2007年11月のアーカイブ

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歌麿

In 美術 on 11月 22, 2007 : chiguhagu

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「シュルレアリスム」の読書感想文の感想文

In 建築 on 11月 6, 2007 : chiguhagu

http://d.hatena.ne.jp/masaaki_iwamoto/20071102/1194050394

もうくたくたです。上の文章よんでからこの文章読まないと多分意味プーです。もうちょっと色々考えて書こうと思ったけど、もうめんどくさいのでパブリッシュしてしまいます。(ほんと、乱暴なブログだわー。もう日記的要素の片鱗も残ってない。)

ベンヤミンは鑑賞者(体験者)の感受性が物に対して見いだす解釈それ自体が創造的で、シュールレアリストはそれが得意だと述べた。その特有な創造的分野は政治に適していたし、現代では空間にも対応可能だ。その解釈法を身体的解釈と名付けます。こういう感じで造語も含めて、歪めたかたちで、上のブログを解釈してみたんですが、違うかもしれません。しかし、自分で使っておきながら、そもそも解釈という言葉は僕はあまり好きではないです。多分、直前に使ったみたいな「言語的解釈」とこの文章全体で述べてられている「身体的解釈」が混同しがちだから。

身体的解釈は取り扱いが難しいですよね。マン・レイの写真やコクトーの文学がなんとなく難しいと感じるように。モダニズムは逆に物(や空間)を理解するのには簡単すぎるのかもしれない。修論関係で門内さんの記号論の論文をちょろっと呼んだんだけど、そこら辺にヒントがある気がしましたので紹介します。

記号現象について、「実体」と「存在」の間に3つの概念作用の段階があるって、C.S.パースって人がいってるらしく、うーん長くなるから超適当に。まず、人間はあらゆる事に対して記号的認識がなされてます。そんで、その3つの段階を「一次性」「二次性」「三次性」とよんでいます。予想だと、言語的解釈と、身体的解釈ってのはその分類によると二次性(関係、実在、事実、経験、努力、抵抗、闘争、衝突、矯正、力、野蛮な力、ショック、中断、二極性、現実性、作用と反作用、行動と知覚!?)と一次性(例えば、質、情態の質、可能性、質的可能性、新鮮さ、単なる現れ、現れの積極的可能性、自由、生命、始源性、独創性、現在の瞬間など)にあたると思います。記号的に。ちなみに三次性は表象、法則、一般性、連続性、媒介、中間性、取引、共感、理性、判断、精神性、習慣など。このフィルターを通って実体は存在として認識される。これら、三次性は二次性を含み、二次性は一次性を含みます。物は、本質のようなものと慣習のような物を通って表れに至ります。といった考えです。

例を挙げると、プロセスで建築を考えるというのは、建築という実体のプロセス(連続性)、つまり第3項の記号的現象を積極的に操作して存在に変えようという試み。基本的にアトリエ系建築デザイナーというのはこの第3項の記号的現象を積極的にいじって建築を作ろうとするひとたちです。===と、読み途中なのでこれ以上語れないのです。。。。おつかれさまでした。

それにしても、静止状態の弁証法は妙ですね。最高にかっこいいと思うので、このブログにも抜粋しておきます。

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シュルレアリスムの方法論は、パサージュ論の「静止状態の弁証法」へと深化したのだと思う。長いが、パサージュ論の核心部なので引用する。

形象(bilder)を現象学に おける「本質性」と区別する点は、形象がもっている歴史的な指標(index)である。…形象が歴史的な指標を帯びているということは、ただ単に形象 がある特定の時代に固有のものであるということのみならず、形象というものはなによりもある特定の時代においてはじめて解読可能なものとなることを意味し ている。…そのつどの現在は、その現在と同時的なさまざまな形象によって規定されている。そのつどの今(jetzt)は、ある特定の認識が可能となる ような今なのである。この今においてこそ、真理には爆発せんばかりに時間という爆薬が充填されている。過去がその光を現在に投射するのでも、また現在が過去にその光を投げかけるのでもない。そうではなく形象のなかでこそ、かつてあったもの(das gewesene)はこの今(das jetzt)と閃光のごとく一瞬に出会い、ひとつの状況(コンストラツィオーン)を作り上げるのである。言い替えれば、形象は静止状態の弁証法である。なぜならば。現在が過去に対してもつ関係は、純粋に時間的・連続的なものであるが、かつてあったもの(das gewesene)がこの今(das jetzt)に対して持つ関係は弁証法的だからである。それは時間的な性質のものではなく、形象的な性質のものである。

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モダニズム的「解釈」を持ってこの形象的な性質に抗しようとするならば、時間に耐えうるような、ねちっこい建築を目指す事になってしまいそうである。そもそも、モダニズム建築表現主義には受け入れられない性質のように思える。モダニズム建築と呼ばれる物ができて早100年経つのだから、そろそろそういうものではなくて、ある一瞬を凄まじい切れ味で切るような建築をめざしたいです。一般受けしないけど。とくにズントー・内藤派閥からは‥‥‥。