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モダニズムの絵画 Clement Greenberg

8月 22, 2007に chiguhagu が 美術 カテゴリーへ投稿

グリーンバーグによる、”モダニズムの絵画”という論文は、モダニズム絵画を定義づけた代表的な論文で、門外漢の僕にも比較的分かりやすい文章で書かれていたので、精読してみました。

はっきりいって 、非常にためになりました。まじオススメします。どうやら、絵画の世界ではいかにこの論文の意味での”モダニズム”を乗り越えるか、というのが一つの究極の命題のようです。

最近読ませていただいた、知り合いの書いた美術の論文でも大きく取り上げて問題としておりました。

内容はまとめても良いけど僕なら下知識無しに読んでみたい論文なので、ここでは取り扱わないですが、感動した部分を抜粋します。個人的に何度も目を通して反芻したいのです。

「モダニズムの芸術が理論的な論証(デモンストレーション)を提起する物ではない事を、私は繰り返し述べたい。むしろあらゆる理論上の可能性を経験的な可能性に転換させ、そうする事で無意識のうちに,芸術についてのあらゆる理論を、芸術の現実的な実践と経験への妥当性に関して検証しているのだ、と言えるであろう。モダニズムはこの点においてのみ破壊的である。」

最初の一文だけで、我々のモダン以後の芸術を見る「目」に激しいドロップキックを飛された気分だ。そんなに攻撃的な文章ではないのだけど。我々は美術館に足を運ぶとき、「デモンストレーション」を見に行っているつもりであった気がしたから。特に社会を翻訳した芸術なる物ってありますよね。これはこの文とぶつかるんだけど。僕が思うに翻訳している主体は常に芸術ではなく文章ではないか?とおもうのです。言い換えるとメタレベルでの翻訳という括弧付きでしか存在しないのでは。これは全く悪い事ではないのだけど、この部分において、このような物は全般的に、グリーンバーグのモダニズム芸術もしくはモダニズムに「弁証法的な緊張 ※ 」を伴った芸術の括りには、入らないだろうし、それがポストモダン(モダン以後という意味のポストモダン、滑らかな繋がりをもったもの)である事にも直感的に疑問がある。まぁはっきり言ってそう何となく思っただけだけで全然ポイント外してるかもしれないけど。グリーンバーグのモダニズム絵画論は「絵画の中の何か」 ではなく、絵画自身に検証的な態度でフォーカスせよ、さすれば平面性に収束するであろうというものであるから(あ、結局まとめてしまった‥‥‥。)、(物に近いが、それだけでは十分ではない2次元性としての)絵画 – 論的な意味でのモダニズムと、それ以後の美術に断絶があるだけかもしれない。まぁ気にしないでください。

そう言う事を何となく書いたのは、直感的に、「理論的な論証(デモンストレーション)を提起する物ではない」事自体、ポストモダン以後も変わらない、、というより、ここは制作者にとって乗り越える所ではなく、むしろ乗っかって行く箇所であろうと思ったから。むしろ、理論的な論証を定義できるのは論理だけであり、いつまでたっても下には落ちないと心得るべきである、とな。これは態度の問題で、本質的な議論では決してないのだろうけど、本流だとも思うわけです。そこが一番多くの人が萌える何かがあると。

と、まぁそんな感じで  つづく

うそ。つづかないかも。自分ではもうグリーンバーグ的モダニズム以後の事とこのモダニズム論の関係性は分かりません。そこが気になるのに。ちなみにもうちょいモダニズムほるには、批評空間の「「モダニズムのハード・コア」」という絶版かつ伝説の特集を買わなければいけないらしい。13000円ぐらいします‥‥。なめんなよ!

※歴史を観察すれば、新しい思考はそれより前の思考を踏まえて立ち上がっている。新しい思考が立ち上が ると、かならずもうひとつの別の新しい思考の反論を受ける。2つの対立する思考が張り合う。この緊張は、2つの思考の良い所をとって第3の思考が出来上が る。ヘーゲルはこれを「弁証法」的発展と呼んだ。らしいです。

追記 : その後、色々グリーンバーグのモダニズムがいかに否定されたかについてよんだので、色々腑に落ちる所あったのだけど、所謂ポストモダンはこの厳格な定義によって生じてしまった閉塞感から、ポスト構造主義を背景に社会性、思考性、物質のメタフィジカルなものへ流れていくらしい。そこに断絶をやはり感じてしまいました。

建築において、モダンが終わっていないというのは一般認識でこそ無いけど、ほぼ・常識ぐらいなもんでして、アートにおけるポストモダン(それをネオモダンと呼んでも良いけど)ってのはこれからって感じで構えたいって事ですかね。

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