2007年12月のアーカイブ

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コールハースとデュシャン

In 建築, 美術 on 12月 27, 2007 : chiguhagu

柄谷の「隠喩としての建築」をかなり興味深く読みました。(俺、修論やれよ・・・。)

柄谷の、コールハースの建築の芸術性なるものに対するアイロニカルな態度(当時のアイゼンマンを筆頭としたデコン派やドゥルーズを引き合いに出したヴァーチャル建築家たちに対する)と、デュシャンの便器のアイロニーを同等に扱った下りが非常に面白い。

マルセル・デュシャンの 便器について

”その場合、「これは美術展におかれた作品だ」というシグナルが、そうした括弧入れをうながすのである。そのようにして見られた物は、すでに物ではなく、芸術作品の形式の素材である。デュシャンは芸術を芸術たらしめているのが、「これは芸術だ」というシグナルにしかないことを示したが、それは私の考えでは「括弧に入れよ」というシグナルなのである。デュシャンは、美術館や展覧会にあるだけが芸術ではなく、あらゆるものが芸術でありうることを示した。しかし、それが可能なのは、美術館や展覧会が「芸術」を保証するものだという通念があるかぎりにおいてである。”

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そして コールハースに対して

”この建築=芸術の否定がそれなりの意味をもつのは、こうした建築家の会議においてのみである。別の観点から——しかも、最もありふれた観点——からすれば、コールハースのような建築家は、巨大な利益を求めて殺到する土建産業の一端にすぎない。誰もそれが芸術だと考えていない。コールハースのアイロニーは、建築を純粋に芸術として見ようとする限られた人々のあいだでのみ、有効である。デュシャンの展示した便器が衝撃的であるのが、美術の展覧会においてのみ、あるいは芸術家にとってのみであるように。というより、コールハースは、この芸術性の否定の身振りによって、建築をより芸術的たらしめようとしている。”

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↑ドバイに普通のファサード(めちゃでかい)を置くとそれが一番目立つの図

これはうまい事90年代後期のコールハースを説明している。
当時、または、今でもコールハースに興味を持たない、現代建築における重要性を実感しない人というのは純粋に、柄谷のいう「建築を純粋に芸術として見ようと」しない人だと言える。

僕の経験則だと、物作りが好きな人は、コールハースのグローバル経済なる物を語り続ける作家の態度、物作り精神の無さに『嫌い』を見いだしているのが一番の理由だと思う。しかし、逆に『コールハース嫌い』に対する『嫌い』派閥も存在する。彼らの立場は、柄谷の言葉を借りれば「貨幣経済が貨幣の無視、あるいは他の者との関係の無視を可能にする。」という一般則を『コールハース嫌い』が軽視するから。

『コールハース嫌い嫌い』(ややこい!)は、その社会、経済などの複雑な状況を一手に担うのが建築のジャンルとしての固有性だと思うからこそ、そのような態度にでる。そして、それは、裏返してみれば、建築をより芸術たらしめたいという気持ちの表れなのだから、ここでの対立を極端にまとめると、物作り精神と芸術精神の対立である 。

あれっ、と思う状況だ。物作りって芸術ではないの?と。ここが、肝だと思う。この考えの違いが派閥(僕が勝手に設定した物ですけど、確実に存在するであろう)を作り上げていると言って過言ではない。

「物作りも芸術」という認識ってのは日本人は凄い好きだと思う。風土の問題かなーとか歴史の問題かなーとか思ってみたり、手先が器用だったとかそういう創作のエクスタシーの問題とか、。、大学に入るまでのメディアでは確実に物作りは芸術ですと教えている気がする。図工の成績は技術的な評価がほとんどであるだろうし。うーん

・・・・結果でないんで問題提議だけで、ここら辺で失礼します。

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ポスト・フォーマリストとしてのLacaton&Vassal

In 建築 on 12月 18, 2007 : chiguhagu

ポリティカル・コレクトネス(以下PC)、直訳すると政治的正当性。この言葉はモダニズム以後の表現史に大きく突き刺さっている。
「空間が良い」という言語が制作者から使用者の側の感覚に対する言葉に変化したように、新しい都市モデルを創造する態度から場所のコンテクストを読み込み表現する態度(つまり都市を引き継ぐ態度)に変化したように、PCは表現行為の根拠と制作者の態度の問題を越えて、表現の問題に介入した。それは、例えば、「芸術的な建築」や「建築のための建築」という表現を嫌った。特に建築家においては他の表現分野と異なり、職能が潜在的にPCを担わなければならないといった風潮が内外ともに強い。
しかし、「それが、強力に作用されすぎて、純粋な表現行為を蔑視するような風潮が生まれた。」「PCを唱いながら建前的に使われるケースがほとんどである。」以上の二点において、PCは制作者のモチベーションとして“あまりにも”強力であると筆者は感じた。そして、それらはグリーンバーグのモダニズム、すなわちフォーマリズムと大いに同調する、いわばモダニズムの本質的思想が反映していると思われる。フォーマリズムは形式性、ピュアさ、説明可能性が表現に落ちる事を良しとする性質を持つのである。故にポスト・モダン(モダンの次)なる状況における制作のモチベーションとしてのPCは、それを実践する段階において未だにモダンを脱しきれてない。多くの建築家は、自分の作品が本当に「政治的に正しい」のかすらわからないであろう。その後ろめたさから、PCは多くを語られてこなかったのではないか。

ここでそれらの問題を乗り越えるヒントを与えてくれる建築家としてラカトン&ヴァッサルを挙げよう。彼らの代表作であるパレ・ド.・トーキョーはコンペに勝った表現として大いに革命的である。そこでは、仕上げを取り去って仕上げる、という事が彼らにとって美的かつ施工費の大幅削減を可能にするという。モダニズムの物質に関する美学的観点において「退化」とされる行為が、建築的提案における「進化」と見なされた事が素晴らしい。ここにはPCを偽る態度は無く、PCの概念それ自体と対峙しようとすら見える。彼らは他にも学校のプロジェクトで予算内に通常の大きさの二倍の空間を有する学校を作ってみせた。では、半額で建物を建てないのか?という問題提議(※)も含めて、彼らのPCと美学に関わる挑発的なプロジェクトからしばらく目が離せない。

※これはドイツの批評家Andreas Rubyによるもの。

こんな感じの建築左翼ちっくな文章を最近某雑誌に書きました。ブログで書くとやはり大した文字数ではないなー。

実際に入校した物は文章がちょっとだけ変えられてます。

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