2008年9月のアーカイブ

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形式主義と建築の蜜月

In 建築, 美術, 都市 on 9月 25, 2008 : chiguhagu

『美学への招待』よんで学んだ事を考察。ノリで書いてみたけど自分にとって結構重要な文章が書けた。

19世紀末から内容重視から形式重視、つまり、形式が内容に取り込まれて行く現象が生まれてくるらしい(例えば、マーレビッチ、マチス、ピカソ‥‥)。

ざっくり言うと、指し示す物の意味より形が重要もしくは、形あっての意味主義。

そこでちょっと形式について考えてみたが、

形式主義には2種類あるように思える。内容と形式を往復しながら形式を重視するタイプと、相対的に形式と形式を往復する事で形式を作ろうとするタイプ。

後者で重要な事は、ほとんどの者が、後者においても内容を捨てきる形式はあり得ないと考えている点であろう。形が指し示す意味がまったく無い形を人は許容できない。これは形に限らず、意味の空白(何も意味の無いもの)は人にとって恐怖なのである。相対化される形式も元を正せば内容があるという前提に基づくがゆえに、既に形式化された形式に対して、相対化を繰り返しながら形式化していけるわけだが、その反復作用によって前提である内容は擦り切れて極めて希薄になってしまう事が多くある事が予想される。何度もコピーを繰り返すとオリジナルがよくわかんなくなるように。その時、西欧をベースとした文明は歴史的に類を見ないほど意味が希薄な世界を目の当たりにする事となったのである。

例えば、都市空間。

中世の都市とかの装飾もそれなりに意味をなしていただろうし、広場の作られ方とか色々、まぁ内容がある訳だけど、中国の大量に建てられる高層ビル群は明らかに内容が希薄。キャドの性能や、CGの見栄えで決まる外観や、大量に量産される同等の質の空間を横断する体験。それらに差異を作るために頂部だけ歴史からサンプリングどかーんetc。

これは、きっと日本人とかそんなに抵抗無いけど、西欧人(のインテリとか)にとっては大変な衝撃なんだろうなーとおもいました。これをボードリヤールはいち早くきっと指摘してるのだろうけど(読んでないからわからない。)。頭で各々が構築する所謂「世界」が、「内容の世界」から「無内容の世界」へ。シュルレアリストが格闘した主体と客体の戦い(「シュルレアリスムは、主体と、われわれにとってはいわゆる現実が引き受けている形態である客体との戦いを抹消せんとする、徹底的な試みとして現れる。」by オクタビオ・パス)は、だいぶシュルレアリスト優位の展開になってきた訳です。これが、僕がシュルレアリスムに今注目する理由です。ちなみにこの戦いはロランバルトによって日本も引き合いに出されてます。

主題である建築の話をすると

建築には芸術としての側面とデザインの側面がある。アートにも両側面があるが(めっちゃださいアートはあまり成立しない現状がある。それは当然、アートは美学の範疇だから、美的でないという認識をされることは、作品の美学的内容に関わらず多くの誤解をよんでしまうきっかけになってしまうから。ちなみに、アートと藝術は違う概念だと思う。)しかし、技術的(職人的)側面が目立つ分、建築をデザイン分野として強く意識されるのが現状であろう。

では、そもそもデザインと芸術、両者は何が違うのであろうか?

『美学への招待』によると、芸術には内容があるが、デザインには内容がない(特筆すべき内容が無いという意味。)らしい。これは、芸術にはタイトルがあるが、デザインにはタイトルが無い事がこの状況を示している。タイトルとは、筆者が言うには「作品をしかじかのものとして見よ、という命令で、この知覚の命令は、作品が一つの精神的世界をもつことを前提とし、その世界についての解釈の方向づけ」であるという。これが無いということは、内容が無いと同義なのである。馬鹿でも見りゃ分かるだろってな具合に。

ここまでくれば、建築が形式主義と相性が良さそうだなーと予感が湧いてきましたか?

差異を作らなければいけないが、アートのように純粋な観念でなくても良い「建築」は、デザイン的側面を発揮する事によって、「ちょっと違うけど内容的には近似するコピーの量産」に対する要求を満たす事に秀でている。それが、現在の建築的状況といってよいほどである。だから、時代の美学としての形式主義自体に対しても百花繚乱な形式を持って、120%で建築は応える。このように、内容→形式の移行がアラブやBRICS(中国とか、分からんかったら調べて。)における急激なグローバル都市化の状況に伴い進んでいく事を背景に、建築の本質が重要な変質をしてきた気がします。後ろめたかった形式主義が前向きになってきた。

何がそうさせたのか?

責任もって、ここまで説明しとくと、形式主義の台頭はメディアと密接に関係があると思ってます。多分、一番の理由は絶対これ!「動物的」なメディア消費になってくれば当然、内容なんて追ってられない。メディアによって情報垂れ流し消費状態なので、とにかく形で違うもん見せろって感覚になってくるのは当然である。建築家における巨匠制からスター制への移行も、もろに、こういう背景があるであろう。学ぼうとする勤勉な態度と憧れ真似をする怠惰の態度はそのまま、メディアに対する我々の態度の変化の表れであると言えそうだ。需要者も供給者もこうなってくると、魂削って内容を切り詰めるアーティストも、職人技で頑張るマイスターもあまり報われない現状が待っている。特権的な立場でいられるのは、広告代理店とか、雑誌の編集者、内容を作って形式を量産させるよう多くの優秀な人材を集めたとこのボス、カイカイキキ(村上)/クマジム(隈)/OMA(レム)ってことになりますかね。

僕が危惧するのは(誰もが同様に思っていると願うわけだけど)、以上の状況(形式主義の超台頭)であろうとなんだろうと、建築は常に社会における公共性の重要な部分を担っている、という一言に尽きる。西欧における、建築や都市の「内容」はコモンセンスに関わる公共的なものであったはずだ。そのことを担う職能が建築家であるという認識が僕にはある。よって僕は形式を排除するタイプでは全然ないけど、完全に内容主義である。建築家という概念自体、本来、西欧的なものであるから至極当然の事に思うし。

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キッチュ 2題

In 建築, 美術 on 9月 18, 2008 : chiguhagu

dezainnetとかDEZEENとかでまとめて最近のデザイン/アートニュース見ましたが、非常に面白かったのがどっちもポップアートに近かったんで一緒にコメント。

1つめ 今年のベネチアビエンナーレで金獅子とった、グレッグリンのインスタレーション。毎回ベネチアの金獅子は個人的趣味とかなりリンクします。

大量生産の子供のおもちゃを溶かしてくっつけたもの。切断の切り口が完全にCG大好きな人のデザイン手法で、キッチュな素材を使うのもアメリカのポップアートの王道行ってる。この組み合わせは今まで見た事が無かったので死ぬほど新鮮。単純すぎるかもしれないけど、コンピューター・サイエンスとウォーホルの美学が合体したみたいな。

大人のおもちゃでやったらもっといけてる気がするんだけどなー。YOUTUBEも!!

2つ目 ジェフ・クーンズがフランスのベルサイユでエキシビジョン!

この人、完全に狙ってたはずです。古典とキッチュはめちゃくちゃ相性がいい事、そして、それらは詰まるところ同じだっていう事を。

これを機に日本人とかも早く気付いてくれたら良いのに。結果的にそういう物が公共性を浮き彫りにするのになー。

なんかキッチュはいつまでたっても認められませんなー。オタク・カルチャーがあるじゃないか、って言うけど、誰も言わないけど、やっぱりどっかでめちゃくちゃ嫌われて(差別されて)て、この国民性は根が深い。多分、過去に徹底的に貧しかった島国の歴史を持つ大衆上位型社会構造だから上部も下部も排除したいのか?

結果的に公共空間におけるキッチュ(原宿で踊ってた人とか、秋葉の歩行者天国)は陰謀だってぐらいキレイに無くなるし。あれは「通り魔」とか「沢本あすか」のせいだけじゃないと思う。

っていうのも、先日、国立新美術館に行ってみたら(高いんで展示は入らなかったけど)、めちゃくちゃ醜悪な雰囲気に包まれてたんだよー(文句)。

おばちゃんはがんがんぶつかってくるし、おっさんチョッキ着てつまんなそうにしてるし。マナーが悪いとか、ファッションが西欧的でないとかではなくて、おじちゃんおばちゃんの醜悪さ(と僕が感じたところ)は多分、無関心さだと思う。 そんな感じはそのままキッチュの概念に近いのにキッチュ嫌いって……。まぁ彼らは、それを楽しむ余裕を持とうっというメッセージを送ってるわけか。

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secret2

In 建築 on 9月 18, 2008 : chiguhagu

get chipped

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CGクリエーターの物質的審美眼

In その他, 建築, 美術 on 9月 9, 2008 : chiguhagu


このキュウイ、同じ形してるんですよ。昨今、CGの技術が異常に上がって、すごいことになってる。なんていうか、フォームジーとかはイラレの3D化って感じだけど、今はフォトショを3Dにした感じだわ。あほみたいにレンダリングに時間がかかるけど。

そのまじあり得ないクオリティーを誇る某レンダラのマテリアルギャラリーを眺めながら思ったのだが、一般的な素材っていうのは、その素材が放つ審美的価値が経済的価値に非常に依存されているっていう当り前のことが気になった。

ふつうの人は、ダイヤモンドはガラスとは圧倒的に違うという風な感じで、とうぜん高価なものは美しく見える。

それがわからない人はもう二流だねっていう、かんじの価値観。物の素材←→経済的価値の反復運動はあらゆるものを見るときに我々が無意識的に通すフィルター。

しかし、3Dソフトでマテリアルをあてがう態度は全くそこらへんの価値基準が不安定になる。ダイアモンドでできた住宅を人類が初めて見たのはこの手のソフトだと思うんですが、そういうのも真に迫る画質でぱぱっとできてしまう世界なのです。要するに、リアルな世界にも認知限界があり、そこに画像が到達している状態、つまり見分けがつかないレベルにまでCG技術は達している。

ここで、物にアウラを求める人(いわゆる、もの派)を不安にさせるのだけど、ほんとに素材に対する審美眼がCGを作っていると変わるのだ。これがこの投稿のテーマ。

素材とは複製不可能な経済的価値の高いものであればあるほど、素晴らしく見えるというのは前述した通りであるが、CGを作る現場においては「交換」ではなくて「複製」が行われる。そのことは物に対して徹底的に審美眼が変われる契機を生み出す。この審美的世界は残念ながら見る人より作ってる人がもっとも体験できる世界なのだが、だとしても、今までこういうことはほとんど無かったように思える。

マテリアルのデータっていうのは当然、情報の階層があって、上に載せる画像であったり、効果であったり、色であったり、反射、透過の性質であったりを組み合わせて作っていく。非常に構造的で、結構だれでも理解できる世界。

そこでは例えば、クロムとニッケルとステンレスの差、ガラスとプラスチックとダイヤモンドの差は反射、透過といった光に対する性質の差にすぎない。そこに微細なテクスチャが上乗せされると見事にリアルな物質に見えてくる。裏返せば、現実に存在する物が、これらの数値性能のマトリクスのすべてを網羅しているのわけではないので、より、組み合わせの分だけ発見的に多様な物を表象していくことができる。

当然現実がどうか、とか関係ない世界なので、より感知者があるイメージに近い表象を目指すわけだから、そこには当然、いわゆる「素材の美学」のような「鉄」なら「鉄」なりの使い方があるとかそういう職人性はなくて、もっと現象学者のような視点が存在する、と思います(僕がそうだから)。

このような物の価値判断を、物とそれが生み出す現象に 忠実であるという観点から、より「物質的な」視点になったといってしまおう。バーチャル世界だからというのが、逆説的に働く。(邪険に取る人がいるかもしれない けど、むしろ、この逆説はポエティックな現象だと思う方が素直ちゃん。)

CGデザイナーっていう人たちは多分、この膨大なマトリクスの上でダンスをする人たちである。個人的には写真の発明と似てる気がする。あんま気付かなかったけど。

良いとか悪いとか言ってるんじゃないですよ。いろいろ違くて新しい。

このようなものを賛美する美学に対して補足的な文章として、たまたま昨日読んだものから、

「哲学者が詩人たち、ミロシュのような大詩人に、

世界をいかにして個性化するかという教えをもとめると、

哲学者はただちに、世界は名詞の秩序にもとづくものではなくて、

形容詞の秩序にもとづくことを確信するにいたる。」

『ガストン・バシュラール / 空間の詩学』

なんか大海原に投げ飛ばされるような文章だけど、以下のようにも言っていて、

「愛された曲線は巣の力をもつ。すなわちそれは所有せよとよびかける。」

物の審美性にはこういう本質的なものも存在すると、僕も考えていて、それと環境によって揺れ動く審美性はある程度の相関関係にもあるし、どちらも含めて、知覚する際に審美的に感じたものは優れていると思うわけだから、両者をぐちゃぐちゃに混ぜて「世界を個性化」するために、CGってのは非常に面白い「素材」なんだと思います。(ぐだぐだ‥‥‥)

最後に今まで話してきた審美眼、経済的価値を除いて、「色・反射・透過・形」を重視する姿勢、ここに個人的には「記憶のイメージ」を付け加えたい。受け手の知覚はここから始まる気がするのです。

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肉形石

In 美術 on 9月 1, 2008 : chiguhagu

なんか、文章書いてたら、使わなくなっちゃったからupします。

この異形の石は台北の国立故宮博物院に収蔵されている「Meat-shaped stone(肉形石)」である。

我々はこれを目にしたとき、最終的には脳内では一つのものとして認識しなくてはならないのに、豚の角煮のイメージと石に関するイメージを一つの対象物に対して同時に持ってしまう。
この矛盾を和解させてくれるものは、やはりイメージの力以外あり得ないのではないか。結局のところ、イメージは二つのイメージの独自性を損なわないまま一つのイメージを作り上げることができる。

物の中には複数の対立的イメージを閉じ込める事によって物のイメージは魅力的になることは、この石が故宮博物院で最も人気の高い彫刻品の一つである事から容易に想像する事ができる。

そして、この矛盾するイメージ統合して魅力的なイメージに作り上げるのは、最終的には、制作者ではなく受け手の想像力にかかっている。

、ということです。

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マイブーム的モンスター

In その他, 美術 on 9月 1, 2008 : chiguhagu

最近、強面系モンスターが流行ってます。

真ん中の奴だけ名前が判明していてVAGINA BRAIN MONSTER
あとは南米のドメスティックな?な奴。

akuma,vagina,akumaの順番でrap形式で韻を踏んで並んでみました。