「自然」、もしくは「人工」と聞いて我々は何を想像するだろうか。これが最近、興味のあることです。
これについて、ヤフー知恵袋で面白い質問があって、「なぜ自然の対義語が人工なのですか?納得できません。人間も自然の一部だと思います。」というのがあって、これは非常にもっともな質問だと思ったのです。
その答えが4つあって、意味分かんないのが二つは無視して、なんとなく正しそうな
「人間の手が関わらないことがら=自然ですから、その対義語は人の手によるもの=人工です。」
「人間は自然に生まれますが、盆栽は絶対自然には生まれません。」
という、形成過程に差異を見出す意見があります。僕の場合は、自然の物は樹木とか花とか谷とかで、人工の物は都市とか機械とかロボットとか、っていうところから、なんとなく表層的な物質性で対立させている対義語のイメージを持っています。
しかし、自然の対義語は一般的に人工なのですが、人工の対義語は「天然」であることが示すように、自然と人工は厳密な二項対立でない言葉で、「自然」の方がより指し示すものが広く深みのある言葉で、それが故に正確に対立する言葉が無いので差し当たり「人工」を使っているんだと思います。
英語を調べてみると自然はnature , works of God , God’s worksという三つが出てきて、人工はartの一つだけ。英語のartの意味を考えると、明らかに英語では、「art」と対応するのは「nature」ではなくておそらく「works of God」、「God’s works」の方であって、どうやら人工の反対の意味として自然を使う時には、その制作者を問うている可能性が高そうです。
ここで議論したいのは正に、英語の意味での対立、art(works of man)/works of Godの「works」です。この二項対立の際の自然/人工の意味をこれらに絞るならば、「人間も含めて自然なんじゃないか」っていう議論の答えは、宗教観によって、自然、もしくはどちらでもないとなるわけです。
(ちなみに人工をartに含める言語は良いですね。この意味だと日本人の最も得意なartはロボットとか。俄然かっこいいっていうか・・・。works of Godはキモイけど。他になんかないのか、っていう。)
事の始まりはかなり個人的で身近なことですが、最近引っ越してそこの窓から、都庁と中央公園ががっつり見えるのですが、なんとなく、都庁の方が自然で中央公園が人工なものに見えたからです。この写真を見てもわからないと思いますが。一般的に緑は自然で超高層ビルは人工だとされるのに、その関係が簡単に逆転されてしまうこの言葉のイメージって異常だな、と。
でも上のように辞書を引いていくうちに、この対比をした瞬間にひとまず自然とか人工という個々の言葉の意味を離れて、人為的に作られたかそれとも謎のパワーで作られたかが問題になるのだとわかってきたわけです。だから、僕は無意識的に、なんとも居心地の悪い中央公園は人工的なものに見えて、逆に丹下の都庁に人知を超えた崇高さみたいなものを感じたのだと。ちなみに補足:都庁は丹下健三の建築というキャラクターでもあるけどポストモダンの文脈で多く語られる建築でもあって、つまりゴシック教会のパロディーなんです。そういうのも加味されての記号のイメージが作る崇高さかもしれません。大体、崇高なものの麓って邪悪なものの巣窟だったりするんだよなー。お見事。
と、言いたいことはここからで、それが物を自然と人工で区別しようとする時、誰が作ったものというのが最大の分け目であるが、まず現前としてそれらが置かれる場所が地球という自然(works of God)に包まれており、物の構成要素も細かく見ていくと原子とかに行き着くわけだからあらゆるものは当然、自然なわけです。しかし、なにかの区分をする事を目的とした言葉のセットなわけだからもうちょっと有益な区分の仕方のポイントを考えた方がよさそうです。自然/人工とは実のところ、物のどの観点においてその制作者を問うかがもう一つの重要なポイントであるのです。
例えば、科学的観点にたてば、さっきの原子の話からあらゆるものは自然となり、物のイメージという観点でその創造者を問えばあらゆるものは人工なわけです。最後に加工した者を創造者として公園内のもので問えば、落ち葉や樹木は神が作った自然物であるが、ベンチや遊具は人が作った人工物と言えます。このように自然と人工という対比の中には揺れ動く詩性があり、この曖昧さが言葉を混乱させているとも言えるが、それがこの対比自体に深みを与えるわけでもあります。
例えば、お茶とかの「わびさび」の世界は其処らへんに落ちているものを拾ってそのままの形にブリコラージュした点で評価すべきは、僕的にはロハス的ほにゃららな話ではなくて、自然/人工の観点を増やしその価値観を豊かにした点にあるように思える。ここら辺の詩性は今、サナー石上建築に始まる結構ホットな建築家の話題でもある。しかし、大体の物足りないと僕が思う感じは、自然と人工という深い解釈が可能な領域にもかかわらず、自然は緑だと決めつけたうえで(もしくは人工は建築だ)、ここでは短絡的に「家」と「緑」の接近の仕方を問う点にあるんじゃないかと思います。(たしかに緑はマイナスイオンを出すんだけどさー。)
やはり、僕の好みは前述のように自然と人工は何処でその解釈を切るかってとこです。
そこで、僕は人間の身体のスケールという点で自然/人工を切ることを発明したんです。形もスケールの延長上に置きます。この提案によると、「人工」物とは、人間の身体のスケールや形が加味されているもののことで、逆に「自然」物とは、人間の身体のスケールとは全く関係なく、形や大きさが決まっているものである、となります。これは本質のようなものを問うのではなく、区分をする主体である人間に重きを置いた考え方です。
(これも当然人間の身体のスケールを加味するとは、どの点においてであるか問われるわけだが、こういうことを考えていて思うのは、魅力的な言葉なり定義は(例えば「自然」とか)ある程度、複雑で柔軟な物の方が我々にとって魅力であって(つまりより想像力を働かせられ介入の余地がある)、物を魅力的、かつ、きっかり区別するっていうことはあまりない。あることに対してより相性のいい方向に定義を絞る事が妥当ではないかと。)
この考えだと、星や海の他にも、大体の都市は自然です。超高層も自然です。なぜならその大きさは土地の経済効率でその高さが決まったり形が決定したりします。当然そうでないときもあるわけだけど。逆に植樹された樹木や四角い部屋は人工物です。パンテオンは微妙なとこだけど、ピラミッドは自然になります。車も道路の幅も人工だけど、道路全体の網は一般的に自然です。
ちょっと不思議なんだけど、こうして考えると人工物と自然は同じものに対してスケールの違いをもって入れ子状を絶えず繰り返すものなのだとおもうのです。まさにイームズの「パワーオブテン」の世界。原子と宇宙という自然に挟まれて同じものが何回か人工物に変わるような。つまり自然物と人工物は起源をともにしたもので、頭の中に存在する世界なわけ。
原子→鉄→ネジ→ネジ山→イス→ゴミの山の中のイス→地表→宇宙→銀河
もしくは四角い部屋という人工の集積である大きな都市。
つまり、人が加工する事をコントロールできるものは大抵人工物ですが、人が加工できないもののみならず、加工しているがコントロールできないものの多くも自然物にカテゴライズできる考え方なのです。これは言い換えるとデザイン(コントロールと同義)できないものを賞賛する立場の物の見方でもあるのです。
これは、学部の卒業設計で僕が取り上げた創発(イマージェンシー)の考え方に非常に近いです。創発というのは、ざっくり言うと小さな挙動が大きな全体を作り上げる蟻塚とかが持つボトムアップの創造的性質のことで、蟻自体は何だかわからない小さな意志と本能でせっせと家の建設に勤しむわけだけど、そこには実は大きな意思が隠されているというやつ。このような創発的性質で出来上がった人工物も自然であると言ってしまうのがこの観点です。(創発にしても計画されたものはその時点で100%の自然ではないんだけどね。その意味で建築家は自然を限りなく模したものは作れるが、自然を作ることは言葉の解釈上は不可能。
「純粋に日常的なものであっても建築家が目を向けたとたんに、それは誠実さを失ってしまう。あるいは、少なくとも即興性や純粋性は失ってしまう。-建築家である我々は徳と呪いの両方である何かに取りつかれているのだと思います。」 レム・コールハース『コールハースは語る』
逆にトップダウンなコルビジェ・モダニズム建築は徹底的に人工的だと言えます。おかげで建築家の作る建築は身体性が無いとだめだとか言ってるひともいますが、それは僕の言葉で言えば人工物万歳なわけで、そういう人が作る世界(コスモス)はあまり面白くない。結局、都市や建築の知覚はその内部もしくは境界においてなされるもので俯瞰的にするわけじゃないからそのものの性質の中に(今定義した意味での)自然と人工が入り乱れていた方がそれ自体の解釈に深みを与えてくれて、世界を(身体的にも)面白くするんじゃないかなーって思って。逆にアーティストっていうのは今や人工ではなくて自然を作り出す職業になっているところがありますね。僕が思うのは、大抵の人間の作るものは身体スケールが加味されるのだから、たまには身体性から離れたスケールのもの(自然)を作り、それと人工的環境の対応で心地の良いものを探っていけばいいのではないでしょうか。
ps
そもそも、この事を思いついたのは自分の部屋の壁を見ていて、のペっとした壁と窓のプロポーションについて考えていた時です。壁の縦横比の種類×四角い開口の開け方を考えると、人間のパターン認識の可能な範疇ならば、たいして種類はないな、と考えたのだけど、ふと、その前提になっているのは、空間と人を相対化しないことだと気がついたからです。身体という尺度とそれを持って知覚する脳みそさえいなければ、どんなに大きな壁でも小さな壁でもプロポーションが同じならば同じ窓のあいた壁と考える事が出来るんじゃないかと。これ、恐らくトポロジーから来た発想だと思われ。時間だって認識する者さえいなければ一秒と1兆年は同じことと考えてもいいんでは。つまり、時空間はぐにゃぐにゃで、意志のあるものによって認識される事によってパキっと固まるんではないかと。これってミロのビーナスは見られていなければただのキャンバスと絵の具であるっていう昔の美学的思想と同種の考え方だけど、空間について考えられたことはあまりないのかもしれません。それは僕らの空間がより身体に根ざして作られているからなのではー?意味不明なことかいてる?大丈夫かしら
あと、近いことを過去にも考えました。→http://chiguhagu.wordpress.com/2008/08/04/605/











この記事を読んでちょっと違う視点から自然について考えたのだけど、これはちぐさの言っていることと違う気もするし、それほど違わないような気もする。あまり咀嚼できてないです。
まず、人工/自然という区別そのものが人工的なものですよね。そうすると、この区別に基づいた自然って実は人工なんじゃないすかね。
じゃあ本当の自然とは何かというと、この区別以前のものだということになる。
さらに、「区別」がこっち側の「反省」によってなされるとするなら、一歩引いて反省する以前の「没入」そのものが自然だということになるんじゃないか。
蟻は自分が何をしているのかを反省せずに、何かもう完全に没入してしまっているわけで、その結果全体として自然が生成している。人間の場合も、何かの作業に没入しているときは自然の生成の一部になっていると言えるのではないか。我に返って反省的にとらえてしまうとそれはもう自然とは言えないのだけど。
ちなみに、自然/人工という区別は、古代ギリシアまでたどるとピュシス/ノモスという区別があって、ここでいうピュシスというのは、それ自体の原理(謎のパワー!)に従って生成してくるものそのもののことで、日本語の「自然」につきまとうイメージとは無縁のもので、上の話と結びつけるなら、あらゆる没入段階に適用できる抽象的な概念と言っていいと思います(この辺はよく調べず言ってるのであしからず)。
とりとめなくてすいませんけどおわり。
僕の言ってる事とあまり変わらないんじゃないか?
「反省」は何を持って反省とするか、
たとえば、DNAとかもある環境を経てそのリアクションとして進化していくという観点で見れば反省があるのでは。
きみじの言う通り、とにかく日本の「自然」という言葉と西洋の(もしくはここで議論している)「自然」は根本的に違っていて、そこが次のテーマかも。
よく日本の自然観を日本人は誇りにしているけど、疑ってるんだよね。事実、西洋の都市より都市の公園とかうまく心地の良いものが作れないじゃん。なんでみたいな。
盆栽箱庭的中国経由の人工的な緑は独自な文化として誇れるほど上手だけど、自然的スケール自体の捏造(文章の最後に書いた、敢えてヒューマンスケールをはずしてやるランスケ)は下手というか。壮大なもの(西洋美学でいう「美」の一形態ですね。)は無理なんだとおもう。もともと平地が少なくて貧しい国だし。
「反省」はイームズのあれみたく俯瞰的な視点に立つことかなー。そこのところで考えてるのは同じですな。「没入vs.反省」で「創発vs.計画 」みたいなのをイメージしてた。
でもそういうふうに創発的なものを自然とすると、そこには身体性にもろにフィットした人間版蟻塚みたいなものも含まれるでしょ。
そこから敢えてヒューマンスケールなものを外して、人間がコントロールできない創発的なものだけを自然としましょうということか。
どうなんだろう、西洋の自然概念にはやっぱりそういう含意があるのかな。また何か分かったりしたらコメントしに来ます。
ちょっと違う。
最近は「没入」で「計画」がいいとおもうんだよね。
正しい意味で創発はどう足掻いても計画し得ないので、いっそ計画的見地に立つべし、みたいな。
和な感じとかまったく興味無いから西洋の方が気になるよ。
西洋の自然観はたぶん探せばすぐ本とかあるんじゃない?
では