このキュウイ、同じ形してるんですよ。昨今、CGの技術が異常に上がって、すごいことになってる。なんていうか、フォームジーとかはイラレの3D化って感じだけど、今はフォトショを3Dにした感じだわ。あほみたいにレンダリングに時間がかかるけど。
そのまじあり得ないクオリティーを誇る某レンダラのマテリアルギャラリーを眺めながら思ったのだが、一般的な素材っていうのは、その素材が放つ審美的価値が経済的価値に非常に依存されているっていう当り前のことが気になった。
ふつうの人は、ダイヤモンドはガラスとは圧倒的に違うという風な感じで、とうぜん高価なものは美しく見える。
それがわからない人はもう二流だねっていう、かんじの価値観。物の素材←→経済的価値の反復運動はあらゆるものを見るときに我々が無意識的に通すフィルター。
しかし、3Dソフトでマテリアルをあてがう態度は全くそこらへんの価値基準が不安定になる。ダイアモンドでできた住宅を人類が初めて見たのはこの手のソフトだと思うんですが、そういうのも真に迫る画質でぱぱっとできてしまう世界なのです。要するに、リアルな世界にも認知限界があり、そこに画像が到達している状態、つまり見分けがつかないレベルにまでCG技術は達している。
ここで、物にアウラを求める人(いわゆる、もの派)を不安にさせるのだけど、ほんとに素材に対する審美眼がCGを作っていると変わるのだ。これがこの投稿のテーマ。
素材とは複製不可能な経済的価値の高いものであればあるほど、素晴らしく見えるというのは前述した通りであるが、CGを作る現場においては「交換」ではなくて「複製」が行われる。そのことは物に対して徹底的に審美眼が変われる契機を生み出す。この審美的世界は残念ながら見る人より作ってる人がもっとも体験できる世界なのだが、だとしても、今までこういうことはほとんど無かったように思える。
マテリアルのデータっていうのは当然、情報の階層があって、上に載せる画像であったり、効果であったり、色であったり、反射、透過の性質であったりを組み合わせて作っていく。非常に構造的で、結構だれでも理解できる世界。
そこでは例えば、クロムとニッケルとステンレスの差、ガラスとプラスチックとダイヤモンドの差は反射、透過といった光に対する性質の差にすぎない。そこに微細なテクスチャが上乗せされると見事にリアルな物質に見えてくる。裏返せば、現実に存在する物が、これらの数値性能のマトリクスのすべてを網羅しているのわけではないので、より、組み合わせの分だけ発見的に多様な物を表象していくことができる。
当然現実がどうか、とか関係ない世界なので、より感知者があるイメージに近い表象を目指すわけだから、そこには当然、いわゆる「素材の美学」のような「鉄」なら「鉄」なりの使い方があるとかそういう職人性はなくて、もっと現象学者のような視点が存在する、と思います(僕がそうだから)。
このような物の価値判断を、物とそれが生み出す現象に 忠実であるという観点から、より「物質的な」視点になったといってしまおう。バーチャル世界だからというのが、逆説的に働く。(邪険に取る人がいるかもしれない けど、むしろ、この逆説はポエティックな現象だと思う方が素直ちゃん。)
CGデザイナーっていう人たちは多分、この膨大なマトリクスの上でダンスをする人たちである。個人的には写真の発明と似てる気がする。あんま気付かなかったけど。
良いとか悪いとか言ってるんじゃないですよ。いろいろ違くて新しい。
このようなものを賛美する美学に対して補足的な文章として、たまたま昨日読んだものから、
「哲学者が詩人たち、ミロシュのような大詩人に、
世界をいかにして個性化するかという教えをもとめると、
哲学者はただちに、世界は名詞の秩序にもとづくものではなくて、
形容詞の秩序にもとづくことを確信するにいたる。」
『ガストン・バシュラール / 空間の詩学』
なんか大海原に投げ飛ばされるような文章だけど、以下のようにも言っていて、
「愛された曲線は巣の力をもつ。すなわちそれは所有せよとよびかける。」
物の審美性にはこういう本質的なものも存在すると、僕も考えていて、それと環境によって揺れ動く審美性はある程度の相関関係にもあるし、どちらも含めて、知覚する際に審美的に感じたものは優れていると思うわけだから、両者をぐちゃぐちゃに混ぜて「世界を個性化」するために、CGってのは非常に面白い「素材」なんだと思います。(ぐだぐだ‥‥‥)
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最後に今まで話してきた審美眼、経済的価値を除いて、「色・反射・透過・形」を重視する姿勢、ここに個人的には「記憶のイメージ」を付け加えたい。受け手の知覚はここから始まる気がするのです。












