
最近やっと空間というもの自体に興味が持て始めたが、そこで、我々が何もない場所と思っている場所、つまり空間には空気という物質があるという事に気がついた。
当たり前のことなのに、気が付くまでに建築を勉強してきてずいぶん経ってしまった。
何にもない場所を感じて「空間」とよんでいたこの感覚は、今では空気なるものに満たされている非常に密な場所と感じ替える事も出来よう。
これは一般の人にとっては単なる感覚の変化ともいえるが、建築家にとってはずいぶん重要なことだ。特にフォルマリストにとって極意とも言えるものではないだろうか。矛盾をもった言葉として「空間」を捉えると、「空間」は一般的な存在としての言葉を離れ、観念となる。「これは良い空間だ」とか言う前に、「空間って何だ」という疑問が湧いてくる。そんな感覚になってきた。だから自然な流れで、「空間って何だ?」を想起させてくれるような空間に興味が傾いてきたわけです。
空気の充足と物の欠落を同時にかんじるには、常識的に後者のイメージはあるとして、前者の空気の充足を感じるための形のイメージがなくてはいけないんだとおもう。フォルマリスト(形式じゃなくて形態主義)の成功者はおそらく空気の充足を感じさせる入れ物のイメージの構築に成功した人たちで、裏返すとフォルムに興味がない建築家っていうのは空間は物の欠落つまりヴォイドだと短絡的に考えているのかも?
ミースのバルセロナパビリオンの白ガラスと大理石に囲まれた光り輝く光箱、パビリオンのあらゆる反射光によって光そのものが光を享受している空間について鈴木了二はそれを受動性をもった様態である闇として次のように述べている。
「暗さの揮発した蜃気楼のような闇、
水のぬかれたプールの空洞のような闇、
照明弾によってすべてをさらけ出された逃げ場のない夜のような闇」
すごい表現です。ミース・ファンデルローエの戦場という本で田中純はこのような矛盾した両義性にパビリオンの本質を見ようとするんだけど、ここで言いたいことも割とそういうこと?




