岩波 世界の美術の「コンセプチャル・アート」を読みました。
とにかく、事例の数が膨大かつ一個一個の作品とコンセプチャル・アートの文脈の関係が複雑なため、全くもって消化不良。なので少しずつ復習(復讐)がてら思った事をブログにしようということです。
コンセプチャルアート成立の流れを個人的に解釈すると、コンセプチャルアートは運動名的にはダダ(デュシャン)→ネオダダ→ポップ→ミニマリスムという流れの先で生まれ、その中で政治性の有無、シリアスかユーモアか、物質的か脱物質的かなどで複雑に揺れながら、主として、アート作品の持つ審美性の層を徐々に剥いで行くことで、概念(コンセプト)化していき生まれていきます。
ポップアートまでは「アートって何?」や「これもアートなの?」という疑問を喚起させるもの、たとえば、デュシャンの「泉」みたいに「便器もアートだ」と言い、そこに元来アートが持っているとされる審美性つまり、美に関する思考を与えていきます。それがいったん終わるのがポップアート、特にウォーホルで、次のミニマリスムぐらいから「アートって何?ってどうやったら考えられるか。」「これもアート?と問う態度はなんなのか」といった一つ上位の発想、この本ではリフレクションと書いているけど、つまり批評性を外ではなくて内に、自己批評を起こすような作品に変わっていき、そこには審美性は必要でなくなっていき代わりに概念が現れてきます。
作者のトニー・ゴドフリーはコンセプチャルアートは「レディーメイド」「インターベンション」「ドキュメンテーション」「言葉」の4つの形態のどれかを取っていると言っています。しかし、多くの作品はこれですんなり分かれるというより、これを組み合わせて複雑に絡み合っているのが実情です。
これらの中心にある関心の一つとして脱物質化は重要です。これはコンセプチャルアートをすんなり理解するためには欠かせない考え方で、コンセプチャルアートの位置づけもはっきりします。
さっきあげたダダとかポップとかっていうのは、それを構成する物質や主題となっている物質の点で流れができているんじゃないかと思いました。ダダ以前はアカデミックな見地で美的なもの(新古典主義)、ただ美しいとされるようなもの(印象派とか)が主題となっていましたが、デュシャンの便器で突如、美しくないもの、特別でないもの、つまり日常品が主題として挙がってきます。これは審美性の枠組み自体を揺るがすアートという意味で、コンセプチャルアートに最も影響を与えた作品と言って良いと思います。その後、ポップアートでは商品が主題となり、ミニマリスムでは物質的にもまったく普通のものが主題になって、コンセプチャルアートでついに物質が主題から消滅するとようになります。これが乱暴な脱物質の流れで、以下の流れでコンセプチャルアートは物質を提示しない方向での提示の仕方が模索されます。
この脱物質的趣向を背景に、コンセプチャルアーティストが物質の代替として提示したのが、ゴドフリーがまとめた4つの類型、つまり言葉(概念や調査、提言)やドキュメンテーション(地図やノートなど記録、証拠となるもの)、制作者不在のレディーメイドです(インターベンションの位置づけはうまく理解してません)。この流れに伴って、制作者も創造主からただの平凡な人や知識人、共同制作者の一人といった地位になっていくし、鑑賞者も見る人から能動的に参加する人、理解しようと試みる人という位置づけに変わっていきます。ミニマリスムと同時代のアートであるフルクサスなどは、コンセプチャルアートの参加者主体の形式を先どったものでした。
このような能動的に参加するように仕向ける作品を、ロラン・バルトは「作家的」という言葉で説明したそうです。バルトは、我々は作家を読む(つまり、与えられる)のではなくて言語を読む(自分に与える)のであって、能動的に読まなくてはならないといった主張をしています。作家的作品とはこういうものを指します。これは、与えられているのに慣れている者にとって「苛立ちをおぼえるが、やがて活性化される」ものなのです。
この考え方はモダニズムからポストモダニズムへと時代認識が変わっていく際、大きな原動力になったものですが、それは納得できるものだと思います。お互いがコミュニケーションできるように共有言語を持とうとする形式化こそがモダニズムの根幹であったのに対し、作品が作家の手を離れて一人走りするものであるという真っ向から否定するような理論がここでは展開されているからです。
僕も、作品をある形式に当てはめすぎること(例えば東工大建築の構成論のような認識論に立ったあらゆるものの形式化)には否定的で、どんな意見でもいいけど豊かな批評を導けるものこそ素晴らしいという立場です。キュビズムの方がデ・ステイルより重要だと言い切る人がいるなら、大体がこの立場によるものではないでしょうか?
こういうとき、保守的な人がする拒絶反応は、バルトの言葉で言うと、「作家的」な作品が嫌いということになるでしょう。つまり苛々させるな、考えさせるなということです。この顕著な例が「せんとくん」です。これは僕の私的な理論なので、正しいとは限らないけど、まず、せんとくんを見た時、その形式がはっきりしていなかったことによるパターン認識ができなかった大衆は自分で対峙しなければならないという孤独感から、めっちゃくちゃ不安になったり苛立って反対運動とかして怒りました。しかし、不安な人たちが集まっているという共有意識や、メディア露出の繰り返しによる慣れとともにある形式が見えてくるようになって、親しみを覚えていきます。そして、今じゃ人気者です。これは北野武の映画に見られる「振り子理論」といっていて、悪い奴ほど良い奴になれるという理論に非常に似てますよね。このように、とっても良いものになれる(悪いものにもなる)可能性を持っていること、これこそが作家的な作品の良さなのです。
しかし、「作家的」作品の傾向が、現在のコンテンポラリーなアートにまで受け継がれているというのが「アートってのは難しくてとっつきにくくて嫌いっ」っていう大衆のアート離れの要因の一端となっているのも否めません。観客の能動的参加は消費社会に使った我々にはちょっとイライラする存在なのです。美術館の学芸員がしきりに、「わからなくていいんです、自分で思い通り感じてください」と作品に対して説明するのは、正しい言葉ではなく、正しい理解だけを必要に求めることで興味を持たれなくなることを警戒した折衷的な態度なのです。
まぁ、コンセプチャルアートは現代アートの生みの親的な存在で非常に興味深いものなので、この本読んで初めていろいろわかったけど、もうちょっと理論自体がメディア露出してもいいかもしれません。
ps
コンセプチャルアートの出現に関するまとめとして、ゴドフリーが言葉の出現の要因を6つにまとめていて、これが非常にコンセプチャル・アートのキャラクターをうまく説明しているのでザクッとあげとくと、
1.脱物質の代替 2.人との共有願望 3.人の頭に入ってみたい願望 4.すべての芸術作品は本質的に言語的だという主張をする人々が多かった 5.アートの意味の理論化 6.アート市場への嫌悪、商品としてのアートから脱するための言語
これらのうち、2,3は現代アートの基本的なスタンスに近いけど、1,4,5,6はそこまで率先してやられていなかったり、今では否定されているものなので、裏返せば特に、コンセプチャル・アートの精神とも言うべきものかもしれないです。特に、6のコマースぎらいは、のちにコンセプチャルアート自体が市場で高騰していく中で、自己矛盾を作り出していき、コンセプチャルアートの急激な衰退の要因となっていくのです。
続く?









