2007年10月のアーカイブ

JEFF WALL
解釈的批評批評。そもそもは、スーザン・ソンタグの『反解釈』を消化しようと思って文章を書きました。”長い文章”を”まぁまぁ長い”レベルに岩本がまとめてくれました。>http://d.hatena.ne.jp/masaaki_iwamoto/20071024
芸術や、建築なども含めて、物には内容と形式と思想がある、という批評的な分け方がある。(か、かた、かたち)だったり(order,form,shape)だったり。そこに見えるもの、感じると現れるというような内容と、その裏に隠された構造であり本性のようなもの、そして、それが生まれる背景。菊竹清訓はこれらのどれを取り扱うかがコンセプトには重要であるといったような事を先日東大1号館で行われた講演会で述べていた。
そのような考え方は、物がそのものとして生まれる動機に具体的に立ち返ってみると理解が得やすい。一般的にそのような見方から形式を捻出するわけだ。分析とか解釈と言うものはそうして生まれることが多い。
そのような立ち返りは、モダニティーの中でとことんレイプされるために生まれてきた。(近代的批評というのは男根的な風潮がある。)つまり、動機から紡ぎだされたコンセプトはつねにピュアな物を志向されるように仕分けされ、取捨されていく。大衆啓蒙の好みの厚かましさとともに、コンセプトによる形式の宣言が行われ続けた近代において、コンセプトとはまさに形式そのものであったのではないか。コンセプトは常に抽象化されたピュアな物が目指される。それは、より大きな物を包括してしまう物である方が好まれる。また、ピュアというのは対立しないと思われるコンセプトであっても同居するとピュア(処女)で無いとされる。近代というのはこのように芸術や建築など、物の制作に関する批評の場において処女食い趣味なわけである。そのような処女食い趣味はモダニズム(近代主義)、特にコルビジェによって作られたと思われる。これはしっかり『建築を目指して』において書いてある。
しかし、物が作られる動機に立ち返るという悪習から生まれる近代的なコンセプトには、対応できない形式がある。
思いつく事を2点挙げると、
(1) 抽出した、コンセプトの成立前提にある、対立してない、もしくは対立していても無視できるほど謙虚な態度を取っていると思われる要素は 容易に排除されるが、それは無視されているだけであって常にそこにあるという点。
(2) 不純な(または、ノン・コンセプチャルな)ものがあらゆる領域(今まで、コンセプト化しやすい箇所からそうでない箇所に及ぶまで)を覆い尽くしたときにこそ、批評の機能障害が起こるという点。実はそのような純粋さはいままであまり語られなかった。(本当に真っ白いとか、薄さが認知限界を超えて薄いとかそう言った物では無い。)我々は、無粋で無配慮な住宅になればなるほど批評出来ないではないか。そして、コンセプトだらけのプロジェクトにおいてもそれに全体性を与えようとするが故に批評の機能障害(インポテンツ!)を起こす。作品を分類しようと試みたり、象徴的なイコンとして取り扱おうとするときも切れ味は鈍る。結局批評に失敗するという事は、記述的思考の理解は出来ないという事だ。もともとハイアートの中で形成されたこの習慣は本当の「無垢」な物を扱えない。結果、おのずと鑑賞者の感性に非常に依る事になる。しかし、それで良い気がする。われわれは男根的な力強い批評に頼りすぎてきた。
(1)について例を挙げると、ミースのバルセロナ・パビリオンは非常に純度の高いコンセプチャルな建築とされてきた。言い方を変えると、バルセロナ・パビリオンは、均質空間という言葉でモデル化されえているとされてきた。 ディテールに至るまであらゆる箇所はコンセプトと結びつけて語られる。そこがレイプだ。しかし、行ってみると意外とつまんなかったりします。つまらない事が悪い事だ、と言ってるわけではないし、空間がリッチじゃないからダメだと言ってるわけでもない。つまり、行くとつまらないという批評も同時に、等価に展開しうるのだ。均質空間はエンターテーメント性に欠けるという訳だ。これは、単純にコンセプトの純粋さから生まれてくるつまらなさであるのである。
じゃあ楽しいというのがコンセプトに変わる新たな指標か?と、いいたくなる人もいるだろうが、そうでは無い。近代はそうした不満によって社会性とともに乗り越え得るのだと考えよう。現代的な建築批評はこの視点で前時代を超える事が可能だ。
「私の作品は、1960年代以降、シリアスなアート、批判的なアートには不可欠のとなっていた断片化や「縫合」を提示しないとか、観客への妨害が無いなどと言われて批判されてきました。あなたの言葉を借りるなら、ジャンプカットによって画面外を取り込んでもいなし、かっとつなぎを意識させないイリュージョニズムを解体してもいない。しかし、既に1970年代半ば頃には、私はその種のアートの「ゴダール的」な雰囲気そのものが、制度化され、型にはまり、もはや革命的ではなくなってしまったと感じていました。〜中略〜ここで名前を挙げた人たち(ジャン・ユスターシュ、ブニュエル、ロメール、パゾリーニ‥‥)は、そのラディカルな思考のエネルギーを、自分たちが携わるメディア自体に疑問を投げかける事に費やそうとしなかった。その代わり、そのメディアの本質とも言えるような、だいだいにおいて規範的な既存の諸形態に対してかける圧力や強度を高める方向に向かったのだと僕は考えています。〜中略〜技法、映画の一般的な構造、物語のコード、演技の問題系なども受け入れた。しかし、制作会社であるとか、ヨーロッパの場合は国の映画機関であるとか、そういった産業を支配する制度から独立しようとしたのです。そうした過程を通じて、彼らは新しい物語と、新しいキャラクター像を映画に持ち込んだ。」
これは、phaidonの「Jeff Wall」でのインタビューの作家本人の発言であるが、この文章の中で言われているポストゴダール的な作品に込める批評性の視点のずらし方は今まで語って来た内容のイメージに非常に近い。ここでずらして到達したものは今まで先人が語ってきた所謂新しい『形式』(例えば、ルイス・カーンの『form』)と言えるかどうかが非常に微妙な所ではないか。
つまり、いままでの「form」という言葉では同位相に見えるが明らかに違う位相に飛んだという現象についてjeff wallはここで語っているのではないか?ぱっとみ映画は変化を起こさないように見えるが、ポスト・ゴダール映画に関しては物語とキャラクターが変化した事になる。これはshapeの違いに見えるが、明らかにカーンの言うorder(菊竹の言うvisionでもいいけど)の変化にあたるであろう。
結局、建築家は形から考えだして形に帰ってくる形式主義の慣習が抜けない所がある。僕もそうなのであるが。しかし、だとしても最低、形が劇的な変化を起こさないとパラダイムシフトが起きた事にはならないという、考え方は捨てる事はできるであろう。 次の時代の変化は静かにそして劇的に起こると予想し得る。
では、そのずらしはJeff Wallの作品にどのように反映されているのであろうか?ちなみにjeff wallも20年前ぐらいに確立された作家なので、彼が現代的と言えるかは不明だが。
Jeff Wallについてはここで見れます。
;http://www.moma.org/exhibitions/2007/jeffwall/

基本的には大型写真 +ライトボックスでシネマトグラフィという構成的なシーンを作り出して写し出す(または、デジタルコラージュ)。
彼は自分の作品のシネマトグラフィ的性質について『シネマトグラフィやコンストラクティド・フォトは、それ自体完結している象徴的な小宇宙を私たちは抱いてしまう。そして、その全一化した世界はあたかもその外側が無いように見る者に感じさせる性質と、遠近法や矩形(それは主題ではなく画面に境界を作り出す)は常に対立関係にある。だが、その対立関係こそ、西洋絵画芸術の原動力になっている。』と言っている。JEFF WALLは、この対立のパワーの表現を扱う作家である、と言ってしまうと単純化し過ぎかもしれないが比較的分かりやすいとおもう。一般的には写真行為っていうのは切り取るという性質の強いトリミングを行ってきたわけだが、彼は多くの西洋絵画の画家(特に19世紀に画家たち)がやったように内側から外にうりゃって広げるような感じ。(一応それだけが基本テーマではない事をいっときます。)
つまり、写真は(動いている物でも、静止した物でも)一瞬を切り取るというイメージが非常に強く刷り込まれているので、普通の人はどういうシーンなのかというパターン認識から入っていく事になる。しかし、この写真が作者の意図であらゆる物が予定調和的に設定されている事を知ってから見ると、突然われわれの視線はこの写真に抽象的な構図を読み解こうというものに切り替わるであろう。これはつまり普段われわれが絵画を見る時に使う視点への切り替わりである。
パッと見、スナップショットのような写真であるが、アート作品として(ここが非常にいやらしいが‥‥しょうがない。)よく見ると非常に不安な感じにさせられる。僕は本当に細かい写真のディテールに作者の計算が巡らされている状態は「解像度が高い」状態と形容したい。解像度をあげてコンセプトをつつき続けるのである。
特にデジカメでかなりの枚数の写真を合成した写真はスナップ写真や、普通のファッションフォトとは大きな差異がある。被写体の存在のリアリティーや、行為、状態の意味性、自然現象との整合性などは正しくとも。きっとそれら一つずつが正しくとも、関係性のレベルでのもつれがあって、その違和感を構図が訴えるという事なんじゃないか、と思います。それはイメージとしては脱構築的がおこっているというよりは、ファインアート的な構築が行われているといえるわけです。
また、ウォールは実際、絵画(モネ、葛飾北斎なんかも)を現代的な写真に再構築する作品もよく知られた事なのでシュミレーショニズムの文脈で語られる事がある。しかし、そのような意味より、上述した、もつれの構成要素が確信犯的に行わされているシュミレーションについて語られるべきであろう。それは明らかにそれはパスティーシュやパロディーを越えている印象を受ける。クリエーションが行われていると。この言語的矛盾を解決しているのは いままで説明してきた「orderのずらし」に他ならない。彼が述べたユスターシュのゴダールの乗り越え方を思い出すと理解できるであろう。そこには退行的に見えて前進する機知が見え隠れする。
鑑賞者に「複雑な物を単純化せず複雑なまま扱う事が求められる」。現代はとにかく、この点に尽きると僕は思っている。この点で90年代のシュミュレーショニズムの文脈、少なくてもアイコン化サイン化よりは遥かに高度な”現代性”が立ち現れてくる。そして、それは、一見単純なものとして提出されるであろう。
もう一つ、ラストに分かりやすいであろう例として、 映画における暗示について。
例えば主人公が家に帰る途中に救急車がサイレンとともにもの凄い勢いで通り過ぎていくシーンは、すなわち自分の家にいる人になにか不幸が降り掛かった暗示であるように使われてきた。24(twnty-four)なんかはこの手法を乱舞させてめちゃくちゃにしていくと思うのだが(完全に脱構築の技法)、逆に消防車は暗示の記号としてしか見れなくなっている分、表現の幅は狭くなるだろう。街に消防車が走るのはさほど珍しい光景ではない。
















