『美学への招待』よんで学んだ事を考察。ノリで書いてみたけど自分にとって結構重要な文章が書けた。
19世紀末から内容重視から形式重視、つまり、形式が内容に取り込まれて行く現象が生まれてくるらしい(例えば、マーレビッチ、マチス、ピカソ‥‥)。
ざっくり言うと、指し示す物の意味より形が重要もしくは、形あっての意味主義。
そこでちょっと形式について考えてみたが、
形式主義には2種類あるように思える。内容と形式を往復しながら形式を重視するタイプと、相対的に形式と形式を往復する事で形式を作ろうとするタイプ。
後者で重要な事は、ほとんどの者が、後者においても内容を捨てきる形式はあり得ないと考えている点であろう。形が指し示す意味がまったく無い形を人は許容できない。これは形に限らず、意味の空白(何も意味の無いもの)は人にとって恐怖なのである。相対化される形式も元を正せば内容があるという前提に基づくがゆえに、既に形式化された形式に対して、相対化を繰り返しながら形式化していけるわけだが、その反復作用によって前提である内容は擦り切れて極めて希薄になってしまう事が多くある事が予想される。何度もコピーを繰り返すとオリジナルがよくわかんなくなるように。その時、西欧をベースとした文明は歴史的に類を見ないほど意味が希薄な世界を目の当たりにする事となったのである。
例えば、都市空間。
中世の都市とかの装飾もそれなりに意味をなしていただろうし、広場の作られ方とか色々、まぁ内容がある訳だけど、中国の大量に建てられる高層ビル群は明らかに内容が希薄。キャドの性能や、CGの見栄えで決まる外観や、大量に量産される同等の質の空間を横断する体験。それらに差異を作るために頂部だけ歴史からサンプリングどかーんetc。
これは、きっと日本人とかそんなに抵抗無いけど、西欧人(のインテリとか)にとっては大変な衝撃なんだろうなーとおもいました。これをボードリヤールはいち早くきっと指摘してるのだろうけど(読んでないからわからない。)。頭で各々が構築する所謂「世界」が、「内容の世界」から「無内容の世界」へ。シュルレアリストが格闘した主体と客体の戦い(「シュルレアリスムは、主体と、われわれにとってはいわゆる現実が引き受けている形態である客体との戦いを抹消せんとする、徹底的な試みとして現れる。」by オクタビオ・パス)は、だいぶシュルレアリスト優位の展開になってきた訳です。これが、僕がシュルレアリスムに今注目する理由です。ちなみにこの戦いはロランバルトによって日本も引き合いに出されてます。
主題である建築の話をすると
建築には芸術としての側面とデザインの側面がある。アートにも両側面があるが(めっちゃださいアートはあまり成立しない現状がある。それは当然、アートは美学の範疇だから、美的でないという認識をされることは、作品の美学的内容に関わらず多くの誤解をよんでしまうきっかけになってしまうから。ちなみに、アートと藝術は違う概念だと思う。)しかし、技術的(職人的)側面が目立つ分、建築をデザイン分野として強く意識されるのが現状であろう。
では、そもそもデザインと芸術、両者は何が違うのであろうか?
『美学への招待』によると、芸術には内容があるが、デザインには内容がない(特筆すべき内容が無いという意味。)らしい。これは、芸術にはタイトルがあるが、デザインにはタイトルが無い事がこの状況を示している。タイトルとは、筆者が言うには「作品をしかじかのものとして見よ、という命令で、この知覚の命令は、作品が一つの精神的世界をもつことを前提とし、その世界についての解釈の方向づけ」であるという。これが無いということは、内容が無いと同義なのである。馬鹿でも見りゃ分かるだろってな具合に。
ここまでくれば、建築が形式主義と相性が良さそうだなーと予感が湧いてきましたか?
差異を作らなければいけないが、アートのように純粋な観念でなくても良い「建築」は、デザイン的側面を発揮する事によって、「ちょっと違うけど内容的には近似するコピーの量産」に対する要求を満たす事に秀でている。それが、現在の建築的状況といってよいほどである。だから、時代の美学としての形式主義自体に対しても百花繚乱な形式を持って、120%で建築は応える。このように、内容→形式の移行がアラブやBRICS(中国とか、分からんかったら調べて。)における急激なグローバル都市化の状況に伴い進んでいく事を背景に、建築の本質が重要な変質をしてきた気がします。後ろめたかった形式主義が前向きになってきた。
何がそうさせたのか?
責任もって、ここまで説明しとくと、形式主義の台頭はメディアと密接に関係があると思ってます。多分、一番の理由は絶対これ!「動物的」なメディア消費になってくれば当然、内容なんて追ってられない。メディアによって情報垂れ流し消費状態なので、とにかく形で違うもん見せろって感覚になってくるのは当然である。建築家における巨匠制からスター制への移行も、もろに、こういう背景があるであろう。学ぼうとする勤勉な態度と憧れ真似をする怠惰の態度はそのまま、メディアに対する我々の態度の変化の表れであると言えそうだ。需要者も供給者もこうなってくると、魂削って内容を切り詰めるアーティストも、職人技で頑張るマイスターもあまり報われない現状が待っている。特権的な立場でいられるのは、広告代理店とか、雑誌の編集者、内容を作って形式を量産させるよう多くの優秀な人材を集めたとこのボス、カイカイキキ(村上)/クマジム(隈)/OMA(レム)ってことになりますかね。
僕が危惧するのは(誰もが同様に思っていると願うわけだけど)、以上の状況(形式主義の超台頭)であろうとなんだろうと、建築は常に社会における公共性の重要な部分を担っている、という一言に尽きる。西欧における、建築や都市の「内容」はコモンセンスに関わる公共的なものであったはずだ。そのことを担う職能が建築家であるという認識が僕にはある。よって僕は形式を排除するタイプでは全然ないけど、完全に内容主義である。建築家という概念自体、本来、西欧的なものであるから至極当然の事に思うし。









