2008年8月のアーカイブ

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だめだ。

In その他, 建築, 美術 on 8月 22, 2008 : chiguhagu

くそな生活。

くだらない問題が山積み。

脳内はドロドロぐちゃぐちゃ。

楽しい事と言えば歩き煙草→ポイ捨て、と、妄想。

なんとなく、考え方(もしくは建築的アイデア)が日々進化してるような勝手な憶測のみによってぎりぎり生かされてるような実感を受ける事があるわ。(その自発的自己憶測こそが、生きるっていうこと? → だとするならば、充実した生活をしていれば、この声は聞こえてこなくなり、やがて想像力は退化する?)

まぁ、それはそれでおいといて、ところで、

日頃から、デザインってジャンルは基本的にすごい敬遠してるんですが、たまに飲み屋でお世話になってる有名なデザイナーの方の仕事になかなか感銘を受けた。web本というカテゴリーのインターフェース構築。当人の日記も異常に面白い。そこで登場するデザイナーたちを見ていて思ったが、彼らはなんて軽やかに生きれるんだろうか。そう見えるだけだろうか?なんかすごく嫉妬したので理由を考えてみた。http://bccks.jp/bcck/10736/1/A/

オクタビオ・パスの言ってた、人間の中の<孤独性(リアル内的世界)>と<他者性(外的世界の内的再構築)>の二項対立でいくと、詩や芸術は孤独性を刺激するのに対して、デザインは他者性を刺激する。自分の世界を他人に見せる仕事をしているアーティストは自分自身もどうしても孤独がつきまとうけど、デザインは連帯を本質的な使命としているからなんか楽しそうだ。でも、情報(主にデザインに関する記号)を共有する=情報の単純化をしなくてはいけないから、やれる範疇が異常に狭まる。おそるおそる言うとするなら、建築に対するインテリアのような職人的「巧(たくみ)」の世界のイメージ。色々勉強すると、原理がすごく分かってしまって刺激が少ない、もしくは消費してしまうのが簡単(分かったからといって自分ができるとは限らないけど)っていう理由で、個人的にはふだんは避けてます。

でも、今日思ったのは、そういう性質では無い故に芸術とか人生を疎かにしてしまう可能性が高いっすね。全力投球はどっちもするんだけど、アーティストは自分を球にして投げる!みたいな。まぁ、そういうの嫌いじゃないんですけどね。ちなみに、紹介した日記は自分を球にして投げてます。デザイナーだけどアーティスト。

今の自分がこいつだったら、20cmの鼻でジャンプしようとしても

斜め後方にバウンドする感じだ。

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ウェストコースト タフガイ的ラディカリズム

In 建築 on 8月 15, 2008 : chiguhagu

あっ、祝・エントリー100こ目。 ブログを書き始めて1年と10ヶ月たちました。 ルーティーンも溜まるといいことあるかしら? 今後ともよろしくお願い致します。 久しぶりにa+uを買った。455号西海岸のバーチャルアーキテクチャ特集。 やっぱり、確認できたけど、アメリカで一番ホットでクレージーでラディカルな建築家はHernan Diaz-Alonsoだ。まじ、やべー。顔見れば分かる!  http://www.xefirotarch.com/ 『De-tooling /Peter Zellner』のエッセイの中で引用されている、彼の宣言は非常に的確にバーチャル系建築の批評性の問題に切りこんでるので抜粋。(中田雅章訳)

「デザインは常に、形態とイメージの基盤との間の変換に関与している。『原典主義』あるいは『図像学』さえも超えて、形態そのものはそれがイメージとしていかに作用するかの二次的な機能なのである。ある人々はこれを、深さに対する表層性の勝利ととらえるかもしれないが、それはまた間違えなく、デザインの憶測的で創作的なロジック、そして社会的創造性を流動化させるその能力、そしてそれとともに一連の潜在的特性の強化でもある。我々はこれを、グローバルなネットワーク化された文化が建築の背景をつくりだそうとする者に科した、現実的で複雑な要求であると考えている。」

(「種文化。美の発展的変異。変異とホラー(そして時としてグロテスク)の探求をめぐるノート。」)

昨今の僕の興味の範疇_イメージ至上主義_に、これはぴたりとはまる文章。一見、フォルマリスト発言に聞こえるけど、フォルマリストでもロジカリストでもなくてイマジナリスト?フォルマリストは僕のイメージだと視覚優位な感じ。そうじゃなくて総合的な知覚優位(これの主体は人間でもあるが、社会の知覚でもある。)

どうやらコロンビアに端を発するバーチャル建築(バーチャル建築教育は90年代半ば、バーナード・チュミが学長の時代から始まったのだとこの雑誌に書いてある。ちなみにMITに行った知り合いによるとコンピューターで作る形態の研究自体はハーバードあたりでかなり前、おそらく60年代あたりから。)は、ゲーリーにおいて、複雑な形態をリアライズするための経済的・物理的障壁を乗り越えるためのツールとしてコンピューターの演算が導入され、グレッグ・リンでは建築形態自体の生成のツールとしてデジタルツールが導入された。

アロンソは、それらの間のような発想、つまり、ゲーリーが手でスケッチしたものをその後デジタル化するのに対して、CADでスケッチする。もしくはリンのように、作成したアルゴリズムによって生み出される無限の形態を頭でばちっと決めちゃう(多分‥‥‥。)。ゲーリのように形態が優位ではなく、かつ、リンほど手法は重要でない。単純な形態(Form)ではなく、もっと難解で包括的な世界 _ イメージに足を踏み入れている。

僕は彼が「イメージ知覚系建築家」(これを僕は『遅れてきた真・ポストモダン』と呼びたい。)の中でも青木淳のような「左脳派」とは違うと思っていて、精緻な数学によって生まれる「おぞましい」とか「恐ろしい」新しい形態を目指す、「右脳派」なんだと思う。記号やメタファーをかなり使ってない気がするけど、まぁ単なる印象です。いや、臓器は……使ってるな。メタファーで。でも予感。臓器は単なる記号にならない。脳みその写真みてみー。こわー。左脳止まってて右脳だけの力で認識しても、何か起こるよ。

まぁ、そういう作家性については筆が止まったのでさておき、結局、彼を非常に共感できるポイントは、上の抜粋した文章が示すように、グローバルな建築界において立場の非常に弱い(と思われる)バーチャルアーキテクチャの美学に立ち返り、デザインの政治学に批評的に切り込む態度があるところだ。 つまりラディカルだ。 建築におけるラディカリズムは体で感じるだけでは分からない(当然コンテンポラリーアートもそう。)。はっきり言って、認知限界を超えたところにある「何か(およそ、表現なるもの、もしくは、ただ存在する物、イメージ)」が現代的だし面白いと、僕は思います。

ps http://suckerpunchdaily.com/index.html ←あっち系の動向が概観できます。

「細胞、臓器、皮膚。語彙を増やさなければ語る事ができない。何も意味しない言葉、あるいは擬態すらしていない言葉。事、物、空間。アンドレ・ブロックの彫刻群は、何も表徴せず、ありのままでしかない。この彫刻に空間が押し込まれ(!)、ねじ込まれ、濾過される。」 (自作に対するアロンソの説明の一部)

※アンドレ・ブロックはアルジェリア→フランスの建築家→彫刻家 凄まじいです。すごい、あほ。  良い意味で。

後記 : 日本のアニメが萌えな記号によって構成されてるのに、一向にアメリカのアニメがタフガイで構成されてる、みたいな感じで、アメリカのタフガイなアニメの存在意義を理解できないと、こういうマッドなアメリカの建築には全く縁がないでしょう。こういう風に考えるとやっぱ日本は記号の王国だよなー。

西海岸はこういうカルチャーっていうイメージです。

おまけ http://jp.youtube.com/watch?v=UvTvaxVySlE  ナチュラル・ウェストコースト・スタイル

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nuke

In その他 on 8月 9, 2008 : chiguhagu

秘蔵画像コレクションシリーズ ー nuclear bomb

”Fire walk with me”な感じ!

で、下の奴は、核実験で記録された住宅が吹っ飛ぶ?というか粉砕する瞬間の写真。これ超面白い。小屋がまた、イコン性感じる形してるし。

「熱」→「風」→「なぞの力」ってかんじの流れな気がする。最後の一コマで激変する感じがすげーダークサイド。神の力を人間が手に入れてしまったんだね(悲)。

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イメージ → 自然

In その他, 建築, 美術 on 8月 4, 2008 : chiguhagu

人間中心主義の視線で見なければ、上の写真は高度200mから撮った人間の集合写真と同一の世界である。どのような写真の中にも、実は様々な世界が隠されているが、人はそれに気付かない。この場合気付くためには拡大が必要だ。

世界が200倍になったと考る事と、人が1/200になったと考える事に大した差はあるだろうか?

「空間とは人に属するものである」という左脳的機能ー経験作用さえなければ、問題なく、人は世界を無限に拡張する事が可能であった。世界が人を無限に収縮する事も同様に可能であった。世界は強いイメージを持つことができた。

つまり、原始的空間もしくはピュアな世界では、世界の大きさは伸縮性をもつ。裏返すと、スケールは人間中心的世界をぱきぱきに秩序立てるには欠かせない。

ぱきぱきとぐにょんぐにょん。

また、以下のようなアプローチも存在する。

シュルレアリスム作家、ルネ・ドーマルの「La Mont Analogue 類推の山」。この小説では人間中心的(ここでは「縮尺が合った」と表現される)山である、存在するかどうかも不明な世界最高峰の山(類推の山)を、実存する全ての山を極めてなお飽き足らぬ向上心をもった登場人物たちが目指す冒険小説である。この小説における山は、「縮尺が合って」はいるものの、「自然によってつくられたありのままの人間にとって、その峰は近づきがたく、だがその麓は近づきうるものでなければならない。それは唯一であり、地理学的に 実在しているはずだ。不可視のものの門は可視でなければならない。」

バベルの塔にみられるように、自己をより高みに達せようとする無限の衝動、則ち<高所衝動>が、冒険者たちを類推の山に目指させる。往々にしてそういう山は山頂(終わり)が存在してはいけない。こういう世界はうにょにょにょーんだ。

世界のモデルが「ぱきぱき(固定)」「ぐにょんぐにょん(不定形、超自由)」「うにょにょにょーん(一方発散)」とかいろいろありますよね。

コールハースの言うロボトミー化(建築の内外の不一致、乖離現象による建築形態の変形)もしくは、同じ形のグリッド基壇の上に自由な造形が展開されるような『囚われの球を持つ都市』は、あきらかに、「ぐにょんぐにょん」もしくは「うにょにょにょーん」の世界だ。それが実際に中国でリアライズされてきている。つまり世界は、「ぱきぱき」したものから、後者「ぐにょんぐにょん」「うにょにょにょーん」の世界に少しずつ変わりつつあるんではないでしょうか?

どうでもいいこと書いちゃったかも。

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物 = 現象 ー> イメージ

In その他, エロ, ダンス, 建築, 美術, 都市 on 8月 1, 2008 : chiguhagu

副題:二律背反するものの同一性が作る詩的イメージについて(怪‥‥。)

結構、本気で書きました。多分今までで二回目(一回目はジェフ・ウォール)。前回からの個人的最重要テーマ(多様性はどうまとまるか。反モダニズム。反言語説明主義。)に一貫性が作れて個人的には満足しながら文章書きました。

『弓と竪琴』オクタビオ・パス

この絵の詩的効力は後半に分かる

前回の投稿において、槇と丹下のメタボリズムにおけるモノ、コトの対立について書いた。確かにそこには対立があったという事は確かであるが、今回はもっと抽象度を高めた話。モノ=コト、言い換えればモノとしての紙と、コトとしての燃えている紙を和解させるもの、イメージについて。

オクタビオ・パスは最後期のシュルレアリストにしてメキシコのノーベル文学賞作家の詩人で、この本『弓と竪琴』は彼の代表的詩論。これは、あらゆる表現主義者のための聖書であり、西欧的合理主義もしくは近代主義(モダニズム)に対する究極のアンチテーゼ本である。個人的なところでいくと、デビットリンチの作品の時間概念(僕らを悩ます)空間概念は、この本を援用しているとしか思えない一致ぶり。リンチの作品評はいままでかなり読んできたけど、今んとこ、パスの思想を引き合いに出した批評は発見していない。っていうか、マジこの本は今まで読んだ本で五指に入る面白さでした。

パスは言う。

「孤独は人間の条件の根本である。人間は自分が一人ぽっちであることを感じつつ、他者を探し求める唯一の存在である。その本性は‥‥‥他者の中に自己を実現したいと希求するところにある。人間とはノスタルジーであり、連帯の探求である」(『孤独の迷宮』)

まず、訳者の牛島信明による「オクタビオ・パス論」によると、パスの最も重要な関心は、人間における「孤独」と<他者>との「連帯」あるいは「共生」である。一人の人間の中に、自己と他者が共存しているという「二重性」。この、パスの「他者性」という中心的課題は、メキシコ人のアイデンティティーの問題として有名なメキシコ論『孤独の迷宮』で展開されるが、本書でそれはシュルレアリスムの詩と共鳴する。

「シュルレアリスムは、主体と、われわれにとってはいわゆる現実が引き受けている形態である客体との戦いを抹消せんとする、徹底的な試みとして現れる。古代の人びとにとって世界は、意識と同じように充実したものとして存在しており、人間と世界の関係は明快で自然なものであった。われわれにとって世界 の存在は激しい議論の形態をとる ー 一方では、世界は消散して意識のイメージとなるが、また一方では、意識は世界の反映なのである。シュルレアリスムの 冒険は、主体と客体の葛藤を解消せんとするものであるが故に、近代世界に対する攻撃である。 <〜> 客体を溶解するのと同じ酸が、主体をも分解してしまう。自我も無いし、創造者もいない。あるのは一種の詩の力だけで、これが所かまわず駆け巡り、根拠の無い、そして説明し難いイメージを生み出してゆく。」

シュルレアリスムにとっても、パスにおける自己にとっても、古来より二律背反しているとされているもの、主体と客体、自己と他者が、溶け合ったあと残るもの、(非常に形容し難い)根源的な主体もしくは自己のようなものを表出させようとしている。

(この「背反する二重性の同一性→一元論」こそが非常に特徴的でおもしろいところで、仮説としてもともと持っていたので、この本との出会いに涙しました。)

そして、パスはこの人間の二重性、つまり本源的回帰を啓示するものとしての詩的イメージを提案する。

「詩人は事物に名を与える ー これは羽毛であり、あれは石である。

そして不意に断言する ー 石は羽毛であり、これはあれである。」

「石はざらざらして <〜> 羽毛は羽毛のままであり、軽い。そのイメージ(石は羽毛である)はおどろおどろしいものとなる。なぜなら矛盾律に挑みかかるからである ー 重いものは軽いものである。相反するものの同一性を言明することによって、それはわれわれの思考の基盤を侵犯する。従って、イメージの詩的現実は事実を望みえない。」

このような考えの前提として

「人が手を触れるものは何でも志向性を帯びることになる ー <・・・に向かって>行くのである。 人間の世界は意味の世界である。それは曖昧性、矛盾、狂気、あるいは混乱を耐えることはできるが意味の欠如を耐える事はできない。ほかならぬ沈黙にさえ記号が住み着いている。」(それは、近代の生んだ、悪名高き抽象概念、「空間」でさえ!!)

この考え方においては、矛盾した(と、われわれが考える)文章も例外なくそれ自体に意味をおびる。ここでいう「イメージ」とは、この文章にまさに起こりつつある意味の欠如、「沈黙」に対抗する必死の手段である。パスは、ポエジー(詩性の必要条件となるもの→詩的なもの、つまりポエジーを有するもの)によって生まれるイメージこそが芸術の本質的統一(音楽も絵画も詩も同様に芸術であると言えること)を成し遂げると考えているわけだが、その「イメージ」もまた、無意味と背中合わせであり、

イメージとは無意味であり、これはあれである

という、ややこっしい状態なわけである。つまり、無意味であるからこそイメージの必要性はつよくなるという意味で、早速、無意味は無意味でなくなったわけだ。つまりつまり無意味ってのは意味であり、イメージの無意味性はイメージそのものである。(ジョン・ケージの言うsilentという名の音の存在を想起せよ!)

パスの考えるポエジーの世界では、事実かどうかA→Bという順説より、逆説と沈黙こそが神である。

この「背反するものの同一性」について、パスはそれらの「動的かつ必然的共存」のみならず「究極的同一性」を見いだし、そこに西欧の合理的思想の限界を糾弾する。西欧人にとって、思考のコスモス(宇宙)すなわちカオス(混沌)からの世界の再創造は、存在と非存在の間に線を引くことである。火は水ではない。

そして、パスは、この非西欧的、非合理的な、背反するものの同一的な詩的イメージを人間の自己と他者の二重性を啓示するもの、根源回帰のきっかけになるものと考えるわけである。まぁ言ってみれば自己啓発。詩と魔術を非常に近いものと考える詩人オクタビオ・パスにとって自然なかんじ。

そして、西欧的な<これとあれ>ではなく、<これすなわちあれ>、つまりは背反するものの同一は東洋思想(仏教やヒンズー教、道教など)の根幹をなすとパスは考える。

荘子曰く、

「これにあらざるもの無し。あれにあらざるもの無し。これはあれとの関係において生きる。これとあれの相互依存の教えかくのごとし。生は死に対して生なり。この逆もまた真なり。肯定は否定に対して肯定なり。この逆もまた真なり。よって、もし人これに依らば、あれを否定するにいたるべし。しかれども、これ、己の肯定と否定を備え、かつ、己のこれとあれを生ず。よって真の賢人と言えるは、これとあれを退け、<道>につく。」

そしてパス続けて曰く(既に賢者!)

「これとあれ、石と羽毛が融合する時点がある。その瞬間はもろもろの時代の前にも後にもなく、またその始めにも終わりにもない(!)。 <〜> それは連続の王国 ー まさしく相対的対立の世界 ー に住んでいるのではなく、それぞれの瞬間の中にあるのである。」

‥‥‥泣けてきませんか?

「それは自らを生み出し、湧き出させている。そして絶えざる始めである終わりに向けて自らを開いている時間そのものである。噴出、泉。そこ、存在の ー あるいは、存在することの、と言った方が良いかもしれない ー 深奥では、石と羽毛、軽いものと重いもの、生きることと死ぬこと、実在することが、ひとつにして同じものなのである。」

‥お経を模写する行為に入ってます。模写っぷりが心酔っぷりだと思ってください。

「人間と世界、意識と存在、存在と実存の究極的同一性は、人間の最も古い信念であり、科学と宗教、魔術と詩の根源である。われわれのあらゆる企ては、この二つの世界を結ぶ古き小道、忘れられた道を発見することに向けられる。われわれの探求は、対立するものの普遍的照応、その始原的同一性の反映を再発見せんとする、あるいは立証せんとする傾向を持つ。」

こういう背反するものの究極的に溶け合った状態、そして無に至る境地がおそらく悟りの境地であるだろうと、東洋の偉大な哲学者たちは考えたらしい。僕の予想だと(必然的に悟りは分かりえないし、言語化不能なことは目をつぶってトライアルとして言うと)、あらゆる物の関係に対して直線的な相対関係をつくり、溶かしていき(同一化)、最終的には空なり無みたいなものを中心として、放射状にあらゆるものが無限遠にのびていって球体を作るイメージが悟り。ここでいう球は、全体にして無。まぁ、とにかく悟りと言うのは基本的に伝承不可能なのが大原則であるが、その存在を知らすために逆説的に、詩的イメージが必要なのである。ここに、背反するものが弁証法を経て、言葉を超越した(言い表すことのできない)イメージに到達する詩的性質の崇高さがある。(この「崇高」な感じは僕らにとっては、原始的魔術のイメージから来てるきがする)。

トルコのイスラム教神秘主義メヴレヴィー教団のSema(セマー) 反時計回りにひたすら回転する旋回舞踏 右手は天、左手は地を向け、トランス状態→空の状態に入っていく。スカートの広がりは宇宙を表し、回り続ける事で神との同化(仏教でいう涅槃)を目指す。

ちなみに、悟入状態(さとっちゃった状態)における仏の微笑は、悟ったことの表象であると同時に、「その道の大家が何も見出しえなかったことも示しうる」とか。ロランバルトの『表徴の帝国』における表徴の<零度>/<裂け目>ってのは要するにこの理論の二番煎じ。日本人もこのような ー 虚空、すなわち、森羅万象の境地 ー を持っているとされる。日本人の言語をみても、西洋のように一つ一つ定義していって完結に意味の交換的に説明するのではなくて、「あれってやばいよね。」みたいに、代名詞を多用したり、何も言わなかったり(書かなかったり)して何かを伝えようとする。この態度は、<これすなわちあれ>。これは意味の交換の精度を捨てる代わりに、言葉の多様性、冗長性を捨てない態度だと思えば良いと思う。

くどいかも知れないけどまとめると、ここでいう悟りはすなわち、この意味の交換をゼロに限りなく近づけ、そのかわり、言葉の意味の広がりを無限に開く、すなわち、あらゆるものを包括する事。それは同時にあらゆるものを包括しつつ、それらに何の差異も見出さない、無なのである。ここにある衝突、もしくは緊張は、絶対的無限と相対的零度の対立とも読むことができる。そこに、人間性なるものを問うならば、意味の拡大は何者にも縛られない主体のマイ・コスモスの無限の広がりであり、同時に、交換の消滅は人間の本質的孤独、つまり関わり合いの零度を言い表していると読むことができる。

これは、僕の興味で言えば、「静止した状態の紙は燃えた状態の紙である」→「建築におけるモノはゲンショウである」。結局、建築は物であるか、現象であるか、もしくはどっちの視点で眺める方が良いか、っという前回の最後にちょろっと書いた議論は、実はあまり意味がなくて(すいません)、物と事の相克の果てにある、「建築」と我々が呼んではいるものの漠然とした「名称」が指し示す記号概念ではなく、建築的な詩的イメージ、全体性、緊張状態にある「物と事の複合体」にこそ、建築の詩性というものは強く宿ると考られる。

ただし、物と事という対立は存在である場合がほとんどであって、表現には向かないかもしれない。まぁ、詩性を体現する弁証状態は、物と事に限らず、「内ー外」だったり、「構造ー空間」だったり、「新ー旧」だったり色々あると思います。ただ「ものこと」が一番激しいと言っただけ。あ、そういえば絵画と建築の緊張状態を書いた「対立の家」とかいう恥ずかしい文章をm1の時、書いたかも。

結局、パスの言う「イメージ」とは、多様性を緊張的関係のまま、個々の要素を変質させないまま、統合することで全く新しい現実を作り出す契機となるものである。シュルレアリスム(ダダイズム?)の有名な、「こうもり傘とミシン台の出会い」の美学ってのは究極的にはこういうことなのであろう。

決定的に言語的意思決定と合理主義な価値観が横行する世の中だから(世の中自体を外から見ると、とってもシュルレアリスティックで面白いんだけど)、詩性を失った純粋工学の世界だからこそ、ここは皮肉ではなく能動的に、現実の多様性を再生、統合できる「ポエジー(!)」路線で行こうではないか、っていうのが僕の意見です。

〜〜小休止〜〜(サザンのジャケットより、「これが愛の原子爆弾だ!」)

ちなみに、文章読んでて、ふと、セックスが頭によぎりました。

「男は女で逆もまたしかり。私はあなたで逆もまたしかり。僕らは宇宙で逆もまたしかり。」と無根拠に走り書き。

なんだ。どうやら、しっかりあるみたいですね。タントラ教(インドにおける世界最古の信仰とされている)!この宗教の教義では、「肉体を宇宙の隠喩、あるいはイメージ」とすることで、性交を通して宇宙の真理を知るらしい。やっぱ東洋思想のほうがしっくりくるなー。

詩とポエジーについて補習 (写経をもうちょっとしたかっただけだけど。)

「ポエジーは認識、救済、力、放棄である。世界を変えうる作用としての詩的行為は、本質的に革命的なものであり、また、精神的運動なるがゆえに、内 的解放の一方法である。ポエジーはこの世界を啓示し、さらにもう一つの世界を創造する。選良のパンであり、同時に呪われた食物である。」

「ポエジーはあらゆる詩の総和から生まれるものではない。詩的創造は、それ自体が自己充足的な統一体である。」

「詩的創造に おいては、職人たちの虚しい美意識が求めるような素材や道具に対する勝利など存在せず、あるのは素材(詩でいうところの言葉)の解放である。ことば、音、 色、そしてその他の素材は、詩の領域に入るやいなや変質をこうむる。それらは意味や石の伝達手段である事をやめずに、<ほかのもの>になるのである。その 変質はー科学技術の場合とは異なってーその本然的な性質を放棄する事ではなく、それに戻ることである。」

「両面価値的存在である詩語は、十 全にその本来あるべきものーリズム、色、記号内容ーであると同時に、またそれ以外のものーイメージーでもある。ポエジーは、石、色、言葉、そして音をイ メージに変える。イメージであるというこの2番目の特徴、そして聞く人に、あるいは見る人にイメージの星座を喚起するこの奇妙な力は、あらゆる芸術作品を 詩に変える。<〜>詩は言語ー意味と意味の伝達ーであり続けながら、言語の彼方にある何かである。しかし、言語の彼方にある何かには、言語を介してしか到 達する事ができない。絵画は、それが絵画的言語を超えた何かであれば詩であろう。」(ここの絵画を建築に変える事はもちろんできる)

「詠嘆 の場合、ことばは虚空へ投げ出された叫びであって、対話者を必要としない。ことばが抽象的思考の道具である時は、意味がすべてをー聞き手と言語的快感をー 貪り食ってしまう。交換の手段となると、ことばは堕落する。<〜>これらに共通する不具状態の原因は、言語がわれわれの道具、手段、ものになるところにあ る。<〜>しかし詩人はことばを利用しない。詩人はその僕なのである。ことばに仕えることによって、彼はことばに本来の性質を戻し、その存在を回復させる のである。<〜>まず第一に、一般に思考によってさげすまれてきた、その柔軟な、音響的価値、第二に、情緒的価値、そして最後に、意味的価値である。」