
‘エロ’ カテゴリーのアーカイブ

トランス感 二題
すごい好き。どっちも。あげあげ
エロ本収集家のクリス・カンニンガムがジュリアナと気分的にシンクロしてもなんら違和感はないですよね?
どっちも聖なる儀式を思わせますね。
かなりBPMもかぶるよーな?一緒にみろってこと???はーどこあ杉っ!
嗚呼、視覚芸術万歳

ハイヒール
ハイヒールが大好きです。最近靖国神社の蚤の市にて一足購入しました。
クエスチョンマークなる謎の安っぽいブランドの靴で、店長に元は3万するとか言われたけど、値切ったら2千円になったんだけど、ネットで後で調べたら、ふつうの売値がそんなもんだったっていう。
淵が透明でマシュー・バーニー的、近未来きっちゅ。特に素晴らしいとは言わないけど、確実に好みの路線ではあります。

あとは、秘蔵画像コレクション 下に行くほどキッチュになる仕組み。


物 = 現象 ー> イメージ
副題:二律背反するものの同一性が作る詩的イメージについて(怪‥‥。)
結構、本気で書きました。多分今までで二回目(一回目はジェフ・ウォール)。前回からの個人的最重要テーマ(多様性はどうまとまるか。反モダニズム。反言語説明主義。)に一貫性が作れて個人的には満足しながら文章書きました。
『弓と竪琴』オクタビオ・パス
前回の投稿において、槇と丹下のメタボリズムにおけるモノ、コトの対立について書いた。確かにそこには対立があったという事は確かであるが、今回はもっと抽象度を高めた話。モノ=コト、言い換えればモノとしての紙と、コトとしての燃えている紙を和解させるもの、イメージについて。
オクタビオ・パスは最後期のシュルレアリストにしてメキシコのノーベル文学賞作家の詩人で、この本『弓と竪琴』は彼の代表的詩論。これは、あらゆる表現主義者のための聖書であり、西欧的合理主義もしくは近代主義(モダニズム)に対する究極のアンチテーゼ本である。個人的なところでいくと、デビットリンチの作品の時間概念(僕らを悩ます)空間概念は、この本を援用しているとしか思えない一致ぶり。リンチの作品評はいままでかなり読んできたけど、今んとこ、パスの思想を引き合いに出した批評は発見していない。っていうか、マジこの本は今まで読んだ本で五指に入る面白さでした。
パスは言う。
「孤独は人間の条件の根本である。人間は自分が一人ぽっちであることを感じつつ、他者を探し求める唯一の存在である。その本性は‥‥‥他者の中に自己を実現したいと希求するところにある。人間とはノスタルジーであり、連帯の探求である」(『孤独の迷宮』)
まず、訳者の牛島信明による「オクタビオ・パス論」によると、パスの最も重要な関心は、人間における「孤独」と<他者>との「連帯」あるいは「共生」である。一人の人間の中に、自己と他者が共存しているという「二重性」。この、パスの「他者性」という中心的課題は、メキシコ人のアイデンティティーの問題として有名なメキシコ論『孤独の迷宮』で展開されるが、本書でそれはシュルレアリスムの詩と共鳴する。
「シュルレアリスムは、主体と、われわれにとってはいわゆる現実が引き受けている形態である客体との戦いを抹消せんとする、徹底的な試みとして現れる。古代の人びとにとって世界は、意識と同じように充実したものとして存在しており、人間と世界の関係は明快で自然なものであった。われわれにとって世界 の存在は激しい議論の形態をとる ー 一方では、世界は消散して意識のイメージとなるが、また一方では、意識は世界の反映なのである。シュルレアリスムの 冒険は、主体と客体の葛藤を解消せんとするものであるが故に、近代世界に対する攻撃である。 <〜> 客体を溶解するのと同じ酸が、主体をも分解してしまう。自我も無いし、創造者もいない。あるのは一種の詩の力だけで、これが所かまわず駆け巡り、根拠の無い、そして説明し難いイメージを生み出してゆく。」
シュルレアリスムにとっても、パスにおける自己にとっても、古来より二律背反しているとされているもの、主体と客体、自己と他者が、溶け合ったあと残るもの、(非常に形容し難い)根源的な主体もしくは自己のようなものを表出させようとしている。
(この「背反する二重性の同一性→一元論」こそが非常に特徴的でおもしろいところで、仮説としてもともと持っていたので、この本との出会いに涙しました。)
そして、パスはこの人間の二重性、つまり本源的回帰を啓示するものとしての詩的イメージを提案する。
「詩人は事物に名を与える ー これは羽毛であり、あれは石である。
そして不意に断言する ー 石は羽毛であり、これはあれである。」
「石はざらざらして <〜> 羽毛は羽毛のままであり、軽い。そのイメージ(石は羽毛である)はおどろおどろしいものとなる。なぜなら矛盾律に挑みかかるからである ー 重いものは軽いものである。相反するものの同一性を言明することによって、それはわれわれの思考の基盤を侵犯する。従って、イメージの詩的現実は事実を望みえない。」
このような考えの前提として
「人が手を触れるものは何でも志向性を帯びることになる ー <・・・に向かって>行くのである。 人間の世界は意味の世界である。それは曖昧性、矛盾、狂気、あるいは混乱を耐えることはできるが意味の欠如を耐える事はできない。ほかならぬ沈黙にさえ記号が住み着いている。」(それは、近代の生んだ、悪名高き抽象概念、「空間」でさえ!!)
この考え方においては、矛盾した(と、われわれが考える)文章も例外なくそれ自体に意味をおびる。ここでいう「イメージ」とは、この文章にまさに起こりつつある意味の欠如、「沈黙」に対抗する必死の手段である。パスは、ポエジー(詩性の必要条件となるもの→詩的なもの、つまりポエジーを有するもの)によって生まれるイメージこそが芸術の本質的統一(音楽も絵画も詩も同様に芸術であると言えること)を成し遂げると考えているわけだが、その「イメージ」もまた、無意味と背中合わせであり、
イメージとは無意味であり、これはあれである
という、ややこっしい状態なわけである。つまり、無意味であるからこそイメージの必要性はつよくなるという意味で、早速、無意味は無意味でなくなったわけだ。つまりつまり無意味ってのは意味であり、イメージの無意味性はイメージそのものである。(ジョン・ケージの言うsilentという名の音の存在を想起せよ!)
パスの考えるポエジーの世界では、事実かどうかA→Bという順説より、逆説と沈黙こそが神である。
この「背反するものの同一性」について、パスはそれらの「動的かつ必然的共存」のみならず「究極的同一性」を見いだし、そこに西欧の合理的思想の限界を糾弾する。西欧人にとって、思考のコスモス(宇宙)すなわちカオス(混沌)からの世界の再創造は、存在と非存在の間に線を引くことである。火は水ではない。
そして、パスは、この非西欧的、非合理的な、背反するものの同一的な詩的イメージを人間の自己と他者の二重性を啓示するもの、根源回帰のきっかけになるものと考えるわけである。まぁ言ってみれば自己啓発。詩と魔術を非常に近いものと考える詩人オクタビオ・パスにとって自然なかんじ。
そして、西欧的な<これとあれ>ではなく、<これすなわちあれ>、つまりは背反するものの同一は東洋思想(仏教やヒンズー教、道教など)の根幹をなすとパスは考える。
荘子曰く、
「これにあらざるもの無し。あれにあらざるもの無し。これはあれとの関係において生きる。これとあれの相互依存の教えかくのごとし。生は死に対して生なり。この逆もまた真なり。肯定は否定に対して肯定なり。この逆もまた真なり。よって、もし人これに依らば、あれを否定するにいたるべし。しかれども、これ、己の肯定と否定を備え、かつ、己のこれとあれを生ず。よって真の賢人と言えるは、これとあれを退け、<道>につく。」
そしてパス続けて曰く(既に賢者!)
「これとあれ、石と羽毛が融合する時点がある。その瞬間はもろもろの時代の前にも後にもなく、またその始めにも終わりにもない(!)。 <〜> それは連続の王国 ー まさしく相対的対立の世界 ー に住んでいるのではなく、それぞれの瞬間の中にあるのである。」
‥‥‥泣けてきませんか?
「それは自らを生み出し、湧き出させている。そして絶えざる始めである終わりに向けて自らを開いている時間そのものである。噴出、泉。そこ、存在の ー あるいは、存在することの、と言った方が良いかもしれない ー 深奥では、石と羽毛、軽いものと重いもの、生きることと死ぬこと、実在することが、ひとつにして同じものなのである。」
‥お経を模写する行為に入ってます。模写っぷりが心酔っぷりだと思ってください。
「人間と世界、意識と存在、存在と実存の究極的同一性は、人間の最も古い信念であり、科学と宗教、魔術と詩の根源である。われわれのあらゆる企ては、この二つの世界を結ぶ古き小道、忘れられた道を発見することに向けられる。われわれの探求は、対立するものの普遍的照応、その始原的同一性の反映を再発見せんとする、あるいは立証せんとする傾向を持つ。」
こういう背反するものの究極的に溶け合った状態、そして無に至る境地がおそらく悟りの境地であるだろうと、東洋の偉大な哲学者たちは考えたらしい。僕の予想だと(必然的に悟りは分かりえないし、言語化不能なことは目をつぶってトライアルとして言うと)、あらゆる物の関係に対して直線的な相対関係をつくり、溶かしていき(同一化)、最終的には空なり無みたいなものを中心として、放射状にあらゆるものが無限遠にのびていって球体を作るイメージが悟り。ここでいう球は、全体にして無。まぁ、とにかく悟りと言うのは基本的に伝承不可能なのが大原則であるが、その存在を知らすために逆説的に、詩的イメージが必要なのである。ここに、背反するものが弁証法を経て、言葉を超越した(言い表すことのできない)イメージに到達する詩的性質の崇高さがある。(この「崇高」な感じは僕らにとっては、原始的魔術のイメージから来てるきがする)。
トルコのイスラム教神秘主義メヴレヴィー教団のSema(セマー) 反時計回りにひたすら回転する旋回舞踏 右手は天、左手は地を向け、トランス状態→空の状態に入っていく。スカートの広がりは宇宙を表し、回り続ける事で神との同化(仏教でいう涅槃)を目指す。
ちなみに、悟入状態(さとっちゃった状態)における仏の微笑は、悟ったことの表象であると同時に、「その道の大家が何も見出しえなかったことも示しうる」とか。ロランバルトの『表徴の帝国』における表徴の<零度>/<裂け目>ってのは要するにこの理論の二番煎じ。日本人もこのような ー 虚空、すなわち、森羅万象の境地 ー を持っているとされる。日本人の言語をみても、西洋のように一つ一つ定義していって完結に意味の交換的に説明するのではなくて、「あれってやばいよね。」みたいに、代名詞を多用したり、何も言わなかったり(書かなかったり)して何かを伝えようとする。この態度は、<これすなわちあれ>。これは意味の交換の精度を捨てる代わりに、言葉の多様性、冗長性を捨てない態度だと思えば良いと思う。
くどいかも知れないけどまとめると、ここでいう悟りはすなわち、この意味の交換をゼロに限りなく近づけ、そのかわり、言葉の意味の広がりを無限に開く、すなわち、あらゆるものを包括する事。それは同時にあらゆるものを包括しつつ、それらに何の差異も見出さない、無なのである。ここにある衝突、もしくは緊張は、絶対的無限と相対的零度の対立とも読むことができる。そこに、人間性なるものを問うならば、意味の拡大は何者にも縛られない主体のマイ・コスモスの無限の広がりであり、同時に、交換の消滅は人間の本質的孤独、つまり関わり合いの零度を言い表していると読むことができる。
これは、僕の興味で言えば、「静止した状態の紙は燃えた状態の紙である」→「建築におけるモノはゲンショウである」。結局、建築は物であるか、現象であるか、もしくはどっちの視点で眺める方が良いか、っという前回の最後にちょろっと書いた議論は、実はあまり意味がなくて(すいません)、物と事の相克の果てにある、「建築」と我々が呼んではいるものの漠然とした「名称」が指し示す記号概念ではなく、建築的な詩的イメージ、全体性、緊張状態にある「物と事の複合体」にこそ、建築の詩性というものは強く宿ると考られる。
ただし、物と事という対立は存在である場合がほとんどであって、表現には向かないかもしれない。まぁ、詩性を体現する弁証状態は、物と事に限らず、「内ー外」だったり、「構造ー空間」だったり、「新ー旧」だったり色々あると思います。ただ「ものこと」が一番激しいと言っただけ。あ、そういえば絵画と建築の緊張状態を書いた「対立の家」とかいう恥ずかしい文章をm1の時、書いたかも。
結局、パスの言う「イメージ」とは、多様性を緊張的関係のまま、個々の要素を変質させないまま、統合することで全く新しい現実を作り出す契機となるものである。シュルレアリスム(ダダイズム?)の有名な、「こうもり傘とミシン台の出会い」の美学ってのは究極的にはこういうことなのであろう。
決定的に言語的意思決定と合理主義な価値観が横行する世の中だから(世の中自体を外から見ると、とってもシュルレアリスティックで面白いんだけど)、詩性を失った純粋工学の世界だからこそ、ここは皮肉ではなく能動的に、現実の多様性を再生、統合できる「ポエジー(!)」路線で行こうではないか、っていうのが僕の意見です。
〜〜小休止〜〜(サザンのジャケットより、「これが愛の原子爆弾だ!」)
ちなみに、文章読んでて、ふと、セックスが頭によぎりました。
「男は女で逆もまたしかり。私はあなたで逆もまたしかり。僕らは宇宙で逆もまたしかり。」と無根拠に走り書き。
なんだ。どうやら、しっかりあるみたいですね。タントラ教(インドにおける世界最古の信仰とされている)!この宗教の教義では、「肉体を宇宙の隠喩、あるいはイメージ」とすることで、性交を通して宇宙の真理を知るらしい。やっぱ東洋思想のほうがしっくりくるなー。
詩とポエジーについて補習 (写経をもうちょっとしたかっただけだけど。)
「ポエジーは認識、救済、力、放棄である。世界を変えうる作用としての詩的行為は、本質的に革命的なものであり、また、精神的運動なるがゆえに、内 的解放の一方法である。ポエジーはこの世界を啓示し、さらにもう一つの世界を創造する。選良のパンであり、同時に呪われた食物である。」
「ポエジーはあらゆる詩の総和から生まれるものではない。詩的創造は、それ自体が自己充足的な統一体である。」
「詩的創造に おいては、職人たちの虚しい美意識が求めるような素材や道具に対する勝利など存在せず、あるのは素材(詩でいうところの言葉)の解放である。ことば、音、 色、そしてその他の素材は、詩の領域に入るやいなや変質をこうむる。それらは意味や石の伝達手段である事をやめずに、<ほかのもの>になるのである。その 変質はー科学技術の場合とは異なってーその本然的な性質を放棄する事ではなく、それに戻ることである。」
「両面価値的存在である詩語は、十 全にその本来あるべきものーリズム、色、記号内容ーであると同時に、またそれ以外のものーイメージーでもある。ポエジーは、石、色、言葉、そして音をイ メージに変える。イメージであるというこの2番目の特徴、そして聞く人に、あるいは見る人にイメージの星座を喚起するこの奇妙な力は、あらゆる芸術作品を 詩に変える。<〜>詩は言語ー意味と意味の伝達ーであり続けながら、言語の彼方にある何かである。しかし、言語の彼方にある何かには、言語を介してしか到 達する事ができない。絵画は、それが絵画的言語を超えた何かであれば詩であろう。」(ここの絵画を建築に変える事はもちろんできる)
「詠嘆 の場合、ことばは虚空へ投げ出された叫びであって、対話者を必要としない。ことばが抽象的思考の道具である時は、意味がすべてをー聞き手と言語的快感をー 貪り食ってしまう。交換の手段となると、ことばは堕落する。<〜>これらに共通する不具状態の原因は、言語がわれわれの道具、手段、ものになるところにあ る。<〜>しかし詩人はことばを利用しない。詩人はその僕なのである。ことばに仕えることによって、彼はことばに本来の性質を戻し、その存在を回復させる のである。<〜>まず第一に、一般に思考によってさげすまれてきた、その柔軟な、音響的価値、第二に、情緒的価値、そして最後に、意味的価値である。」

ポスト × 生き物
飲んでマース、ってなぐあいで 帰り道に、 郵便ポストに子猫がいっぱい入ってて、入れる口から、にゃーにゃーが多重奏で、って、妄想しちゃった。やばー。
だけど、蟻とかがいっぱい入ってるのと根本的に違うと思ったんですよ。現象として。
なんか子猫はいってたら、アウシュビッツに送られるユダヤ人の電車のごとくな猫ちゃんにスポットが当たる出来事だけど、蟻がいっぱいいたら、おぞましいポストってことになりますよね。
ってことは、建築で言うと、猫ちゃんはどうしても住人なわけで、一方、蟻は建築になれるんですわ。
ってどうでもいっか。
spa!にのってた漫画の書評から、感動的な一コマ載せときます。多分これがこの妄想のインスピレーション元となっていたのでしょう。「獣(けだもの)ドクター」っていう、エッチな獣医ものの漫画みたいっす。
マンションの扉の郵便受けを利用したあれですけど、人間でやったらどうなるか、みたいな事が書いてありました。どうなるんでしょうか。想像してしまいました。

えぶりわんのーず
NERDの新しいのやばー。初めて、アイチューンで買っちゃったよ。そして、ダッサーイのも発見。
同じヒップホップ、同時代、同じ三人グループ、同じ女の子系PV、同じアップローダー(←こいつの趣味がおかしい)。ここまで違うか・.・・。まじ、いい感じです。えろすぎ。こんなPV作ってたら子供たち(この場合、アメリカの白人?)に売れねーよ。でも、いいの。日本人も嫌いだよね。 なんか呪文っぽい。昔はまってたICE-Tを思い出しました。
と、
あと、これ↓にも嵌ってます。ちゃらいです。 17000円!のノイズキャンセリングヘッドホン付けてまわりを気にせず踊りながら生活してます。(そのうち、ぜったい事故る。)
PV最悪! 売れると思ってなかったのかしら。低予算?昔のハウスとかのPVを彷彿させますね。
陰がニョローン、な踊りは良いと思う。よくみると、違う動きしてる。やっぱいいね。蟹江。

孔雀に思う。
ぁぁあー くじゃく好きだー。上野動物園で一番心引かれたのは何を隠そう孔雀さんだが、子供の頃初めて見たエロアニメ「孔雀王」(徐に主人公の目の前で姫が犯されるシーン)と関係があるかと言えば、無い。
そんな孔雀がミュンヘンの動物園では、他の動物たちの引き立て役として一緒の島に居させられていたのには、ずいぶん腹が立った。
ところで、
1 求愛のための模様なのだから、孔雀自身はこういうのを美しく思ってる。
2 人も孔雀の模様を美しく思っている。
↓
3 普遍的な美?
まぁ自分で言っといてなんですけど、普遍的な美なんて無いですよね。ここで言ってるのは、ある、歴史をすっとばして人類が共通で感じるような美という程度のものです。
多分、孔雀と人が見えてる世界は絶対違うから、普遍の美とは違いますかね。とすると、人と人においても美意識は確実には一致しないとも言えるし(逆に意外と一致しているとも言えるが・・)こういう事はあまり探求しても報われないかもしれませんね。結局造形作家にとって目指すべき場所はより多くの賛同を得るor専門的な人の共通の審美眼に叶う事で・・・。どうでもいいつまんない話だなー。自己完結な疑問でした。
ちょうど良いから(何故か?)、僕が今編み出した美の類型を書いとくと(全く懲りてない。)
α 正の情報を伴うもの
(女性は優秀な精子が欲しいので、賢い人はかっこ良く見えるようになっている、合理的な形(この言葉をポジティブに使用した時)は美しい、みたいな事とか)
が世の「美しい」や「かっこいい」の大半を担ってる気がしますね。神秘主義たちの図像崇拝ですらこれが多いと思う。
β 負の情報を全く伴わないもの
(何やら分からないけど力強い形、理屈は分からんけどそこに存在する凄み、見た事の無い物など)
このような審美眼は古典な気がするけど、感度のいい人(霊感といってもよいかも)は未だにこれに引かれるわけです。そしてこれからの時代に求められるポテンシャルは感じるのだけど、どうして良いのか分からないのです。シュルレアリスムの審美眼もこれに属すと思います。
そして
γ ? 謎なんですね。
「かわいい」ってのは根本的にαでもβでもないのかも。そういうものからずれてる感覚で、現象としては面白い。ある種のフェティッシュなんで、そういう感覚がないと全然楽しめない閉鎖的な価値観だからいろいろ議論を呼んでますね。ちなみに、これは「美」とは無関係という意見は受け付けません。形になるもの、そこに美意識無き物は無し。
あとがき
ちなみにバタイユは、α的な美を侵犯する行為にエロスを見いだしてます。つまり、人間性(当時のヨーロッパの人の感覚、美意識での)、それを思わす端正な顔(なるたけ動物、特に類人猿と離れた方が美しく見えるらしい)を動物的行為、つまりセックスによって侵犯すると言っている(ちなみにレオナルドダビンチが言うように性器はなんと言おうと美的に醜いものらしい、なるほど)。そこにエロティシズムをみいだすわけですが、そのような興味がβ的美意識集団であるシュールレアリスト達との対立をもたらすのは非常に僕的には納得ができるわけです。ちなみにバタイユはアンドレ・ブルトンのライバルとされていました。
おわり

ファッションあれこれ
マークジェイコブスはRichard Princeに心酔してます。下、 Richard Princeとのコラボ。


こっちが、Richard Princeに対するオマージュ。スーパーモデル×スーパーカー。
商業アイコンどうしの強い結び付き、という新たなアイコンを作り出しているんだと思います。


こちらがRichard Princeの作品↓ 既製品の書き換え。美学そのものを問うております。
ファッショナブルなイメージが看護婦に書き換えられてそれが更にLVを通してファッショナブルなアイコンとなるという事の回りくどさ!”最高。マークがやったかリチャードがやったか知らないけど、そこらへんは非常に意識的にコンセプチャルにやっているのでしょう。

下、最近で一番ヒットした服。ヴィトンだっけ。マークBYマークジェイコブス?
すごい美的感覚が揺さぶられます。エレガントとかラグジュアリーってこれぐらい行ってほしい。
そもそも数年前の価値観ではあり得ないものをいつの間にか作り出してるファッション業界は捨てたもんじゃない。風紀が乱れたというより9・11以降顕著に言われる事だけど、本音を開き直る態度の横行って奴じゃないですかね。これ。そもそもファッショナブルだから性が乱れるのではなくて、性が乱れるからファッショナブルなのである、という解釈ですね。そうあるべきです。乱交、ドラッグ依存、トップレスはセレブの証。
DJ OZMAとかでもめるのとか話になんないよー。

最近で 2番目にヒットした洋服、ジルサンダー2007/8 春夏
妙に建築的好奇心をそそられる。非常にすきです。女の子もかわいい。
無いよりある方がなぜか軽く見えるんだけど、重ねて行くと非常に重く見えるんです。
建築の皮膜もこういう軽さ、重さの操作が欲しいです。





スーパーフラット
系は、やっぱ都市空間にあると、意外とぐっとくる。カイカイキキのホームページを見ててそう思いました。絵画作品が多いな、とも。平面的とアイコン化された漫画っぽい絵が普通に平面にあるから困惑させるんだと思うんだけど、NYの画壇に売れても、毎日東京でマンガ読んでる僕等にはわくわくさせる何かがなさすぎる。こっちの環境だと楽しくないどころか、いらっとする絵が多い。多分同様の感情で秋葉系に今まで相当ディスられたはず。ちなみに数年前、恵比寿のプラモ屋(Mr Craft)で売ってた3Dしずかちゃん(正式名称:ヴァイナルコレクティブドールズ ドラえもん しずか)はめちゃくちゃ萌えたなー。写真左のMrグラフィティーも好きです。秋葉も都市表層をリアルに美少女が浸食しだしてからが萌えますよね。
僕なりの結論:やっぱ、絵画の地平線で語ったから、だめだった(と、個人的にそう思ってるだけだけど・・・)んじゃないかなー。少なくてもこの2枚の写真的にはサイトスペシフィックな彫刻とか、私性とかそういう視点かなー。。



ryanmcginley
coo00l !!


& peace! ポップな微乳時代本格的始動!生きてると良い事もあるもんだ。
僕が大ファンであるアラーキーみたいに性衝動を感じるものも良いんだけど、それなりに見る方も気合い入れて構えなきゃんないから、ラリークラークの「ken park」 のラスト的なピースなこういう肉体も悪くない。エロくないけど、「生」を感じるという意味でのエロスは強い。

舞妓 KISS!
舞妓さんの首筋はエロスっていうよりキッスに似ている事に気付きました。


それにしても、私的な意見だけど、キッスのメイクは革命的である事は事実だけども、もっとごりごりした音楽だったらなーと。

Pierre Hardy – United Nude
はぁはぁ。 靴たまらん。 金持ちに成ったら履かないけど100個ぐらいコレクションするんだ。それで、片方ずつ壁に並べて、部屋を挟み込むんだ。 ヒールとか壁にさしちゃったりして。はぁはぁはぁ。ケツにさしちゃったりして。はぁhぁhぁh、。
ふ〜、よし、説明します。 ひゅー〜。
Pierre Hardy のコンセプトイメージはすげー面白い。答えを求めない態度。めちゃくちゃ空間的なイメージ。




対して、united nudeは記号の遊戯。意味は無いけどプロセスは明確。
記憶は美しさに通ずるという事? ひじょーにダイアグラム的。
これが、現代の建築的な発想です。






考えるには非常に良い題材。
発想が分かりにくい物と分かりやすいもの。
主流に成りえない消費されるアートとプロセスを明かして媚びるデザイン。
/どちらがよいですか/?

唇 - 再出発

もっぱらセクシーな唇に興味有り。舌がよこにペロッと出ると色気は上がるみたいですね。
ところで、このホームページは筆者の帰国に伴い、sexualなspamっぽいエントリーと敷居の高い美術、建築論が交差したブログを目指す事とします。

陽子 嫁 せくはら
もうブログをぐちゃぐちゃにしてみたいのでながれをかえてみます。
飲み屋で憤慨した荒木氏が「帰るぞ」の一言で店を出たことを回想して、亡くなった妻の陽子の本にこういう一節が有るらしい(mixiで拾ったので確かめてないです)。
『そんな時には、残った酒や料理を気にしたり店側との間に割って入って取り成したりせず「アイヨ」とさっと腰をあげるものなのだ。それが夫婦の「ツキアイ」という、大事なことである』
これはすごくよい。僕の今まで見てきた飲み屋の世界が教えてくれたのはまさにこれなのだ。これを男尊女卑と見る人は死んでいいかも。これはジェン ダーの差異の演劇的振る舞いのクイズのようなものである。男と女は同じ人間である以上に、性別が違うのである。性別が違う以上に、同じ人間であるという テーゼはもうどうしようもないぐらい問題性を孕んでいなすぎて語る意味はあまり無い。性差をいかに無くすかは、社会的不平等をいかに無くすかという問題に 主に収束して行く。それに対して、性差をいかに振る舞うかは、もっともっと複雑で、社会的、文化的、哲学的な問題、様々な問いを我々に投げかける。
今日ポルトガール達がパリに来たので、お酒を飲んでいたときセクハラの話になった。こういう事である。一元的なセクハラは、女子(たまにシャイ な男子を女子が)を辱めて男子の優位性を楽しむ行為である。しかし、より高次のセクハラという物が有る。性差を確認する、様式的な作法として行う種の物で ある。つまり、優位に立とうとする行為を女子が理解して、逆にそこを指摘する事で優位性を逆転させる、という事を期待して、自発的に自分を辱めようとする 行為である。つまりマゾヒスティックな行為である。これを2元的なセクハラといえるだろう。そうすると、さらに期待される高次のセクハラは、それをお互い が認識した上で確認しあう、つまり価値感の共有をはかる3次のセクハラである。これはもう既に厳密にはセクハラではない。優劣の無いフラットなコミュニ ケーションである。
例えば、
「今日何色のパンツ履いてるの?でへへ。」
「透け透けの水玉よ。あなたそういうのが好きなの?」
「うん。大好き!」
という感じ。これが僕の理想。(ほんと大した事じゃないな‥‥)お互い対等な演劇的振る舞いによって、ジェンダーの差異を表面化して、お互いに主体(人が自立した唯一の個体であるという意味付け)を与える行為。これを
「優しさ」と、名付けてみました。優しさがすきです。
話を戻すと、本当に陽子のこの言説は、僕の未来のお嫁さんがこうあったら良いなーという感じ。前述の理論を残すとこなく表象しております。これ自身が僕自身のしがない希望的観測であるが、最低条件にして唯一の条件と言い切ってしまいたくなる。

パンテオン

ブラジル人アーチスト Ernesto Netoが、パリのパンテオンで行った巨大インスタレーション
タイツ素材の膜に香辛料やビーズ状のスタイロを入れて作り出す、柔らかいフォルム。
この作品のメーキングビデオによると、この網目状の物体は擬人的なもので、身体のリズムを表現しています。紆余曲折な人生とフォルムがどうやら(サンバの)リズムでシンクロしていると、作者自身踊りながら話しているビデオでした。 ほんとにextreammm!な空間なんですけど、癒しなんです。それも非常に巧みなんです。
なんだかんだ、僕等の周りにある形って、凄く単純な構造が非常に複雑な形態を生んでいる事がやっぱり多いですね。
吊って引っ張って吊って 。たまに玉金みたいなのがあります。


エロス‥‥。
http://www.look-inc.jp/marcjacobs






















