2009年4月のアーカイブ

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倫理について 住まうこと

In 1 on 4月 8, 2009 : chiguhagu

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建築というのは機能があって初めて成り立つ。機能を満たす事が前提となってクライアントはお金を払う。機能に関わることはダイレクトに倫理に関わってくる。これは社会の一般認識であろう。

また、建築家は社会に対する倫理として地域または都市、文化について倫理観を持とうとする。このような事を考える建築家はより高度な建築術を用いることで機能の倫理と調停を交わす。

これらは時に衝突する。

そのことについてワイアードで以前掲載された「トロッコ問題」のパラドクスを紹介する。

「5人が線路上で動けない状態にあり、そこにトロッコが向かっていると想像してほしい。あなたはポイントを切り替えてトロッコを側線に引き込み、その5人の命を救う、という方法を選択できる。ただしその場合は、切り替えた側線上で1人がトロッコにひかれてしまう。

多くの人は遺憾ながらもこの選択肢をとるだろう。死ぬのは5人より1人の方がましだと考えて。

しかし、状況を少し変化させてみよう。あなたは橋の上で見知らぬ人の横に立ち、トロッコが5人の方に向かっていくのを見ている。トロッコを止める方法は、隣の見知らぬ人を橋の上から線路へ突き落とし、トロッコの進路を阻むことしかない。

この選択肢を示されると大抵の人はこれを拒否する、とBanaji氏は述べた。

興味深いことに、この問題の登場人物をチンパンジーに置き換えた場合、人間は躊躇なくチンパンジーを線路に投げ落とす選択をするという。

「自分たちとは異なる要素があると、人間は功利主義[善悪は社会全体の効用によって決定されるという立場。最大多数の最大幸福が目標になる]になる。しかし、自分たち自身のためには、カント主義的な原則に従うのだ」とBanaji氏は述べた。

[カントの義務論は、 功利主義と根本的に異なるとされる。つまり、最大多数の最大幸福による止むを得ない犠牲(他の義務を切捨てた事等)自体は善とされない。また、善悪判断に 関して、功利主義は目的や結果を評価するのに対し、義務論は意志や動機を評価する。義務論では、どんな場合でも無条件で、「行為の目的」や結果を考慮せず 道徳規則に従うという形になる。」

これに従うなら、建築家のクライアントに対する倫理感はどちらかというとカント主義的で、社会に対する倫理感は功利主義的なものだと考えられる。これらは根本的に別物で、同一平面上で語れないところがあるということだ。それを今まで散々どちらを取るべきか語ってきた節があるわけである。

功利主義と違って根拠なき道徳規範をカント主義が前提とするのは建築においても同じで、ここでは機能を満たすことが疑われない道徳規範である。建築は功利主義よりもカント主義がつよい。機能を満たすことは都市や地域を良くすることより前提というか原則というか(こういうの近代的だな)。これは先のトロッコ問題でも同様である。しかしここは建築がつまらないと思ってしまうポイントでもあるように思える。

ときにアートはカント主義的な倫理感が無いことをやったりする。おぞましい不快な映像を見せたり、物を破壊したり、それを喚起したり。これはほとんどが皮肉としてのメッセージとして成立している。これはものすごい面白い現象で60年代後期から70年代初頭のコンセプチャルアートが作り上げた社会とのコミュニケーションなんだと思う。

ゴードン・マッター・クラークは家に移りゆく光(という概念、時間の概念でもよい)を入れるためにチェーンソウとかで家を真っ二つに切ってしまうアーティストであるが、これは一方で建築の機能を成立させなくしてしまう。このような物はアートということで称賛されるのだが、こういう建築だと思うと徹底的に忌み嫌われる好例だと思う。

ここで僕が思うのは、ある意味「良い」家になったとするならマッタークラークは住むべきだったんじゃないかと。そうすれば彼は建築家でもありえたんだと思う。

そう、すめばよいのだ。コンセプチャル・アーキテクチャというのが仮にあって、機能をみたすというカント主義的義務をはたさなかったとしても、住むことで乗り越えることができる。住むこととはそういう効用があるのだ。森山邸は倫理的な議論を巻き起こしたが、住むことで、施主が満足することで、倫理的にOKとなったのではないか。住吉の長屋にしても、ホワイトUにしても施主が建築を建築たらしめていると言えなくはないか。

機能主義が倫理観の頂点にあるような建築倫理においても住まう主体があることはそれを乗り越えるより強い原理となりうる。もし住まうことを機能主義の(近代)建築倫理が否定したなら、あらゆる集落や歴史的建造物が否定されてしまう。住む(もしくは使用する)ことが建築においては非常に強い意味を持つからこそ機能を満たす倫理感が発達したのだが裏返せば住むことが上位なわけである。倫理感については延々と悩みがあったわけだがなんかそう気づいてすっとした。

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Edgard Varêse and Le Corbusier

In 1 on 4月 7, 2009 : chiguhagu

コルビジェのつくった動画発見しました。ubu web。 どうやらコルビジェが断ってクセナキスの建てたフィリップスのパビリオンのための映像みたいですね。そら豆みたいなのがぷよぷよ浮いてます。Varêseってのがエレクトロミュージックのすごい人。 映像は巨匠のお気に入りのモダンな画像コレクションといった感じ。最後は完全に自画自賛モードで自作の建築がつらつらと。あまり好きじゃない。音楽カッコイイ。

UBU WEBでお勧めはPAUL MACARTHY

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フォルマリスト

In 建築 on 4月 5, 2009 : chiguhagu

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最近やっと空間というもの自体に興味が持て始めたが、そこで、我々が何もない場所と思っている場所、つまり空間には空気という物質があるという事に気がついた。

当たり前のことなのに、気が付くまでに建築を勉強してきてずいぶん経ってしまった。
何にもない場所を感じて「空間」とよんでいたこの感覚は、今では空気なるものに満たされている非常に密な場所と感じ替える事も出来よう。

これは一般の人にとっては単なる感覚の変化ともいえるが、建築家にとってはずいぶん重要なことだ。特にフォルマリストにとって極意とも言えるものではないだろうか。矛盾をもった言葉として「空間」を捉えると、「空間」は一般的な存在としての言葉を離れ、観念となる。「これは良い空間だ」とか言う前に、「空間って何だ」という疑問が湧いてくる。そんな感覚になってきた。だから自然な流れで、「空間って何だ?」を想起させてくれるような空間に興味が傾いてきたわけです。

空気の充足と物の欠落を同時にかんじるには、常識的に後者のイメージはあるとして、前者の空気の充足を感じるための形のイメージがなくてはいけないんだとおもう。フォルマリスト(形式じゃなくて形態主義)の成功者はおそらく空気の充足を感じさせる入れ物のイメージの構築に成功した人たちで、裏返すとフォルムに興味がない建築家っていうのは空間は物の欠落つまりヴォイドだと短絡的に考えているのかも?

ミースのバルセロナパビリオンの白ガラスと大理石に囲まれた光り輝く光箱、パビリオンのあらゆる反射光によって光そのものが光を享受している空間について鈴木了二はそれを受動性をもった様態である闇として次のように述べている。

「暗さの揮発した蜃気楼のような闇、

水のぬかれたプールの空洞のような闇、

照明弾によってすべてをさらけ出された逃げ場のない夜のような闇」

すごい表現です。ミース・ファンデルローエの戦場という本で田中純はこのような矛盾した両義性にパビリオンの本質を見ようとするんだけど、ここで言いたいことも割とそういうこと?

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