないと思いますが。一般的に緑は自然で超高層ビルは人工だとされるのに、その関係が簡単に逆転されてしまうこの言葉のイメージって異常だな、と。
でも上のように辞書を引いていくうちに、この対比をした瞬間にひとまず自然とか人工という個々の言葉の意味を離れて、人為的に作られたかそれとも謎のパワーで作られたかが問題になるのだとわかってきたわけです。だから、僕は無意識的に、なんとも居心地の悪い中央公園は人工的なものに見えて、逆に丹下の都庁に人知を超えた崇高さみたいなものを感じたのだと。ちなみに補足:都庁は丹下健三の建築というキャラクターでもあるけどポストモダンの文脈で多く語られる建築でもあって、つまりゴシック教会のパロディーなんです。そういうのも加味されての記号のイメージが作る崇高さかもしれません。大体、崇高なものの麓って邪悪なものの巣窟だったりするんだよなー。お見事。
と、言いたいことはここからで、それが物を自然と人工で区別しようとする時、誰が作ったものというのが最大の分け目であるが、まず現前としてそれらが置かれる場所が地球という自然(works of God)に包まれており、物の構成要素も細かく見ていくと原子とかに行き着くわけだからあらゆるものは当然、自然なわけです。しかし、なにかの区分をする事を目的とした言葉のセットなわけだからもうちょっと有益な区分の仕方のポイントを考えた方がよさそうです。自然/人工とは実のところ、物のどの観点においてその制作者を問うかがもう一つの重要なポイントであるのです。
例えば、科学的観点にたてば、さっきの原子の話からあらゆるものは自然となり、物のイメージという観点でその創造者を問えばあらゆるものは人工なわけです。最後に加工した者を創造者として公園内のもので問えば、落ち葉や樹木は神が作った自然物であるが、ベンチや遊具は人が作った人工物と言えます。このように自然と人工という対比の中には揺れ動く詩性があり、この曖昧さが言葉を混乱させているとも言えるが、それがこの対比自体に深みを与えるわけでもあります。
例えば、お茶とかの「わびさび」の世界は其処らへんに落ちているものを拾ってそのままの形にブリコラージュした点で評価すべきは、僕的にはロハス的ほにゃららな話ではなくて、自然/人工の観点を増やしその価値観を豊かにした点にあるように思える。ここら辺の詩性は今、サナー石上建築に始まる結構ホットな建築家の話題でもある。しかし、大体の物足りないと僕が思う感じは、自然と人工という深い解釈が可能な領域にもかかわらず、自然は緑だと決めつけたうえで(もしくは人工は建築だ)、ここでは短絡的に「家」と「緑」の接近の仕方を問う点にあるんじゃないかと思います。(たしかに緑はマイナスイオンを出すんだけどさー。)
やはり、僕の好みは前述のように自然と人工は何処でその解釈を切るかってとこです。
そこで、僕は人間の身体のスケールという点で自然/人工を切ることを発明したんです。形もスケールの延長上に置きます。この提案によると、「人工」物とは、人間の身体のスケールや形が加味されているもののことで、逆に「自然」物とは、人間の身体のスケールとは全く関係なく、形や大きさが決まっているものである、となります。これは本質のようなものを問うのではなく、区分をする主体である人間に重きを置いた考え方です。
(これも当然人間の身体のスケールを加味するとは、どの点においてであるか問われるわけだが、こういうことを考えていて思うのは、魅力的な言葉なり定義は(例えば「自然」とか)ある程度、複雑で柔軟な物の方が我々にとって魅力であって(つまりより想像力を働かせられ介入の余地がある)、物を魅力的、かつ、きっかり区別するっていうことはあまりない。あることに対してより相性のいい方向に定義を絞る事が妥当ではないかと。)
この考えだと、星や海の他にも、大体の都市は自然です。超高層も自然です。なぜならその大きさは土地の経済効率でその高さが決まったり形が決定したりします。当然そうでないときもあるわけだけど。逆に植樹された樹木や四角い部屋は人工物です。パンテオンは微妙なとこだけど、ピラミッドは自然になります。車も道路の幅も人工だけど、道路全体の網は一般的に自然です。
ちょっと不思議なんだけど、こうして考えると人工物と自然は同じものに対してスケールの違いをもって入れ子状を絶えず繰り返すものなのだとおもうのです。まさにイームズの「パワーオブテン」の世界。原子と宇宙という自然に挟まれて同じものが何回か人工物に変わるような。つまり自然物と人工物は起源をともにしたもので、頭の中に存在する世界なわけ。
原子→鉄→ネジ→ネジ山→イス→ゴミの山の中のイス→地表→宇宙→銀河
もしくは四角い部屋という人工の集積である大きな都市。
つまり、人が加工する事をコントロールできるものは大抵人工物ですが、人が加工できないもののみならず、加工しているがコントロールできないものの多くも自然物にカテゴライズできる考え方なのです。これは言い換えるとデザイン(コントロールと同義)できないものを賞賛する立場の物の見方でもあるのです。
これは、学部の卒業設計で僕が取り上げた創発(イマージェンシー)の考え方に非常に近いです。創発というのは、ざっくり言うと小さな挙動が大きな全体を作り上げる蟻塚とかが持つボトムアップの創造的性質のことで、蟻自体は何だかわからない小さな意志と本能でせっせと家の建設に勤しむわけだけど、そこには実は大きな意思が隠されているというやつ。このような創発的性質で出来上がった人工物も自然であると言ってしまうのがこの観点です。(創発にしても計画されたものはその時点で100%の自然ではないんだけどね。その意味で建築家は自然を限りなく模したものは作れるが、自然を作ることは言葉の解釈上は不可能。
「純粋に日常的なものであっても建築家が目を向けたとたんに、それは誠実さを失ってしまう。あるいは、少なくとも即興性や純粋性は失ってしまう。-建築家である我々は徳と呪いの両方である何かに取りつかれているのだと思います。」 レム・コールハース『コールハースは語る』
逆にトップダウンなコルビジェ・モダニズム建築は徹底的に人工的だと言えます。おかげで建築家の作る建築は身体性が無いとだめだとか言ってるひともいますが、それは僕の言葉で言えば人工物万歳なわけで、そういう人が作る世界(コスモス)はあまり面白くない。結局、都市や建築の知覚はその内部もしくは境界においてなされるもので俯瞰的にするわけじゃないからそのものの性質の中に(今定義した意味での)自然と人工が入り乱れていた方がそれ自体の解釈に深みを与えてくれて、世界を(身体的にも)面白くするんじゃないかなーって思って。逆にアーティストっていうのは今や人工ではなくて自然を作り出す職業になっているところがありますね。僕が思うのは、大抵の人間の作るものは身体スケールが加味されるのだから、たまには身体性から離れたスケールのもの(自然)を作り、それと人工的環境の対応で心地の良いものを探っていけばいいのではないでしょうか。
ps
そもそも、この事を思いついたのは自分の部屋の壁を見ていて、のペっとした壁と窓のプロポーションについて考えていた時です。壁の縦横比の種類×四角い開口の開け方を考えると、人間のパターン認識の可能な範疇ならば、たいして種類はないな、と考えたのだけど、ふと、その前提になっているのは、空間と人を相対化しないことだと気がついたからです。身体という尺度とそれを持って知覚する脳みそさえいなければ、どんなに大きな壁でも小さな壁でもプロポーションが同じならば同じ窓のあいた壁と考える事が出来るんじゃないかと。これ、恐らくトポロジーから来た発想だと思われ。時間だって認識する者さえいなければ一秒と1兆年は同じことと考えてもいいんでは。つまり、時空間はぐにゃぐにゃで、意志のあるものによって認識される事によってパキっと固まるんではないかと。これってミロのビーナスは見られていなければただのキャンバスと絵の具であるっていう昔の美学的思想と同種の考え方だけど、空間について考えられたことはあまりないのかもしれません。それは僕らの空間がより身体に根ざして作られているからなのではー?意味不明なことかいてる?大丈夫かしら
あと、近いことを過去にも考えました。→http://chiguhagu.wordpress.com/2008/08/04/605/

『美学への招待』よんで学んだ事を考察。ノリで書いてみたけど自分にとって結構重要な文章が書けた。
19世紀末から内容重視から形式重視、つまり、形式が内容に取り込まれて行く現象が生まれてくるらしい(例えば、マーレビッチ、マチス、ピカソ‥‥)。
ざっくり言うと、指し示す物の意味より形が重要もしくは、形あっての意味主義。
そこでちょっと形式について考えてみたが、
形式主義には2種類あるように思える。内容と形式を往復しながら形式を重視するタイプと、相対的に形式と形式を往復する事で形式を作ろうとするタイプ。
後者で重要な事は、ほとんどの者が、後者においても内容を捨てきる形式はあり得ないと考えている点であろう。形が指し示す意味がまったく無い形を人は許容できない。これは形に限らず、意味の空白(何も意味の無いもの)は人にとって恐怖なのである。相対化される形式も元を正せば内容があるという前提に基づくがゆえに、既に形式化された形式に対して、相対化を繰り返しながら形式化していけるわけだが、その反復作用によって前提である内容は擦り切れて極めて希薄になってしまう事が多くある事が予想される。何度もコピーを繰り返すとオリジナルがよくわかんなくなるように。その時、西欧をベースとした文明は歴史的に類を見ないほど意味が希薄な世界を目の当たりにする事となったのである。
例えば、都市空間。
中世の都市とかの装飾もそれなりに意味をなしていただろうし、広場の作られ方とか色々、まぁ内容がある訳だけど、中国の大量に建てられる高層ビル群は明らかに内容が希薄。キャドの性能や、CGの見栄えで決まる外観や、大量に量産される同等の質の空間を横断する体験。それらに差異を作るために頂部だけ歴史からサンプリングどかーんetc。
これは、きっと日本人とかそんなに抵抗無いけど、西欧人(のインテリとか)にとっては大変な衝撃なんだろうなーとおもいました。これをボードリヤールはいち早くきっと指摘してるのだろうけど(読んでないからわからない。)。頭で各々が構築する所謂「世界」が、「内容の世界」から「無内容の世界」へ。シュルレアリストが格闘した主体と客体の戦い(「シュルレアリスムは、主体と、われわれにとってはいわゆる現実が引き受けている形態である客体との戦いを抹消せんとする、徹底的な試みとして現れる。」by オクタビオ・パス)は、だいぶシュルレアリスト優位の展開になってきた訳です。これが、僕がシュルレアリスムに今注目する理由です。ちなみにこの戦いはロランバルトによって日本も引き合いに出されてます。
主題である建築の話をすると
建築には芸術としての側面とデザインの側面がある。アートにも両側面があるが(めっちゃださいアートはあまり成立しない現状がある。それは当然、アートは美学の範疇だから、美的でないという認識をされることは、作品の美学的内容に関わらず多くの誤解をよんでしまうきっかけになってしまうから。ちなみに、アートと藝術は違う概念だと思う。)しかし、技術的(職人的)側面が目立つ分、建築をデザイン分野として強く意識されるのが現状であろう。
では、そもそもデザインと芸術、両者は何が違うのであろうか?
『美学への招待』によると、芸術には内容があるが、デザインには内容がない(特筆すべき内容が無いという意味。)らしい。これは、芸術にはタイトルがあるが、デザインにはタイトルが無い事がこの状況を示している。タイトルとは、筆者が言うには「作品をしかじかのものとして見よ、という命令で、この知覚の命令は、作品が一つの精神的世界をもつことを前提とし、その世界についての解釈の方向づけ」であるという。これが無いということは、内容が無いと同義なのである。馬鹿でも見りゃ分かるだろってな具合に。
ここまでくれば、建築が形式主義と相性が良さそうだなーと予感が湧いてきましたか?
差異を作らなければいけないが、アートのように純粋な観念でなくても良い「建築」は、デザイン的側面を発揮する事によって、「ちょっと違うけど内容的には近似するコピーの量産」に対する要求を満たす事に秀でている。それが、現在の建築的状況といってよいほどである。だから、時代の美学としての形式主義自体に対しても百花繚乱な形式を持って、120%で建築は応える。このように、内容→形式の移行がアラブやBRICS(中国とか、分からんかったら調べて。)における急激なグローバル都市化の状況に伴い進んでいく事を背景に、建築の本質が重要な変質をしてきた気がします。後ろめたかった形式主義が前向きになってきた。
何がそうさせたのか?
責任もって、ここまで説明しとくと、形式主義の台頭はメディアと密接に関係があると思ってます。多分、一番の理由は絶対これ!「動物的」なメディア消費になってくれば当然、内容なんて追ってられない。メディアによって情報垂れ流し消費状態なので、とにかく形で違うもん見せろって感覚になってくるのは当然である。建築家における巨匠制からスター制への移行も、もろに、こういう背景があるであろう。学ぼうとする勤勉な態度と憧れ真似をする怠惰の態度はそのまま、メディアに対する我々の態度の変化の表れであると言えそうだ。需要者も供給者もこうなってくると、魂削って内容を切り詰めるアーティストも、職人技で頑張るマイスターもあまり報われない現状が待っている。特権的な立場でいられるのは、広告代理店とか、雑誌の編集者、内容を作って形式を量産させるよう多くの優秀な人材を集めたとこのボス、カイカイキキ(村上)/クマジム(隈)/OMA(レム)ってことになりますかね。
僕が危惧するのは(誰もが同様に思っていると願うわけだけど)、以上の状況(形式主義の超台頭)であろうとなんだろうと、建築は常に社会における公共性の重要な部分を担っている、という一言に尽きる。西欧における、建築や都市の「内容」はコモンセンスに関わる公共的なものであったはずだ。そのことを担う職能が建築家であるという認識が僕にはある。よって僕は形式を排除するタイプでは全然ないけど、完全に内容主義である。建築家という概念自体、本来、西欧的なものであるから至極当然の事に思うし。

dezainnetとかDEZEENとかでまとめて最近のデザイン/アートニュース見ましたが、非常に面白かったのがどっちもポップアートに近かったんで一緒にコメント。
1つめ 今年のベネチアビエンナーレで金獅子とった、グレッグリンのインスタレーション。毎回ベネチアの金獅子は個人的趣味とかなりリンクします。
大量生産の子供のおもちゃを溶かしてくっつけたもの。切断の切り口が完全にCG大好きな人のデザイン手法で、キッチュな素材を使うのもアメリカのポップアートの王道行ってる。この組み合わせは今まで見た事が無かったので死ぬほど新鮮。単純すぎるかもしれないけど、コンピューター・サイエンスとウォーホルの美学が合体したみたいな。
大人のおもちゃでやったらもっといけてる気がするんだけどなー。YOUTUBEも!!
2つ目 ジェフ・クーンズがフランスのベルサイユでエキシビジョン!
この人、完全に狙ってたはずです。古典とキッチュはめちゃくちゃ相性がいい事、そして、それらは詰まるところ同じだっていう事を。
これを機に日本人とかも早く気付いてくれたら良いのに。結果的にそういう物が公共性を浮き彫りにするのになー。
なんかキッチュはいつまでたっても認められませんなー。オタク・カルチャーがあるじゃないか、って言うけど、誰も言わないけど、やっぱりどっかでめちゃくちゃ嫌われて(差別されて)て、この国民性は根が深い。多分、過去に徹底的に貧しかった島国の歴史を持つ大衆上位型社会構造だから上部も下部も排除したいのか?
結果的に公共空間におけるキッチュ(原宿で踊ってた人とか、秋葉の歩行者天国)は陰謀だってぐらいキレイに無くなるし。あれは「通り魔」とか「沢本あすか」のせいだけじゃないと思う。
っていうのも、先日、国立新美術館に行ってみたら(高いんで展示は入らなかったけど)、めちゃくちゃ醜悪な雰囲気に包まれてたんだよー(文句)。
おばちゃんはがんがんぶつかってくるし、おっさんチョッキ着てつまんなそうにしてるし。マナーが悪いとか、ファッションが西欧的でないとかではなくて、おじちゃんおばちゃんの醜悪さ(と僕が感じたところ)は多分、無関心さだと思う。 そんな感じはそのままキッチュの概念に近いのにキッチュ嫌いって……。まぁ彼らは、それを楽しむ余裕を持とうっというメッセージを送ってるわけか。

このキュウイ、同じ形してるんですよ。昨今、CGの技術が異常に上がって、すごいことになってる。なんていうか、フォームジーとかはイラレの3D化って感じだけど、今はフォトショを3Dにした感じだわ。あほみたいにレンダリングに時間がかかるけど。
そのまじあり得ないクオリティーを誇る某レンダラのマテリアルギャラリーを眺めながら思ったのだが、一般的な素材っていうのは、その素材が放つ審美的価値が経済的価値に非常に依存されているっていう当り前のことが気になった。
ふつうの人は、ダイヤモンドはガラスとは圧倒的に違うという風な感じで、とうぜん高価なものは美しく見える。
それがわからない人はもう二流だねっていう、かんじの価値観。物の素材←→経済的価値の反復運動はあらゆるものを見るときに我々が無意識的に通すフィルター。
しかし、3Dソフトでマテリアルをあてがう態度は全くそこらへんの価値基準が不安定になる。ダイアモンドでできた住宅を人類が初めて見たのはこの手のソフトだと思うんですが、そういうのも真に迫る画質でぱぱっとできてしまう世界なのです。要するに、リアルな世界にも認知限界があり、そこに画像が到達している状態、つまり見分けがつかないレベルにまでCG技術は達している。
ここで、物にアウラを求める人(いわゆる、もの派)を不安にさせるのだけど、ほんとに素材に対する審美眼がCGを作っていると変わるのだ。これがこの投稿のテーマ。
素材とは複製不可能な経済的価値の高いものであればあるほど、素晴らしく見えるというのは前述した通りであるが、CGを作る現場においては「交換」ではなくて「複製」が行われる。そのことは物に対して徹底的に審美眼が変われる契機を生み出す。この審美的世界は残念ながら見る人より作ってる人がもっとも体験できる世界なのだが、だとしても、今までこういうことはほとんど無かったように思える。
マテリアルのデータっていうのは当然、情報の階層があって、上に載せる画像であったり、効果であったり、色であったり、反射、透過の性質であったりを組み合わせて作っていく。非常に構造的で、結構だれでも理解できる世界。
そこでは例えば、クロムとニッケルとステンレスの差、ガラスとプラスチックとダイヤモンドの差は反射、透過といった光に対する性質の差にすぎない。そこに微細なテクスチャが上乗せされると見事にリアルな物質に見えてくる。裏返せば、現実に存在する物が、これらの数値性能のマトリクスのすべてを網羅しているのわけではないので、より、組み合わせの分だけ発見的に多様な物を表象していくことができる。
当然現実がどうか、とか関係ない世界なので、より感知者があるイメージに近い表象を目指すわけだから、そこには当然、いわゆる「素材の美学」のような「鉄」なら「鉄」なりの使い方があるとかそういう職人性はなくて、もっと現象学者のような視点が存在する、と思います(僕がそうだから)。
このような物の価値判断を、物とそれが生み出す現象に 忠実であるという観点から、より「物質的な」視点になったといってしまおう。バーチャル世界だからというのが、逆説的に働く。(邪険に取る人がいるかもしれない けど、むしろ、この逆説はポエティックな現象だと思う方が素直ちゃん。)
CGデザイナーっていう人たちは多分、この膨大なマトリクスの上でダンスをする人たちである。個人的には写真の発明と似てる気がする。あんま気付かなかったけど。
良いとか悪いとか言ってるんじゃないですよ。いろいろ違くて新しい。
このようなものを賛美する美学に対して補足的な文章として、たまたま昨日読んだものから、
「哲学者が詩人たち、ミロシュのような大詩人に、
世界をいかにして個性化するかという教えをもとめると、
哲学者はただちに、世界は名詞の秩序にもとづくものではなくて、
形容詞の秩序にもとづくことを確信するにいたる。」
『ガストン・バシュラール / 空間の詩学』
なんか大海原に投げ飛ばされるような文章だけど、以下のようにも言っていて、
「愛された曲線は巣の力をもつ。すなわちそれは所有せよとよびかける。」
物の審美性にはこういう本質的なものも存在すると、僕も考えていて、それと環境によって揺れ動く審美性はある程度の相関関係にもあるし、どちらも含めて、知覚する際に審美的に感じたものは優れていると思うわけだから、両者をぐちゃぐちゃに混ぜて「世界を個性化」するために、CGってのは非常に面白い「素材」なんだと思います。(ぐだぐだ‥‥‥)
・
最後に今まで話してきた審美眼、経済的価値を除いて、「色・反射・透過・形」を重視する姿勢、ここに個人的には「記憶のイメージ」を付け加えたい。受け手の知覚はここから始まる気がするのです。


くそな生活。
くだらない問題が山積み。
脳内はドロドロぐちゃぐちゃ。
楽しい事と言えば歩き煙草→ポイ捨て、と、妄想。
なんとなく、考え方(もしくは建築的アイデア)が日々進化してるような勝手な憶測のみによってぎりぎり生かされてるような実感を受ける事があるわ。(その自発的自己憶測こそが、生きるっていうこと? → だとするならば、充実した生活をしていれば、この声は聞こえてこなくなり、やがて想像力は退化する?)
まぁ、それはそれでおいといて、ところで、
日頃から、デザインってジャンルは基本的にすごい敬遠してるんですが、たまに飲み屋でお世話になってる有名なデザイナーの方の仕事になかなか感銘を受けた。web本というカテゴリーのインターフェース構築。当人の日記も異常に面白い。そこで登場するデザイナーたちを見ていて思ったが、彼らはなんて軽やかに生きれるんだろうか。そう見えるだけだろうか?なんかすごく嫉妬したので理由を考えてみた。http://bccks.jp/bcck/10736/1/A/
オクタビオ・パスの言ってた、人間の中の<孤独性(リアル内的世界)>と<他者性(外的世界の内的再構築)>の二項対立でいくと、詩や芸術は孤独性を刺激するのに対して、デザインは他者性を刺激する。自分の世界を他人に見せる仕事をしているアーティストは自分自身もどうしても孤独がつきまとうけど、デザインは連帯を本質的な使命としているからなんか楽しそうだ。でも、情報(主にデザインに関する記号)を共有する=情報の単純化をしなくてはいけないから、やれる範疇が異常に狭まる。おそるおそる言うとするなら、建築に対するインテリアのような職人的「巧(たくみ)」の世界のイメージ。色々勉強すると、原理がすごく分かってしまって刺激が少ない、もしくは消費してしまうのが簡単(分かったからといって自分ができるとは限らないけど)っていう理由で、個人的にはふだんは避けてます。
でも、今日思ったのは、そういう性質では無い故に芸術とか人生を疎かにしてしまう可能性が高いっすね。全力投球はどっちもするんだけど、アーティストは自分を球にして投げる!みたいな。まぁ、そういうの嫌いじゃないんですけどね。ちなみに、紹介した日記は自分を球にして投げてます。デザイナーだけどアーティスト。

今の自分がこいつだったら、20cmの鼻でジャンプしようとしても
斜め後方にバウンドする感じだ。

あっ、祝・エントリー100こ目。 ブログを書き始めて1年と10ヶ月たちました。 ルーティーンも溜まるといいことあるかしら? 今後ともよろしくお願い致します。 久しぶりにa+uを買った。455号西海岸のバーチャルアーキテクチャ特集。 やっぱり、確認できたけど、アメリカで一番ホットでクレージーでラディカルな建築家はHernan Diaz-Alonsoだ。まじ、やべー。顔見れば分かる! http://www.xefirotarch.com/
『De-tooling /Peter Zellner』のエッセイの中で引用されている、彼の宣言は非常に的確にバーチャル系建築の批評性の問題に切りこんでるので抜粋。(中田雅章訳)
「デザインは常に、形態とイメージの基盤との間の変換に関与している。『原典主義』あるいは『図像学』さえも超えて、形態そのものはそれがイメージとしていかに作用するかの二次的な機能なのである。ある人々はこれを、深さに対する表層性の勝利ととらえるかもしれないが、それはまた間違えなく、デザインの憶測的で創作的なロジック、そして社会的創造性を流動化させるその能力、そしてそれとともに一連の潜在的特性の強化でもある。我々はこれを、グローバルなネットワーク化された文化が建築の背景をつくりだそうとする者に科した、現実的で複雑な要求であると考えている。」
(「種文化。美の発展的変異。変異とホラー(そして時としてグロテスク)の探求をめぐるノート。」)
昨今の僕の興味の範疇_イメージ至上主義_に、これはぴたりとはまる文章。一見、フォルマリスト発言に聞こえるけど、フォルマリストでもロジカリストでもなくてイマジナリスト?フォルマリストは僕のイメージだと視覚優位な感じ。そうじゃなくて総合的な知覚優位(これの主体は人間でもあるが、社会の知覚でもある。)
どうやらコロンビアに端を発するバーチャル建築(バーチャル建築教育は90年代半ば、バーナード・チュミが学長の時代から始まったのだとこの雑誌に書いてある。ちなみにMITに行った知り合いによるとコンピューターで作る形態の研究自体はハーバードあたりでかなり前、おそらく60年代あたりから。)は、ゲーリーにおいて、複雑な形態をリアライズするための経済的・物理的障壁を乗り越えるためのツールとしてコンピューターの演算が導入され、グレッグ・リンでは建築形態自体の生成のツールとしてデジタルツールが導入された。
アロンソは、それらの間のような発想、つまり、ゲーリーが手でスケッチしたものをその後デジタル化するのに対して、CADでスケッチする。もしくはリンのように、作成したアルゴリズムによって生み出される無限の形態を頭でばちっと決めちゃう(多分‥‥‥。)。ゲーリのように形態が優位ではなく、かつ、リンほど手法は重要でない。単純な形態(Form)ではなく、もっと難解で包括的な世界 _ イメージに足を踏み入れている。
僕は彼が「イメージ知覚系建築家」(これを僕は『遅れてきた真・ポストモダン』と呼びたい。)の中でも青木淳のような「左脳派」とは違うと思っていて、精緻な数学によって生まれる「おぞましい」とか「恐ろしい」新しい形態を目指す、「右脳派」なんだと思う。記号やメタファーをかなり使ってない気がするけど、まぁ単なる印象です。いや、臓器は……使ってるな。メタファーで。でも予感。臓器は単なる記号にならない。脳みその写真みてみー。こわー。左脳止まってて右脳だけの力で認識しても、何か起こるよ。
まぁ、そういう作家性については筆が止まったのでさておき、結局、彼を非常に共感できるポイントは、上の抜粋した文章が示すように、グローバルな建築界において立場の非常に弱い(と思われる)バーチャルアーキテクチャの美学に立ち返り、デザインの政治学に批評的に切り込む態度があるところだ。 つまりラディカルだ。 建築におけるラディカリズムは体で感じるだけでは分からない(当然コンテンポラリーアートもそう。)。はっきり言って、認知限界を超えたところにある「何か(およそ、表現なるもの、もしくは、ただ存在する物、イメージ)」が現代的だし面白いと、僕は思います。
ps http://suckerpunchdaily.com/index.html ←あっち系の動向が概観できます。
「細胞、臓器、皮膚。語彙を増やさなければ語る事ができない。何も意味しない言葉、あるいは擬態すらしていない言葉。事、物、空間。アンドレ・ブロックの彫刻群は、何も表徴せず、ありのままでしかない。この彫刻に空間が押し込まれ(!)、ねじ込まれ、濾過される。」 (自作に対するアロンソの説明の一部)
※アンドレ・ブロックはアルジェリア→フランスの建築家→彫刻家
凄まじいです。すごい、あほ。 良い意味で。
後記 : 日本のアニメが萌えな記号によって構成されてるのに、一向にアメリカのアニメがタフガイで構成されてる、みたいな感じで、アメリカのタフガイなアニメの存在意義を理解できないと、こういうマッドなアメリカの建築には全く縁がないでしょう。こういう風に考えるとやっぱ日本は記号の王国だよなー。
西海岸はこういうカルチャーっていうイメージです。
おまけ http://jp.youtube.com/watch?v=UvTvaxVySlE ナチュラル・ウェストコースト・スタイル

人間中心主義の視線で見なければ、上の写真は高度200mから撮った人間の集合写真と同一の世界である。どのような写真の中にも、実は様々な世界が隠されているが、人はそれに気付かない。この場合気付くためには拡大が必要だ。
世界が200倍になったと考る事と、人が1/200になったと考える事に大した差はあるだろうか?
「空間とは人に属するものである」という左脳的機能ー経験作用さえなければ、問題なく、人は世界を無限に拡張する事が可能であった。世界が人を無限に収縮する事も同様に可能であった。世界は強いイメージを持つことができた。
つまり、原始的空間もしくはピュアな世界では、世界の大きさは伸縮性をもつ。裏返すと、スケールは人間中心的世界をぱきぱきに秩序立てるには欠かせない。
ぱきぱきとぐにょんぐにょん。
また、以下のようなアプローチも存在する。
シュルレアリスム作家、ルネ・ドーマルの「La Mont Analogue 類推の山」。この小説では人間中心的(ここでは「縮尺が合った」と表現される)山である、存在するかどうかも不明な世界最高峰の山(類推の山)を、実存する全ての山を極めてなお飽き足らぬ向上心をもった登場人物たちが目指す冒険小説である。この小説における山は、「縮尺が合って」はいるものの、「自然によってつくられたありのままの人間にとって、その峰は近づきがたく、だがその麓は近づきうるものでなければならない。それは唯一であり、地理学的に 実在しているはずだ。不可視のものの門は可視でなければならない。」
バベルの塔にみられるように、自己をより高みに達せようとする無限の衝動、則ち<高所衝動>が、冒険者たちを類推の山に目指させる。往々にしてそういう山は山頂(終わり)が存在してはいけない。こういう世界はうにょにょにょーんだ。
世界のモデルが「ぱきぱき(固定)」「ぐにょんぐにょん(不定形、超自由)」「うにょにょにょーん(一方発散)」とかいろいろありますよね。
コールハースの言うロボトミー化(建築の内外の不一致、乖離現象による建築形態の変形)もしくは、同じ形のグリッド基壇の上に自由な造形が展開されるような『囚われの球を持つ都市』は、あきらかに、「ぐにょんぐにょん」もしくは「うにょにょにょーん」の世界だ。それが実際に中国でリアライズされてきている。つまり世界は、「ぱきぱき」したものから、後者「ぐにょんぐにょん」「うにょにょにょーん」の世界に少しずつ変わりつつあるんではないでしょうか?
どうでもいいこと書いちゃったかも。

副題:二律背反するものの同一性が作る詩的イメージについて(怪‥‥。)
結構、本気で書きました。多分今までで二回目(一回目はジェフ・ウォール)。前回からの個人的最重要テーマ(多様性はどうまとまるか。反モダニズム。反言語説明主義。)に一貫性が作れて個人的には満足しながら文章書きました。
『弓と竪琴』オクタビオ・パス
前回の投稿において、槇と丹下のメタボリズムにおけるモノ、コトの対立について書いた。確かにそこには対立があったという事は確かであるが、今回はもっと抽象度を高めた話。モノ=コト、言い換えればモノとしての紙と、コトとしての燃えている紙を和解させるもの、イメージについて。
オクタビオ・パスは最後期のシュルレアリストにしてメキシコのノーベル文学賞作家の詩人で、この本『弓と竪琴』は彼の代表的詩論。これは、あらゆる表現主義者のための聖書であり、西欧的合理主義もしくは近代主義(モダニズム)に対する究極のアンチテーゼ本である。個人的なところでいくと、デビットリンチの作品の時間概念(僕らを悩ます)空間概念は、この本を援用しているとしか思えない一致ぶり。リンチの作品評はいままでかなり読んできたけど、今んとこ、パスの思想を引き合いに出した批評は発見していない。っていうか、マジこの本は今まで読んだ本で五指に入る面白さでした。
パスは言う。
「孤独は人間の条件の根本である。人間は自分が一人ぽっちであることを感じつつ、他者を探し求める唯一の存在である。その本性は‥‥‥他者の中に自己を実現したいと希求するところにある。人間とはノスタルジーであり、連帯の探求である」(『孤独の迷宮』)
まず、訳者の牛島信明による「オクタビオ・パス論」によると、パスの最も重要な関心は、人間における「孤独」と<他者>との「連帯」あるいは「共生」である。一人の人間の中に、自己と他者が共存しているという「二重性」。この、パスの「他者性」という中心的課題は、メキシコ人のアイデンティティーの問題として有名なメキシコ論『孤独の迷宮』で展開されるが、本書でそれはシュルレアリスムの詩と共鳴する。
「シュルレアリスムは、主体と、われわれにとってはいわゆる現実が引き受けている形態である客体との戦いを抹消せんとする、徹底的な試みとして現れる。古代の人びとにとって世界は、意識と同じように充実したものとして存在しており、人間と世界の関係は明快で自然なものであった。われわれにとって世界 の存在は激しい議論の形態をとる ー 一方では、世界は消散して意識のイメージとなるが、また一方では、意識は世界の反映なのである。シュルレアリスムの 冒険は、主体と客体の葛藤を解消せんとするものであるが故に、近代世界に対する攻撃である。 <〜> 客体を溶解するのと同じ酸が、主体をも分解してしまう。自我も無いし、創造者もいない。あるのは一種の詩の力だけで、これが所かまわず駆け巡り、根拠の無い、そして説明し難いイメージを生み出してゆく。」
シュルレアリスムにとっても、パスにおける自己にとっても、古来より二律背反しているとされているもの、主体と客体、自己と他者が、溶け合ったあと残るもの、(非常に形容し難い)根源的な主体もしくは自己のようなものを表出させようとしている。
(この「背反する二重性の同一性→一元論」こそが非常に特徴的でおもしろいところで、仮説としてもともと持っていたので、この本との出会いに涙しました。)
そして、パスはこの人間の二重性、つまり本源的回帰を啓示するものとしての詩的イメージを提案する。
「詩人は事物に名を与える ー これは羽毛であり、あれは石である。
そして不意に断言する ー 石は羽毛であり、これはあれである。」
「石はざらざらして <〜> 羽毛は羽毛のままであり、軽い。そのイメージ(石は羽毛である)はおどろおどろしいものとなる。なぜなら矛盾律に挑みかかるからである ー 重いものは軽いものである。相反するものの同一性を言明することによって、それはわれわれの思考の基盤を侵犯する。従って、イメージの詩的現実は事実を望みえない。」
このような考えの前提として
「人が手を触れるものは何でも志向性を帯びることになる ー <・・・に向かって>行くのである。 人間の世界は意味の世界である。それは曖昧性、矛盾、狂気、あるいは混乱を耐えることはできるが意味の欠如を耐える事はできない。ほかならぬ沈黙にさえ記号が住み着いている。」(それは、近代の生んだ、悪名高き抽象概念、「空間」でさえ!!)
この考え方においては、矛盾した(と、われわれが考える)文章も例外なくそれ自体に意味をおびる。ここでいう「イメージ」とは、この文章にまさに起こりつつある意味の欠如、「沈黙」に対抗する必死の手段である。パスは、ポエジー(詩性の必要条件となるもの→詩的なもの、つまりポエジーを有するもの)によって生まれるイメージこそが芸術の本質的統一(音楽も絵画も詩も同様に芸術であると言えること)を成し遂げると考えているわけだが、その「イメージ」もまた、無意味と背中合わせであり、
イメージとは無意味であり、これはあれである
という、ややこっしい状態なわけである。つまり、無意味であるからこそイメージの必要性はつよくなるという意味で、早速、無意味は無意味でなくなったわけだ。つまりつまり無意味ってのは意味であり、イメージの無意味性はイメージそのものである。(ジョン・ケージの言うsilentという名の音の存在を想起せよ!)
パスの考えるポエジーの世界では、事実かどうかA→Bという順説より、逆説と沈黙こそが神である。
この「背反するものの同一性」について、パスはそれらの「動的かつ必然的共存」のみならず「究極的同一性」を見いだし、そこに西欧の合理的思想の限界を糾弾する。西欧人にとって、思考のコスモス(宇宙)すなわちカオス(混沌)からの世界の再創造は、存在と非存在の間に線を引くことである。火は水ではない。
そして、パスは、この非西欧的、非合理的な、背反するものの同一的な詩的イメージを人間の自己と他者の二重性を啓示するもの、根源回帰のきっかけになるものと考えるわけである。まぁ言ってみれば自己啓発。詩と魔術を非常に近いものと考える詩人オクタビオ・パスにとって自然なかんじ。
そして、西欧的な<これとあれ>ではなく、<これすなわちあれ>、つまりは背反するものの同一は東洋思想(仏教やヒンズー教、道教など)の根幹をなすとパスは考える。
荘子曰く、
「これにあらざるもの無し。あれにあらざるもの無し。これはあれとの関係において生きる。これとあれの相互依存の教えかくのごとし。生は死に対して生なり。この逆もまた真なり。肯定は否定に対して肯定なり。この逆もまた真なり。よって、もし人これに依らば、あれを否定するにいたるべし。しかれども、これ、己の肯定と否定を備え、かつ、己のこれとあれを生ず。よって真の賢人と言えるは、これとあれを退け、<道>につく。」
そしてパス続けて曰く(既に賢者!)
「これとあれ、石と羽毛が融合する時点がある。その瞬間はもろもろの時代の前にも後にもなく、またその始めにも終わりにもない(!)。 <〜> それは連続の王国 ー まさしく相対的対立の世界 ー に住んでいるのではなく、それぞれの瞬間の中にあるのである。」
‥‥‥泣けてきませんか?
「それは自らを生み出し、湧き出させている。そして絶えざる始めである終わりに向けて自らを開いている時間そのものである。噴出、泉。そこ、存在の ー あるいは、存在することの、と言った方が良いかもしれない ー 深奥では、石と羽毛、軽いものと重いもの、生きることと死ぬこと、実在することが、ひとつにして同じものなのである。」
‥お経を模写する行為に入ってます。模写っぷりが心酔っぷりだと思ってください。
「人間と世界、意識と存在、存在と実存の究極的同一性は、人間の最も古い信念であり、科学と宗教、魔術と詩の根源である。われわれのあらゆる企ては、この二つの世界を結ぶ古き小道、忘れられた道を発見することに向けられる。われわれの探求は、対立するものの普遍的照応、その始原的同一性の反映を再発見せんとする、あるいは立証せんとする傾向を持つ。」
こういう背反するものの究極的に溶け合った状態、そして無に至る境地がおそらく悟りの境地であるだろうと、東洋の偉大な哲学者たちは考えたらしい。僕の予想だと(必然的に悟りは分かりえないし、言語化不能なことは目をつぶってトライアルとして言うと)、あらゆる物の関係に対して直線的な相対関係をつくり、溶かしていき(同一化)、最終的には空なり無みたいなものを中心として、放射状にあらゆるものが無限遠にのびていって球体を作るイメージが悟り。ここでいう球は、全体にして無。まぁ、とにかく悟りと言うのは基本的に伝承不可能なのが大原則であるが、その存在を知らすために逆説的に、詩的イメージが必要なのである。ここに、背反するものが弁証法を経て、言葉を超越した(言い表すことのできない)イメージに到達する詩的性質の崇高さがある。(この「崇高」な感じは僕らにとっては、原始的魔術のイメージから来てるきがする)。
トルコのイスラム教神秘主義メヴレヴィー教団のSema(セマー) 反時計回りにひたすら回転する旋回舞踏 右手は天、左手は地を向け、トランス状態→空の状態に入っていく。スカートの広がりは宇宙を表し、回り続ける事で神との同化(仏教でいう涅槃)を目指す。
ちなみに、悟入状態(さとっちゃった状態)における仏の微笑は、悟ったことの表象であると同時に、「その道の大家が何も見出しえなかったことも示しうる」とか。ロランバルトの『表徴の帝国』における表徴の<零度>/<裂け目>ってのは要するにこの理論の二番煎じ。日本人もこのような ー 虚空、すなわち、森羅万象の境地 ー を持っているとされる。日本人の言語をみても、西洋のように一つ一つ定義していって完結に意味の交換的に説明するのではなくて、「あれってやばいよね。」みたいに、代名詞を多用したり、何も言わなかったり(書かなかったり)して何かを伝えようとする。この態度は、<これすなわちあれ>。これは意味の交換の精度を捨てる代わりに、言葉の多様性、冗長性を捨てない態度だと思えば良いと思う。
くどいかも知れないけどまとめると、ここでいう悟りはすなわち、この意味の交換をゼロに限りなく近づけ、そのかわり、言葉の意味の広がりを無限に開く、すなわち、あらゆるものを包括する事。それは同時にあらゆるものを包括しつつ、それらに何の差異も見出さない、無なのである。ここにある衝突、もしくは緊張は、絶対的無限と相対的零度の対立とも読むことができる。そこに、人間性なるものを問うならば、意味の拡大は何者にも縛られない主体のマイ・コスモスの無限の広がりであり、同時に、交換の消滅は人間の本質的孤独、つまり関わり合いの零度を言い表していると読むことができる。
これは、僕の興味で言えば、「静止した状態の紙は燃えた状態の紙である」→「建築におけるモノはゲンショウである」。結局、建築は物であるか、現象であるか、もしくはどっちの視点で眺める方が良いか、っという前回の最後にちょろっと書いた議論は、実はあまり意味がなくて(すいません)、物と事の相克の果てにある、「建築」と我々が呼んではいるものの漠然とした「名称」が指し示す記号概念ではなく、建築的な詩的イメージ、全体性、緊張状態にある「物と事の複合体」にこそ、建築の詩性というものは強く宿ると考られる。
ただし、物と事という対立は存在である場合がほとんどであって、表現には向かないかもしれない。まぁ、詩性を体現する弁証状態は、物と事に限らず、「内ー外」だったり、「構造ー空間」だったり、「新ー旧」だったり色々あると思います。ただ「ものこと」が一番激しいと言っただけ。あ、そういえば絵画と建築の緊張状態を書いた「対立の家」とかいう恥ずかしい文章をm1の時、書いたかも。
結局、パスの言う「イメージ」とは、多様性を緊張的関係のまま、個々の要素を変質させないまま、統合することで全く新しい現実を作り出す契機となるものである。シュルレアリスム(ダダイズム?)の有名な、「こうもり傘とミシン台の出会い」の美学ってのは究極的にはこういうことなのであろう。
決定的に言語的意思決定と合理主義な価値観が横行する世の中だから(世の中自体を外から見ると、とってもシュルレアリスティックで面白いんだけど)、詩性を失った純粋工学の世界だからこそ、ここは皮肉ではなく能動的に、現実の多様性を再生、統合できる「ポエジー(!)」路線で行こうではないか、っていうのが僕の意見です。
〜〜小休止〜〜(サザンのジャケットより、「これが愛の原子爆弾だ!」)
ちなみに、文章読んでて、ふと、セックスが頭によぎりました。
「男は女で逆もまたしかり。私はあなたで逆もまたしかり。僕らは宇宙で逆もまたしかり。」と無根拠に走り書き。
なんだ。どうやら、しっかりあるみたいですね。タントラ教(インドにおける世界最古の信仰とされている)!この宗教の教義では、「肉体を宇宙の隠喩、あるいはイメージ」とすることで、性交を通して宇宙の真理を知るらしい。やっぱ東洋思想のほうがしっくりくるなー。
詩とポエジーについて補習 (写経をもうちょっとしたかっただけだけど。)
「ポエジーは認識、救済、力、放棄である。世界を変えうる作用としての詩的行為は、本質的に革命的なものであり、また、精神的運動なるがゆえに、内 的解放の一方法である。ポエジーはこの世界を啓示し、さらにもう一つの世界を創造する。選良のパンであり、同時に呪われた食物である。」
「ポエジーはあらゆる詩の総和から生まれるものではない。詩的創造は、それ自体が自己充足的な統一体である。」
「詩的創造に おいては、職人たちの虚しい美意識が求めるような素材や道具に対する勝利など存在せず、あるのは素材(詩でいうところの言葉)の解放である。ことば、音、 色、そしてその他の素材は、詩の領域に入るやいなや変質をこうむる。それらは意味や石の伝達手段である事をやめずに、<ほかのもの>になるのである。その 変質はー科学技術の場合とは異なってーその本然的な性質を放棄する事ではなく、それに戻ることである。」
「両面価値的存在である詩語は、十 全にその本来あるべきものーリズム、色、記号内容ーであると同時に、またそれ以外のものーイメージーでもある。ポエジーは、石、色、言葉、そして音をイ メージに変える。イメージであるというこの2番目の特徴、そして聞く人に、あるいは見る人にイメージの星座を喚起するこの奇妙な力は、あらゆる芸術作品を 詩に変える。<〜>詩は言語ー意味と意味の伝達ーであり続けながら、言語の彼方にある何かである。しかし、言語の彼方にある何かには、言語を介してしか到 達する事ができない。絵画は、それが絵画的言語を超えた何かであれば詩であろう。」(ここの絵画を建築に変える事はもちろんできる)
「詠嘆 の場合、ことばは虚空へ投げ出された叫びであって、対話者を必要としない。ことばが抽象的思考の道具である時は、意味がすべてをー聞き手と言語的快感をー 貪り食ってしまう。交換の手段となると、ことばは堕落する。<〜>これらに共通する不具状態の原因は、言語がわれわれの道具、手段、ものになるところにあ る。<〜>しかし詩人はことばを利用しない。詩人はその僕なのである。ことばに仕えることによって、彼はことばに本来の性質を戻し、その存在を回復させる のである。<〜>まず第一に、一般に思考によってさげすまれてきた、その柔軟な、音響的価値、第二に、情緒的価値、そして最後に、意味的価値である。」

先日行った、原広司の講演会の自分が書いたメモがたまたま目に入ってそこに、
「概念を建築にすると物。物は現象として現れる。」
と書いてあって、その下に
「紙はものだけど、火をつけたら燃えるじゃないか。」
とあった。
この例はすごくいい。現象は認知の問題が大きいので、左脳が重要。原先生は、それを「記号場」と呼んでいた。これは現代であれば、普通に建築を考えていけば、この二項対立は絶対ぶつかる本質的問題。
都市計画でいうと、丹下は物を考えた人で、槇は現象を考えた人。これがこの投稿の本題です。
これを槇の言葉でいうと、丹下は「メガフォーム」で槇は「グループフォーム」。同時期にメタボリズム運動で両者は括られていたから、同じ発想を違う形でしていたとばかり思っていたが、どうやら根本的に違う発想をしていた事を今日発見した。(今は亡き10+1最終号をよんでいたら。)もしかして基本なんですかね。
つまり、槇文彦は「建物やそれに類する集合ー都市の一部」として「集合体」と呼ぶものを「コンポジショナルフォーム」「メガフォーム」「グループフォーム(群造形)」に分けて考えており、要するに、「コンポジショナルフォーム」ってのは各要素(これは主にものとしての建物)間を相対的に関係づけ、「機能的、視覚的、象徴的に満足すべき集合か」を定めていくもの(例えば、ブラジリアやシャンディガール)で、ここではあまり重要でない。後の二つが重要なんだけど、前者/メガフォームは剛構造、後者は柔構造として捉えれば良いと思います。ここでいう剛構造は、ある建物、もしくはそれの集合同士を強いストラクチャーで緊結することでそれらが一つの秩序に収束していくという物のことで、「東京計画1960」は、まさにこういったメガストラクチャー。仮に建築が代謝を起こして新しい空間を付加させたいとき、元のストラクチャーの秩序に収まる形で新しいパーツが付加する。これは黒川にしても菊竹にしても、こういうものを目指したわけだが、槇だけは柔構造を目指したわけです。(というか、この槇の提案は他のメタボの作家の提案の根本の部分を同時期にこっそり批判する案のようにみえてしょうがない。)そこで、グループフォームってのはなんぞや、と。
第三の<かた>は、槇の言葉を借りれば、「結合要素間に存在する強い共通因子をもった要素の発見を前提とした集合」を指す。すなわち各要素とつなぎ手(linkage)の間にお互いフィードバックがあり、相互補完的性格を持つ。つまり、ストラクチャーの部分に文化的背景(例えば、日本でいうと奥性のような宗教観からくる都市構造))や風土性のようなものなど、また、現代的な商業空間の日本人の好みとかが反映されるようなもの。このようなものの具体例としてアルド・ファン・アイクの孤児院が挙げられている。また、このような発想の原点には、エーゲ海の島々の街や北アフリカの村落等、後におこるヴァナキュラー建築主義、地域主義があるようである。
ここに提示されたのは、建築の新しいモデルであったり、建築が代謝するとかしないとかじゃなくて、建築の集合の仕方自体を問うという、極めてスーパーモダンで本質的な視点、メタ建築的とも言える提案であった。この視点で行くと、コルビジェは極めて単純なモデルしか提出できていないと言える。この点で、確実にciam的モダニズムを意識的に乗り越える事に成功しているように思える。「われわれは複合体として現況の構築物をまずとらえることにより、逆にはじめて単体の建築のもつ意味を新しく認識することができることをようやく知りはじめようとしている。」
かっ、かっこいい(惚)。
そこに所謂メタボリズムとの断絶があった事は、本人も認めるところである。「日本のメタボリズムが、どちらかと言えばメガストラクチャー志向だったのとは、かなり違う。私の立場は、アメリカにいたこともあって、CIAMの非常に単純で教条的でもある都市理論みたいなものに反発するチーム・テンの人たちに近い。もっとリー ジョナル(地域的)で、ヒューマンで、人間の行動を中心にした新しい都市・建築空間のあり方があるのではないかと考える方向に進んでいったのです。(ttp://www.rs.noda.tus.ac.jp/~masato/ca_g/review_22/index.htm)」
槇は、古くなった建築を取り替えるというものではなく、人と空間のコミュニケーションによって「都市性」を刷新していく新陳代謝/メタボリズムを目指した。都市性とは、プログラムや行為の質と空間の時代的対応である。都市性の美学とは、「そのものの機能の存在を空間の中で象徴しうるとき<最も美しいかたち>を獲得したという事ができる」というもの。このような槇の様々なグループフォームのプロトタイプは、「散逸するアイデンティティーの蓄積としての建築であり、都市をもののコンポジションとしてではなく、『ことが起こるひとつのパターンとして』記述されている」ものである。
槇は、以上のような「グループフォーム」というアイデアを根幹にすえ、その後のアイデア(例えば「奥性」などにみる日本のヴァナキュラーな都市エレメントの研究)を発展させていく。
ちょっと話がそれるけど、いつか友達に話した僕の軽い仮説があって、そのままペーストすると、
「多木浩二の「生きられる家」の中で、上田篤という人の論を引用していて、西洋は博物館型、日本は劇場型といってて、西洋は部屋自体を象徴的に扱うけど、日本人は振る舞い、しぐさが空間を規定するといってる。たとえば押入れがあってそこに布団やらなにやら入れておいて空間の使用がパンパン変わっていくようなことなど。これは結構、今の、ふわふわ系の流れとの関係性があるのじゃないか。確かに、石上とか家具を置く場所を規定するような作り方をしているけど、それらはどれもめちゃくちゃ軽い装いです。いままで、しまったり出してたりするものをミースの理念(ユニバーサルスペース)とかけて、平面的に展開したともみれないか。逆に西洋の建築がますますモニュメンタルなものを求める態度は部屋をフィックスさせて象徴化した流れの系譜からではないだろうか。」
というものがあって、後ろの方は関係ないんだけど、「グループ・フォーム」は、こういう上田の言う日本(アジア的とも言えるかもしれない)の「劇場的性質」と非常に相性が良かったように思える。
グループフォームはその後レム・コールハースのシンガポール論によって再評価される。
評価されたポイントは、(1、2は槇だけではないけれど、)
1. 当時のヨーロッパの建築家が敬遠していた「量ー集塊 という中心的課題から目を逸らさ」なかったアジア的特性
2. 商業空間を公共空間そして都市の可能性として見た事
3. 現在のグローバル・シティー、特に中国のタブララサ→開発の都市のモデルとなったシンガポールの都市計画の重要な理論家(city roomというアイデア。ちなみにこれを使って大野研が「中国」でかなり前にコンペとってた(入賞とか?)のも興味深い)であった事。
これらのことで重要なことは、建築史的にはモダニズムで「モノ」だった都市計画におけるポイントが、槇・アイク・チームテンあたりで「現象」にシフトして、シンガポールのタブララサな都市計画(60年代)に受け入れられたってことですかね。その後、また「モノ」に戻っていく流れに今はありますね。ってことは、「現象」をやっとけば10年先取りできるんじゃないですか。
やばっ。原広司のところだけ書こうとしたら、こんなに書いてしまった。あーきもい。頭まとめたかったんです。5時間かかったけど………。
以上の参考文献
槇文彦/記憶の形象(集合体とアーバン・デザイン)
レム・コールハース(訳太田佳代子八束はじめ)/シンガポール・ソングラインズ
多木浩二/いきられた家