さわらぎのいの「反アート入門」読了。ジャケットの西尾康之の即神仏かなりいいです。
かなり本にも触れられているのだが、日本で現代アートが全く普及しないで、ひたすら入門書が出版され続ける理由の一つに、現代アートが難しいというのがよく言われています。
しかし、現代アートは古典絵画や、印象派などの難しさに比べるとはるかに簡単だと僕は思ってます(本にも書いてあったきがする)。以下の文章はわかりやすい
p23
「ほんとうは印象派の絵などは、鑑賞がとてもむずかしいのです。でも、わかんなくたっていい。むしろ、わかんないほう がいい。だって、「アート」は高尚なのだ。高尚なものはわからないほどよい。なぜって、自分たちにわかる程度じゃ高尚でありっこない。」
現代アート以前の作品にはその作品単体に盛り込まれるコンテクストの多さ、難しさが高尚さと結び付けやすい。一方、表面的な現代アートの簡単さ(ピュアさ)は高尚なものではなく、芸術の言葉がもつイメージとは離れすぎている。逆に作品を成り立たせる現代アートの背景のコンテクストの難解さも純粋にハードルを上げているのでしょう。昔は作品の中に物語があったのに対して、今はいろんな作品を紡ぐことで理論なり物語が紡ぎだされているので、同じアートというくくりでも全く違うものですね。
また、日本人はアートがいまだにモノであるという考え方が強いです。この本のあとがきの言葉を使うならば「聖遺物(ご神体)」という言葉がかなり的を得ていると思いました。聖的な属性のものを求めているのではないでしょうか。古美術とか工芸が好きな人とかは特にそういう傾向があるでしょう。聖的なものとはエリアーデの定義だと、世界が創出するための道具であったり中心そのものであるので、なにやらわからなくて遠い場所とのつながりを感じる性質が求められます。なので(一見)単純明快な現代アートは聖的に見えない。現代アートそれ自体は背景のコンテクストによってその作品の存在価値を担保してもらっており唯一無二の存在では決してない(目の前にある作品の概念を全く違うアーティストが先に提示していたら、そのアーティストは全く認められないままであったかもしれない。)。美術館で音声ガイドを聞くときも、なんだかモノの説明というより出来事のように説明する。「モノ」より「コト」性が強く感じてしまう。おそらく、西洋諸国(古臭い響きだが)より、遙かに聖なるモノ性アート(あくまでアートの枠組みで。純粋に仏具とかいってるわけではない。)に関しては興味が高い(阿修羅展とかのこみ様からも・・・)。それが、悲しいかな今の現状を作ってるんですね。偏見だけど、ハンチングかぶってるデザイン好きのお兄さんとか、知的な感じしないもん。
あと、以上のことに関係するんだと思うんだけど、よく作品の説明で「あなたの感じるままに評価してください」というのがあるけど、あれも国民的にかなりダメなんだと思う。わからないものを孤独に対峙することに非常に不安を覚える人が多い人種なんだと思います。みな均等に貧しかった島国なんで。
防備録
(マイケルフリードのミニマリズム批判とは)p65ミニマリズムは、一つの大きな過ちをおかした。彼らは作品はそれが作られる素材や形式に忠実でなければならないというモダニズムの考えに馬鹿正直なほど忠実すぎた。その結果、作品からイメージや物語のたぐいは一掃されたけれども、その代り、作品は単なる箱や棒のような物的対象にまで還元された。
けれども、モダニズムに作品にとって重要なのは、絵画や彫刻というジャンルについての感覚を研ぎ澄ますことにある。彼らは、そういた最低限のジャンルについての規律すら溶解させてしまった。その結果なにがおこったか。結局、作品は見るに値する内容を失い、見るべきものを失った鑑賞者は、なすすべもなく作品の周りをグルグルと回るしかない。~これは、美術というより演劇の醸し出す事態に近い。これに対して、見るという経験は、いかなる時間的経過や身体も必要とせず、瞬時にして成立するものだ。~そのような明白な無時間的体験でなければならない。
p71こうして「郊外」は「領域的」であるよりすっと「境界的」であることがわかってきた。
