柄谷の「隠喩としての建築」をかなり興味深く読みました。(俺、修論やれよ・・・。)
柄谷の、コールハースの建築の芸術性なるものに対するアイロニカルな態度(当時のアイゼンマンを筆頭としたデコン派やドゥルーズを引き合いに出したヴァーチャル建築家たちに対する)と、デュシャンの便器のアイロニーを同等に扱った下りが非常に面白い。
マルセル・デュシャンの 便器について
”その場合、「これは美術展におかれた作品だ」というシグナルが、そうした括弧入れをうながすのである。そのようにして見られた物は、すでに物ではなく、芸術作品の形式の素材である。デュシャンは芸術を芸術たらしめているのが、「これは芸術だ」というシグナルにしかないことを示したが、それは私の考えでは「括弧に入れよ」というシグナルなのである。デュシャンは、美術館や展覧会にあるだけが芸術ではなく、あらゆるものが芸術でありうることを示した。しかし、それが可能なのは、美術館や展覧会が「芸術」を保証するものだという通念があるかぎりにおいてである。”

そして コールハースに対して
”この建築=芸術の否定がそれなりの意味をもつのは、こうした建築家の会議においてのみである。別の観点から——しかも、最もありふれた観点——からすれば、コールハースのような建築家は、巨大な利益を求めて殺到する土建産業の一端にすぎない。誰もそれが芸術だと考えていない。コールハースのアイロニーは、建築を純粋に芸術として見ようとする限られた人々のあいだでのみ、有効である。デュシャンの展示した便器が衝撃的であるのが、美術の展覧会においてのみ、あるいは芸術家にとってのみであるように。というより、コールハースは、この芸術性の否定の身振りによって、建築をより芸術的たらしめようとしている。”

↑ドバイに普通のファサード(めちゃでかい)を置くとそれが一番目立つの図
これはうまい事90年代後期のコールハースを説明している。
当時、または、今でもコールハースに興味を持たない、現代建築における重要性を実感しない人というのは純粋に、柄谷のいう「建築を純粋に芸術として見ようと」しない人だと言える。
僕の経験則だと、物作りが好きな人は、コールハースのグローバル経済なる物を語り続ける作家の態度、物作り精神の無さに『嫌い』を見いだしているのが一番の理由だと思う。しかし、逆に『コールハース嫌い』に対する『嫌い』派閥も存在する。彼らの立場は、柄谷の言葉を借りれば「貨幣経済が貨幣の無視、あるいは他の者との関係の無視を可能にする。」という一般則を『コールハース嫌い』が軽視するから。
『コールハース嫌い嫌い』(ややこい!)は、その社会、経済などの複雑な状況を一手に担うのが建築のジャンルとしての固有性だと思うからこそ、そのような態度にでる。そして、それは、裏返してみれば、建築をより芸術たらしめたいという気持ちの表れなのだから、ここでの対立を極端にまとめると、物作り精神と芸術精神の対立である 。
あれっ、と思う状況だ。物作りって芸術ではないの?と。ここが、肝だと思う。この考えの違いが派閥(僕が勝手に設定した物ですけど、確実に存在するであろう)を作り上げていると言って過言ではない。
「物作りも芸術」という認識ってのは日本人は凄い好きだと思う。風土の問題かなーとか歴史の問題かなーとか思ってみたり、手先が器用だったとかそういう創作のエクスタシーの問題とか、。、大学に入るまでのメディアでは確実に物作りは芸術ですと教えている気がする。図工の成績は技術的な評価がほとんどであるだろうし。うーん
・・・・結果でないんで問題提議だけで、ここら辺で失礼します。


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