‘ダンス’ カテゴリーのアーカイブ

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物 = 現象 ー> イメージ

In その他, エロ, ダンス, 建築, 美術, 都市 on 8月 1, 2008 : chiguhagu

副題:二律背反するものの同一性が作る詩的イメージについて(怪‥‥。)

結構、本気で書きました。多分今までで二回目(一回目はジェフ・ウォール)。前回からの個人的最重要テーマ(多様性はどうまとまるか。反モダニズム。反言語説明主義。)に一貫性が作れて個人的には満足しながら文章書きました。

『弓と竪琴』オクタビオ・パス

この絵の詩的効力は後半に分かる

前回の投稿において、槇と丹下のメタボリズムにおけるモノ、コトの対立について書いた。確かにそこには対立があったという事は確かであるが、今回はもっと抽象度を高めた話。モノ=コト、言い換えればモノとしての紙と、コトとしての燃えている紙を和解させるもの、イメージについて。

オクタビオ・パスは最後期のシュルレアリストにしてメキシコのノーベル文学賞作家の詩人で、この本『弓と竪琴』は彼の代表的詩論。これは、あらゆる表現主義者のための聖書であり、西欧的合理主義もしくは近代主義(モダニズム)に対する究極のアンチテーゼ本である。個人的なところでいくと、デビットリンチの作品の時間概念(僕らを悩ます)空間概念は、この本を援用しているとしか思えない一致ぶり。リンチの作品評はいままでかなり読んできたけど、今んとこ、パスの思想を引き合いに出した批評は発見していない。っていうか、マジこの本は今まで読んだ本で五指に入る面白さでした。

パスは言う。

「孤独は人間の条件の根本である。人間は自分が一人ぽっちであることを感じつつ、他者を探し求める唯一の存在である。その本性は‥‥‥他者の中に自己を実現したいと希求するところにある。人間とはノスタルジーであり、連帯の探求である」(『孤独の迷宮』)

まず、訳者の牛島信明による「オクタビオ・パス論」によると、パスの最も重要な関心は、人間における「孤独」と<他者>との「連帯」あるいは「共生」である。一人の人間の中に、自己と他者が共存しているという「二重性」。この、パスの「他者性」という中心的課題は、メキシコ人のアイデンティティーの問題として有名なメキシコ論『孤独の迷宮』で展開されるが、本書でそれはシュルレアリスムの詩と共鳴する。

「シュルレアリスムは、主体と、われわれにとってはいわゆる現実が引き受けている形態である客体との戦いを抹消せんとする、徹底的な試みとして現れる。古代の人びとにとって世界は、意識と同じように充実したものとして存在しており、人間と世界の関係は明快で自然なものであった。われわれにとって世界 の存在は激しい議論の形態をとる ー 一方では、世界は消散して意識のイメージとなるが、また一方では、意識は世界の反映なのである。シュルレアリスムの 冒険は、主体と客体の葛藤を解消せんとするものであるが故に、近代世界に対する攻撃である。 <〜> 客体を溶解するのと同じ酸が、主体をも分解してしまう。自我も無いし、創造者もいない。あるのは一種の詩の力だけで、これが所かまわず駆け巡り、根拠の無い、そして説明し難いイメージを生み出してゆく。」

シュルレアリスムにとっても、パスにおける自己にとっても、古来より二律背反しているとされているもの、主体と客体、自己と他者が、溶け合ったあと残るもの、(非常に形容し難い)根源的な主体もしくは自己のようなものを表出させようとしている。

(この「背反する二重性の同一性→一元論」こそが非常に特徴的でおもしろいところで、仮説としてもともと持っていたので、この本との出会いに涙しました。)

そして、パスはこの人間の二重性、つまり本源的回帰を啓示するものとしての詩的イメージを提案する。

「詩人は事物に名を与える ー これは羽毛であり、あれは石である。

そして不意に断言する ー 石は羽毛であり、これはあれである。」

「石はざらざらして <〜> 羽毛は羽毛のままであり、軽い。そのイメージ(石は羽毛である)はおどろおどろしいものとなる。なぜなら矛盾律に挑みかかるからである ー 重いものは軽いものである。相反するものの同一性を言明することによって、それはわれわれの思考の基盤を侵犯する。従って、イメージの詩的現実は事実を望みえない。」

このような考えの前提として

「人が手を触れるものは何でも志向性を帯びることになる ー <・・・に向かって>行くのである。 人間の世界は意味の世界である。それは曖昧性、矛盾、狂気、あるいは混乱を耐えることはできるが意味の欠如を耐える事はできない。ほかならぬ沈黙にさえ記号が住み着いている。」(それは、近代の生んだ、悪名高き抽象概念、「空間」でさえ!!)

この考え方においては、矛盾した(と、われわれが考える)文章も例外なくそれ自体に意味をおびる。ここでいう「イメージ」とは、この文章にまさに起こりつつある意味の欠如、「沈黙」に対抗する必死の手段である。パスは、ポエジー(詩性の必要条件となるもの→詩的なもの、つまりポエジーを有するもの)によって生まれるイメージこそが芸術の本質的統一(音楽も絵画も詩も同様に芸術であると言えること)を成し遂げると考えているわけだが、その「イメージ」もまた、無意味と背中合わせであり、

イメージとは無意味であり、これはあれである

という、ややこっしい状態なわけである。つまり、無意味であるからこそイメージの必要性はつよくなるという意味で、早速、無意味は無意味でなくなったわけだ。つまりつまり無意味ってのは意味であり、イメージの無意味性はイメージそのものである。(ジョン・ケージの言うsilentという名の音の存在を想起せよ!)

パスの考えるポエジーの世界では、事実かどうかA→Bという順説より、逆説と沈黙こそが神である。

この「背反するものの同一性」について、パスはそれらの「動的かつ必然的共存」のみならず「究極的同一性」を見いだし、そこに西欧の合理的思想の限界を糾弾する。西欧人にとって、思考のコスモス(宇宙)すなわちカオス(混沌)からの世界の再創造は、存在と非存在の間に線を引くことである。火は水ではない。

そして、パスは、この非西欧的、非合理的な、背反するものの同一的な詩的イメージを人間の自己と他者の二重性を啓示するもの、根源回帰のきっかけになるものと考えるわけである。まぁ言ってみれば自己啓発。詩と魔術を非常に近いものと考える詩人オクタビオ・パスにとって自然なかんじ。

そして、西欧的な<これとあれ>ではなく、<これすなわちあれ>、つまりは背反するものの同一は東洋思想(仏教やヒンズー教、道教など)の根幹をなすとパスは考える。

荘子曰く、

「これにあらざるもの無し。あれにあらざるもの無し。これはあれとの関係において生きる。これとあれの相互依存の教えかくのごとし。生は死に対して生なり。この逆もまた真なり。肯定は否定に対して肯定なり。この逆もまた真なり。よって、もし人これに依らば、あれを否定するにいたるべし。しかれども、これ、己の肯定と否定を備え、かつ、己のこれとあれを生ず。よって真の賢人と言えるは、これとあれを退け、<道>につく。」

そしてパス続けて曰く(既に賢者!)

「これとあれ、石と羽毛が融合する時点がある。その瞬間はもろもろの時代の前にも後にもなく、またその始めにも終わりにもない(!)。 <〜> それは連続の王国 ー まさしく相対的対立の世界 ー に住んでいるのではなく、それぞれの瞬間の中にあるのである。」

‥‥‥泣けてきませんか?

「それは自らを生み出し、湧き出させている。そして絶えざる始めである終わりに向けて自らを開いている時間そのものである。噴出、泉。そこ、存在の ー あるいは、存在することの、と言った方が良いかもしれない ー 深奥では、石と羽毛、軽いものと重いもの、生きることと死ぬこと、実在することが、ひとつにして同じものなのである。」

‥お経を模写する行為に入ってます。模写っぷりが心酔っぷりだと思ってください。

「人間と世界、意識と存在、存在と実存の究極的同一性は、人間の最も古い信念であり、科学と宗教、魔術と詩の根源である。われわれのあらゆる企ては、この二つの世界を結ぶ古き小道、忘れられた道を発見することに向けられる。われわれの探求は、対立するものの普遍的照応、その始原的同一性の反映を再発見せんとする、あるいは立証せんとする傾向を持つ。」

こういう背反するものの究極的に溶け合った状態、そして無に至る境地がおそらく悟りの境地であるだろうと、東洋の偉大な哲学者たちは考えたらしい。僕の予想だと(必然的に悟りは分かりえないし、言語化不能なことは目をつぶってトライアルとして言うと)、あらゆる物の関係に対して直線的な相対関係をつくり、溶かしていき(同一化)、最終的には空なり無みたいなものを中心として、放射状にあらゆるものが無限遠にのびていって球体を作るイメージが悟り。ここでいう球は、全体にして無。まぁ、とにかく悟りと言うのは基本的に伝承不可能なのが大原則であるが、その存在を知らすために逆説的に、詩的イメージが必要なのである。ここに、背反するものが弁証法を経て、言葉を超越した(言い表すことのできない)イメージに到達する詩的性質の崇高さがある。(この「崇高」な感じは僕らにとっては、原始的魔術のイメージから来てるきがする)。

トルコのイスラム教神秘主義メヴレヴィー教団のSema(セマー) 反時計回りにひたすら回転する旋回舞踏 右手は天、左手は地を向け、トランス状態→空の状態に入っていく。スカートの広がりは宇宙を表し、回り続ける事で神との同化(仏教でいう涅槃)を目指す。

ちなみに、悟入状態(さとっちゃった状態)における仏の微笑は、悟ったことの表象であると同時に、「その道の大家が何も見出しえなかったことも示しうる」とか。ロランバルトの『表徴の帝国』における表徴の<零度>/<裂け目>ってのは要するにこの理論の二番煎じ。日本人もこのような ー 虚空、すなわち、森羅万象の境地 ー を持っているとされる。日本人の言語をみても、西洋のように一つ一つ定義していって完結に意味の交換的に説明するのではなくて、「あれってやばいよね。」みたいに、代名詞を多用したり、何も言わなかったり(書かなかったり)して何かを伝えようとする。この態度は、<これすなわちあれ>。これは意味の交換の精度を捨てる代わりに、言葉の多様性、冗長性を捨てない態度だと思えば良いと思う。

くどいかも知れないけどまとめると、ここでいう悟りはすなわち、この意味の交換をゼロに限りなく近づけ、そのかわり、言葉の意味の広がりを無限に開く、すなわち、あらゆるものを包括する事。それは同時にあらゆるものを包括しつつ、それらに何の差異も見出さない、無なのである。ここにある衝突、もしくは緊張は、絶対的無限と相対的零度の対立とも読むことができる。そこに、人間性なるものを問うならば、意味の拡大は何者にも縛られない主体のマイ・コスモスの無限の広がりであり、同時に、交換の消滅は人間の本質的孤独、つまり関わり合いの零度を言い表していると読むことができる。

これは、僕の興味で言えば、「静止した状態の紙は燃えた状態の紙である」→「建築におけるモノはゲンショウである」。結局、建築は物であるか、現象であるか、もしくはどっちの視点で眺める方が良いか、っという前回の最後にちょろっと書いた議論は、実はあまり意味がなくて(すいません)、物と事の相克の果てにある、「建築」と我々が呼んではいるものの漠然とした「名称」が指し示す記号概念ではなく、建築的な詩的イメージ、全体性、緊張状態にある「物と事の複合体」にこそ、建築の詩性というものは強く宿ると考られる。

ただし、物と事という対立は存在である場合がほとんどであって、表現には向かないかもしれない。まぁ、詩性を体現する弁証状態は、物と事に限らず、「内ー外」だったり、「構造ー空間」だったり、「新ー旧」だったり色々あると思います。ただ「ものこと」が一番激しいと言っただけ。あ、そういえば絵画と建築の緊張状態を書いた「対立の家」とかいう恥ずかしい文章をm1の時、書いたかも。

結局、パスの言う「イメージ」とは、多様性を緊張的関係のまま、個々の要素を変質させないまま、統合することで全く新しい現実を作り出す契機となるものである。シュルレアリスム(ダダイズム?)の有名な、「こうもり傘とミシン台の出会い」の美学ってのは究極的にはこういうことなのであろう。

決定的に言語的意思決定と合理主義な価値観が横行する世の中だから(世の中自体を外から見ると、とってもシュルレアリスティックで面白いんだけど)、詩性を失った純粋工学の世界だからこそ、ここは皮肉ではなく能動的に、現実の多様性を再生、統合できる「ポエジー(!)」路線で行こうではないか、っていうのが僕の意見です。

〜〜小休止〜〜(サザンのジャケットより、「これが愛の原子爆弾だ!」)

ちなみに、文章読んでて、ふと、セックスが頭によぎりました。

「男は女で逆もまたしかり。私はあなたで逆もまたしかり。僕らは宇宙で逆もまたしかり。」と無根拠に走り書き。

なんだ。どうやら、しっかりあるみたいですね。タントラ教(インドにおける世界最古の信仰とされている)!この宗教の教義では、「肉体を宇宙の隠喩、あるいはイメージ」とすることで、性交を通して宇宙の真理を知るらしい。やっぱ東洋思想のほうがしっくりくるなー。

詩とポエジーについて補習 (写経をもうちょっとしたかっただけだけど。)

「ポエジーは認識、救済、力、放棄である。世界を変えうる作用としての詩的行為は、本質的に革命的なものであり、また、精神的運動なるがゆえに、内 的解放の一方法である。ポエジーはこの世界を啓示し、さらにもう一つの世界を創造する。選良のパンであり、同時に呪われた食物である。」

「ポエジーはあらゆる詩の総和から生まれるものではない。詩的創造は、それ自体が自己充足的な統一体である。」

「詩的創造に おいては、職人たちの虚しい美意識が求めるような素材や道具に対する勝利など存在せず、あるのは素材(詩でいうところの言葉)の解放である。ことば、音、 色、そしてその他の素材は、詩の領域に入るやいなや変質をこうむる。それらは意味や石の伝達手段である事をやめずに、<ほかのもの>になるのである。その 変質はー科学技術の場合とは異なってーその本然的な性質を放棄する事ではなく、それに戻ることである。」

「両面価値的存在である詩語は、十 全にその本来あるべきものーリズム、色、記号内容ーであると同時に、またそれ以外のものーイメージーでもある。ポエジーは、石、色、言葉、そして音をイ メージに変える。イメージであるというこの2番目の特徴、そして聞く人に、あるいは見る人にイメージの星座を喚起するこの奇妙な力は、あらゆる芸術作品を 詩に変える。<〜>詩は言語ー意味と意味の伝達ーであり続けながら、言語の彼方にある何かである。しかし、言語の彼方にある何かには、言語を介してしか到 達する事ができない。絵画は、それが絵画的言語を超えた何かであれば詩であろう。」(ここの絵画を建築に変える事はもちろんできる)

「詠嘆 の場合、ことばは虚空へ投げ出された叫びであって、対話者を必要としない。ことばが抽象的思考の道具である時は、意味がすべてをー聞き手と言語的快感をー 貪り食ってしまう。交換の手段となると、ことばは堕落する。<〜>これらに共通する不具状態の原因は、言語がわれわれの道具、手段、ものになるところにあ る。<〜>しかし詩人はことばを利用しない。詩人はその僕なのである。ことばに仕えることによって、彼はことばに本来の性質を戻し、その存在を回復させる のである。<〜>まず第一に、一般に思考によってさげすまれてきた、その柔軟な、音響的価値、第二に、情緒的価値、そして最後に、意味的価値である。」

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ピナ バウシュ

In ダンス on 7月 9, 2008 : chiguhagu

ユリイカの1995年、ピナ・バウシュ特集をつまみ読んだので文章でも。

実はこのブログ、めっきり建築系ブログになっとりますが、当初はダンスについて書きまくってやりたいと思って始めました。結局、言葉にならないもの、というより言葉になる事を拒否するような振る舞いを文化こそ魅力を感じて、そこにエロス感じちゃったりする事が多くて。

案の定、難しくて断念しちゃうんだけど、こっそりと日々、沸々と言語から遠ざかったものの分析に燃えてるわけです。そもそも、僕はダンスでも建築でも音楽でも文化の中心的価値に置いてるものとは、「多くの批評を呼び、それに耐えうる(消費され尽くさない)もの」が価値がある、という事です。藤枝晃雄 がそのような意味で、アールヌーボーよりキュビズムの方が重要、みたいな事を述べていましたが、このような考え方にはかなり賛成しています。物である建築においても、同様の評価をしています。ちょっとこの「批評」という言葉には嫌いがあるけど。話題になるってそれだけでとにかくすごい! なんだかんだで、噂される事が仕事の芸能人はその人間性如何に関わらずとりあえず能力が高い、すごい!みたいな。まず、そこを最低ラインとしてから好き嫌いをいっていく。誰も知らないマニアックなグラビア・アイドルよりメジャーなグラビア・アイドルを語りたいっていう、みうらじゅんやリリーフランキーの「グラビア魂(spa!)」とは対立した発想ですね。 (あー、こんなこと書くから失敗するんだ。)

そういう観点で、おもろい文化はなんかっていうと、僕の場合ドンピシャでピナ・バウシュなんですね。

ピナはとにかく消費しずらい。要するにディテールとかも含めて理解すること自体が困難。では接点が無いかというと、そうでもなくて、日常的な、もしくは人生的な情動なるものの身体的表現(小林康夫的にいうと、そういう身体の存在)が、結構心に訴えてくるんです。これは僕の中で最上級の「左脳的芸術表現」。人生のシーンのアナロジーに過ぎないのに、どうやら心に届く。アナロジーの方が届く。そういうものかもしれません。それってすごい。

ピナは作品を組み立てるときにダンサーに絶えず質問をする。例えば、「クリスマスはどう振る舞うの」とか。そうして集められた人生の欠片のような、言い換えれば、物語における身体の挙動のサンプルをばさばさ切ってランダムにミックスしちゃう(これはポストモダニストが泣いて喜びそうに見事な脱構築と呼べる表現だと思う。)。こういうの完全に建築的にするとどうなるか考えたくなっちゃう。人生のシーンが象徴化(イコン化?)されて空間になんとか反映させたりみたいな。磯崎新→青木淳は結構、近いところまできてる。

以下、ユリイカから脈絡なく抜粋

浅田彰

「確かにピナのやっていることというのは、既に死んだ記号となって積み重なっている物語生とか様式生とかを適当に引用してコラージュするということなんだけども、表層的な記号のコラージュをポストモダンと呼ぶとすれば、それはその意味でポストモダンではない。ある生々しい何かーもちろん古典的なバレエやダンスのコードからも落ちこぼれてしまうような、生々しい身体とその情動がそこにあって、それが彼女のタンツテアターの不可能な核みたいな物を作っているんじゃないか」(p167)

「ただ、面白いのは 〜 そこで、なぜ泣いたか、なぜ笑ったか、と言った理由をー言い換えれば物語をー切断してしまうんです」

畠中

「モンタージュの技法は、生の連関の総体から一つの要素を抜き出す。モンタージュによって、その要素は孤立させられ、個の要素から機能を奪うことになる。」(p158)

「ベンヤミンが「映画フィルムの映像のように、ワンショットずつ進行する」と表現する「叙事的演劇」のように、ピナ・バウシュの作品は場面と場面とを結びつけていく」

ピナ・バウシュ

「私は、人間がいかに動くかということにはそれほど関心がありません。むしろ関心があるのは、何が人間を動かすのかです。」

ヨッヘン・シュミット

「60年代後半、何かがヨーロッパで起こったのであれば、それはダンスにおけるこの人間像の刷新だったのです。そこでは、ダンサーはもはやたんなる動きの担い手ではなく、感情や気分の担い手でもあったのです。」

小林

「むしろ我々の存在、しかも身体というこのあまりにも人間的なカテゴリーのもとにおかれた存在が必然的に形態的でもあり、情動的でもあるという事を 考えてみなければならないのだ。我々の存在は身体的であり、同時に根源的に情動的である。すなわち、根源的には、情動は表現の領野ではなく、存在の領野に 属しているのだ。」

建築家が、感情や気分の担い手になれるだろうか?まぁ僕は成りたいタイプだけど、凄まじく難しい。てかダンサーと建築家が役割を共有できるはずもなく。でも、保守・右翼たちに囲まれた固い常識と社会倫理地獄と、ピースでバイオレンスな演劇的な世界の境界を作ってやったりすることは少なくてもできる。そこで感情ぶちまけろ的な。まぁそう言うのが好きってわけでもないんだけど、って優柔不断な態度で申し訳ないですが。

僕がよく行ってた飲み屋はすごくそれを実践してるの。細長い平面のお店の真ん中でカウンターをバチーンと置いて、お酒作る方とお酒飲む方にわけられてる。そして、客側のうしろに掛けられているコスプレ道具(ブルマとか)がその領域を横断する際、非常に有効に働くわけです。というか振る舞いを喚起する。すなわち、女の子(客)とかがセーラー服とか着るとお酒を作る側にまわっておしゃべりをする。この切り替わりを誘発してるのは明らかにバーカウンターとコスプレ衣装だ。こういうのは普通のアフォーダンスでは無いとおもいます。もっとディープで特殊な。ってピナバウシュ関係無いけど。

あと、ゴールデン街にも面白い構成の飲み屋があって、これも狭い店なんだけど、真ん中(前例で言うバーカウンターの位置)が通路でママがいて、両側にお客。それも強制対面式。あれもすごく良かった。結局僕らは場に要求されないと、普通、情動も糞もないから。要求されなくても勝手にやってる人たまに居るけど、あれはどうだか。

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女子高生ストリートダンス

In ダンス on 1月 17, 2007 : chiguhagu

激しい・・・。

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Sylvie Guillem & Russell Maliphant

In ダンス on 1月 4, 2007 : chiguhagu

Sylvie Guillem & Russell Maliphant
“Push”をみました。この踊りには表現の構造が非常にシンプルに含まれております。しかしそれを記述するのは複雑な作業です。

僕が思うに、基本は ’スムーズに動く事’  と動きの断片が下の写真のように ’構成的である事’が組み合わされたとき、ダンスは非常に美しく見えます。

古典である、バレエはひたすらこれを磨き続けたものなのだが、コンテンポラリーダンスは日本語で現代舞踏であるから、とにかく、古典に対して現代なのである。そうなると、「何が現代的か」というのが、ダンスの制作者にとってまず乗り越えなければならない最も重要かつシンプルな問いです。この文章の始めに、「表現の構造が非常にシンプルに含まれて」いると書いたのは、つまり、「何が現代的か」という問いに対する答えがシンプルであるという意味で書きました。それはクリエーションする人たちが意識したかどうかはあんま分かんないけど、「現代的とは、古典の延長としての現代である」という答えを出したように僕には見えました。

もともギエムは20世紀後半、最大の天才バレリーナとしてのキャリアを持っているので、彼女が現代ダンスをやれば自ずとそうなるといえば、なるのだが、それ以上の表現、つまりポストモダン的な(モダンの後の、という意味ではなく記号的なといった)表現を入れず、現代的美学に照らし合わせた「構成」(コンポジションと言った方が良いか?)を踊りに挿入したと感じました。それは僕にとって古典の延長なのです。

下のダンスの写真が作る構成は現代的だと思うのですが、言語化までは出来ません。話が冗長になりそう。どうですか?そう思いませんか?これらの美しさは機械のメタファーが無いのです。‥‥あ、一つぐらいあったかも。

結構、ダンスを見てる感じ入るのは、特徴的な動きの構造だったり、単純な動きの集まったとき見えてくる運動の構造なのだけど、Sylvie Guillem & Russell Maliphantのダンスは「構成」をみて非常に感心しました。すごい!少し、まともな身体表現を構想する地平に立てるようになったと思いたい。

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歩く机

In ダンス, 建築 on 12月 13, 2006 : chiguhagu

これ欲しいー

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これもたのぴー

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Emio Greco HELL

In ダンス on 12月 13, 2006 : chiguhagu

Emio Grecoのカンパニーのダンスを見ました。久しぶりにダンスのトピ。っていうかダンスの批評とか感想って凄い難しいし、パンフレットがフランス語だけなので、翻訳機で英訳してよんでいるのだが、書いてある内容が、いかにもなフランスの文章、なんというか例えば、Of the hell to the dance, there would only be a step, a passage, a crossing? It is what seems to tell us Emio Greco and Pieter C. Scholten with their last creation, Hell. という走りから始まる感じ。翻訳機の英語だからあやしいけど、「彼らはなんと誉れ高き競走馬のようだ!」(千種が作った例え)チックな大袈裟な下りが多くてあんま意味分かんない。

とりあえずパンフの写真を見てみましょう。greco.jpggr.jpg

非常にギャップが有るけど同じダンサーの同じcreationです。

タイトルのhellは例のごとくダンテのコンテンポラリーダンスへの翻訳です。 よって若干断片的では有るが、演劇的な作品としてみる事も出来ます。特に哲学的な作品では無さそうなので、深読みをしてもあまり楽しめないので、ありのまま(!!!)をじっくり見ておりました。1枚目はシリアスな感じですが、基本的に2枚目路線です。

the purest entertainment and a deep reflection on the human. ざっくりいうとこういう事。

やっぱりコンテンポラリーダンスは説明する言語を持たないっすね。言葉で感動を説明するのは無理。上のように 写真にしても、テイストが違うと全く違う作品に見えてきます。つまりただひたすら、見るのみ!なところがいいです。最近はまっている理由はそこら辺に有ります。要するに消費しづらいメディアなのです。この大スペクタクルが当日券で学割り13ユーロで結構良い席で見れるのが僕にとって、パリの一番良い点かもしれないです。やはり世界中で一番集まってくるんです。ここ↓が世界最強の劇場です。

パリ市立劇場

ちなみに裸の踊りは初めて見たんだけど、股間や胸はコントロールできないのに突起してるから、非常に表現には向かないです‥‥‥。筋肉の動く躍動感はもう、最高にいい!けつ筋が特によし。

忘備録

今まで見た人

Padmini Chettur / Louise Lecavalier / Daniel Larrieu / Emio Greco

後は フランス国立バレエ団 と もう一組名前忘れた。

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イタリアの墓

In ダンス, 建築 on 11月 24, 2006 : chiguhagu

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イタリアのユダヤ人の墓って凄いんです。荒廃っぷりが 。これ、デコンストラクションって感じ。

何でこうなっちゃたのかは、知る由は有るかもしれないけど、とりあえず省きますが、 これは石の造形としてはいいですよ〜。もたれ合う、各々が違う方向に傾く、折れて倒れる、一つ一つは造形的。神妙な感じもあって80年代、建築家が目指した理念に非常に近いですね(馬鹿)。

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これらもいいですよ。なんでかな。死者を辱めている点かな、後ろから見たらださっ!みたいな。p1030148.JPG

グリッドなんだけど大量だと2方向に開いてるみたいにみえるなー。

こういうのも、うん、良いと思う。ごめん全然文章になってなくて。墓フェチなので、のろけてるだけかも。

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Padmini Chettur

In ダンス on 10月 31, 2006 : chiguhagu

インドの若いコンテンポラリーダンサーのPadmini ChetturのダンスをTHEATRE DE LA VILLEで見ました。インド発の純粋なコンテンポラリーダンスという事で、非常に注目されているそう。

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彼女のダンスをダンサーが腕となり解釈して全体が変形していきます。

構造的なダンスという言葉がぴったり来ます。お互いが相互換性を持っていて、変化するときと、構造として安定しているときが交互に反復します。止まっているとき、すなわち安定しているときの美しさももちろんですが、やはり、構造が変化するときの切り替わりの動作の美しさが全体としての完成度をあげていると思います。その点は、安定の美を対象とした建築とは相反します。
1秒か2秒間隔の緩い単調なリズムにあわせて動きの型を当てはめて変形していく様は非常に心地が良いです。寝てしまいました。

しかし、寝ちゃうっていうのも示唆的なもんで、僕のリズムがおそらくシンクロしていくのでしょう。それはおよそ、機械が同様に動いても引きだすことが出来ない、「有機的」な物だったからでしょう。

有機的という言葉に相当する、動きを伴った状態を表現する事は建築に置いて出来るのでしょか?

結構、建築家はチャレンジしているはずなのですが。

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これはフランスの建築家のR&SIEのプロジェクトで前にもMIXIで紹介した物ですが、自動生成的な物には非常に有機的な表現を感じます。裏返すと、おそらく自動生成でしか感じないのではないでしょう。そんなことを考えて、しばらくはダンスの方にある種の表現のプライオリティーがある事を確認しながら、建築の事を書いていきます‥‥‥んん^どうだろー、か。

ちなみに 、彼らに入れ込んで、結構引き合いに出すのは、表現が最高に高度だと思っているからです。

 

さらにちなみに↓は無機質な人たち

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floris_shorts_meta_bg530.jpgこの人もですか。てか人?

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パンテオン

In エロ, ダンス, 建築, 美術 on 10月 26, 2006 : chiguhagu

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ブラジル人アーチスト Ernesto Netoが、パリのパンテオンで行った巨大インスタレーション

タイツ素材の膜に香辛料やビーズ状のスタイロを入れて作り出す、柔らかいフォルム。

この作品のメーキングビデオによると、この網目状の物体は擬人的なもので、身体のリズムを表現しています。紆余曲折な人生とフォルムがどうやら(サンバの)リズムでシンクロしていると、作者自身踊りながら話しているビデオでした。 ほんとにextreammm!な空間なんですけど、癒しなんです。それも非常に巧みなんです。

なんだかんだ、僕等の周りにある形って、凄く単純な構造が非常に複雑な形態を生んでいる事がやっぱり多いですね。

吊って引っ張って吊って 。たまに玉金みたいなのがあります。
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rimg0028.jpgエロス‥‥。

http://www.look-inc.jp/marcjacobs