
In 建築, 美術 on 6月 28, 2007 : chiguhagu

DAVID LYNCHが現存する映画監督の中で最高の監督だ。インタビュー集の「lynch on lynch」も相当お勧めします。リンチは自分の映画の抽象的な部分の説明を全くしないので、多数の解読本が出版されてるけど、それは所詮、わかりにくい話の筋の解釈なので、総合メディアである映画的な理解には到達しにくい。逆にインタビュー集はさまざまなアイデアが列挙されていてまとまりがないが、非常に共感できる類の話が多い。一番面白いと思ったのはこの話で、
「僕は盛り土が好きなんだよ。〜 そこに丸い木のダイニングテーブルがあってね。誕生日に,ペギーは何らかの理由で外出していて、ジェニファーと僕はバケツで土を運び込み始めた。そして、ダイニングルームのテーブルの上に1メートル20センチぐらいの山を作ったんだ。テーブルをすっかり土で覆ってね。それから、山に小さなトンネルを掘り、トンネルの前に年度の小さな抽象彫刻を置いた。そして、うれしいことに、帰って来たペギーもそれを見て大喜びしてくれたんだ。だから、テーブルは何ヶ月もそのままにしておいた。そして、土はテーブルの木を浸食していった。有機的な変化が始まったんだ。だから、ついに土をどけたとき,ベニヤはかなり焼けていた。それがまたいい感じだった。」
リンチの映画には盛り土が多々登場するのだ。ブルーヴェルベットのオープニングでの蟻のクローズアップシーンも同じ感覚であろう。幸せな予感のする、良く手入れされたアメリカ独特の庭。意味ありげに甲殻系の虫の集団がカサカサ音を立てて群れをなしている。寄せて撮ると、引いて撮っていた時には気付きもしないおぞましい闇の部分が 潜んでいるのだ。写真は草むらに落ちていた耳に群がる蟻。
また、インタビューアーのクリス・ロドリーが素晴らしいリンチの映画の説明をしている。
「フロイトが”怖い物の領域”(the field of what is frighthening)と名付けた場所に置ける異様さの属性は実際の恐怖よりは漠然とした恐れ、出現より出没の気配だ。それは、’平凡’を’非凡’へと変身させ、明らかに身近なものの中に、心の中のよそよそしさを作り出す。フロイトの言葉でいえば『異様というのは内密にあまりになじみ深いものだからこそ異様なのであって、それによって抑圧されるのだ』」
これは、僕等にもはっきり実感のあることだ。カフカの要素であり、フランシスベーコンの要素でもある。闇に対してフェードインして行く事で、馴染み深い違和感へと導くのだ。僕等がよく軽率に使う「本質的なもの」っていうのはこういう事について言い表す言葉として使ってはいなかったか?絵画を見たときおばちゃんが「なんだか知らないけどすごいわねー。」とか言ってるあれは、意外と彼女の中の/あまりにもなじみ深いもの/がその絵画との共有を起こしているのではないか。


ところで、中野本町の家は最高だ。いったことがないけど、一番好きな建築だ。夫をなくした設計者の姉が子供2人とともに住む家として設計者と共同で作り上げた家で、回遊性のある間取り(- ∞ -)の真ん中に植栽を施されていない中庭が作られる。この中庭には後に、鳥がしたうんちの中の種から育った様々な雑草が生え茂り、ツタが建築に絡み付く。浸食だ。それは家族の変化していく様そのものであるように思う。結局、その庭にしか向ける事の出来ない視線と共に家族は閉所恐怖症に陥っゆき、散り散りに家をでてゆく。そして最後は壊されていく。設計者はこれをvirtual houseのコンペティションに出品している。浅田明は設計者がアクチャルに建てられ壊される家を、ヴァーチャル化し、亡霊化させようとしていると解説している。
「中野本町の家」という本も、建築の本の中で、最高に面白い。住んでいた母娘のインタビュー。この本に載っているのは、異様な家に関する記述だ。むしろあまり家という感覚を持てなかったという娘の話からすると「異様な家という空間」に関する記述と言った方がいいかも。家である事は社会的に間違えがない。僕はというと、この家の続編が気になるのだ。続編という言い方は変かもしれないけど、この家に投げかけられた(家が投げかけてしまった)テーマ には続きがあるであろうと思ったのです。それはリンチの土の感覚とも共通する日常と非日常のトーラス状のループ感覚・
中野本町の家はシュールリアリスティックな印象も受ける。設計者の姉である施主がすごく夢見心地な(そして絶望的な)姿勢で、設計される過程で大きく関与している。次女は負のイメージで作られた家のコンセプトに因る強さが、20年住んだ家というものを越えてしまっていると述べている。これは近現代建築家が求めた目標であり、目から鱗である。ほんと。時間と経験の良い関係こそ良いとする家観をずばっと切り捨てるもの。「長く住むと味がでる家が結局いいよね」といったやつ。それにしても、マスコミは血相変えてアスベストの家とか叩くけど、中野本町の家の攻撃性はそれを遥かに越えている。家で暴力!かっこいい!優しさ込みだしね。あれですよ。人間不振な人になっちゃった人がSMに嵌って癒されていくという僕の好きな。
で、結局、先ほど説明した、リンチの「盛り土」と中野本町の家の「中庭の黒い土」は僕の中で近代を越える確かな物として注目する次第です。まず、近代の「衛生」とか「健康」のイメージと真っ向からぶつかる物だから。そして、より緻密な現実へと誘うから。なんか説明がだらだらしてる割に本質的な事、書き足りないというか内容薄いのだけどとりあえずこの辺で。もうちょっとこのテーマは暖めよう。

In エロ, 建築, 美術 on 6月 19, 2007 : chiguhagu
はぁはぁ。 靴たまらん。 金持ちに成ったら履かないけど100個ぐらいコレクションするんだ。それで、片方ずつ壁に並べて、部屋を挟み込むんだ。 ヒールとか壁にさしちゃったりして。はぁはぁはぁ。ケツにさしちゃったりして。はぁhぁhぁh、。
ふ〜、よし、説明します。 ひゅー〜。
Pierre Hardy のコンセプトイメージはすげー面白い。答えを求めない態度。めちゃくちゃ空間的なイメージ。




対して、united nudeは記号の遊戯。意味は無いけどプロセスは明確。
記憶は美しさに通ずるという事? ひじょーにダイアグラム的。
これが、現代の建築的な発想です。






考えるには非常に良い題材。
発想が分かりにくい物と分かりやすいもの。
主流に成りえない消費されるアートとプロセスを明かして媚びるデザイン。
/どちらがよいですか/?

In 建築, 美術 on 6月 14, 2007 : chiguhagu

書いた文章をupします。(最近文章書くのが億劫・・・。)大した量の文章を書けないので、ぎゅうぎゅうした文章になってます。こうしてブログにのせてみると、いかに書いていた文章(1200字程)が少ないかが分かる。ちなみに、ちょっと後輩に文章、褒められて うれしかったです。
「個人の感覚」によって多様になるように作られる建築のプロジェクトをよく見かける。その際、多様になるようデザインされる部位を「環境」という言葉で説明される。例えば、突き出したボリュームの色や大きさが均一にならないように配慮されているMVRDVの老人のための集合住宅や、SANAAの様々な種類の木を庭園に配したプロジェクトなどは、「個人の感覚」によって「環境」を選択できるような印象を鑑賞者に与える。「個人の感覚」というのは「個人のモラル」が置き換わった言葉であると思われる。モラルではなくて感覚、非常に自由な響きのする言葉である。なぜ自由な響きがするのであろうか。
「モラル」はまさに近代的権力であった。それに対する「感覚」は権力に関してモラルの対極として映るからであろう。現代人は、感覚という言葉を奨励する価値観を非常に強くもっている。個人の感覚は選択可能性と関係を持つ。昔より各々は自由に発言をし、振る舞えているようになった、と、我々は思っている。しかし、現代において感覚は、実は管理される対象であり、それを管理するのが環境なのである。
いわゆる近代から、ポストモダンと呼ばれる建築様式の時代までは、主体と初めて位置づけられた我々が空間の名前とともにそれに即した良識ある振る舞い、イメージを求められており、我々はそれに応じていた。しかし、実はそれが管理の対象になっている事が明らかにされてからは、モラルはゆっくり個人の感覚という形に姿を変えていった。
そして、振る舞いをフィジカルに誘うような建築装置が要所に設置する美学まで誕生した。言い換えると環境管理装置のデザイナーが社会に要求されるというレベルに達した。その装置の表現はアフォーダンスなどという生易しい言葉ではなく、もはや直喩的な表現のレベルに近い。図面に家具が異常に緻密なスタディーを経て、多量に書き込まれたりするのはすなわち、このような管理された状況設定の需要に答えているのである。何故、その種の需要が生まれるのであろうか。それはそこに美学があるからである。
それは昔から我々の中に存在する性質による物であろう。先日、惜しくも亡くなられた篠原一男は、施主が彼の家に住みだした後も、その家の家具やその並び方を厳しく管理した。もっと遡れば、コルビジェのロンシャンの教会にインスピレーションを与えたと言われる、ル・トロネ修道院は、宗教上の規律的理由から管理的側面が要請されて逆説的に起ち現れた、純度の高い管理環境=「美しさ」を獲得しているのではないか。また、このような美学は衛生という言葉に形を変え19世紀の都市の近代化にも一役買った。このような美しさと管理の二面性が我々の周りを取り巻くという20世紀的なイメージは今も形を変え進行中である。
sanaa的な物をいかに批判するかは僕等の世代にこそ許される批評スタイルだと言う事を、当時考えていた。(飯島洋一ではなく‥‥。) かなり、さなー好きだけど‥‥‥。
それにしても、今日、松井みどりの「micropop 夏への扉」をよんで、日本の現代美術と建築はかつて無いほど、一挙一頭足である。このような同時代性なる物はいつの時代にもある物なのか、僕は若いので分からないが、現象としては納得できるが、気持ちが悪い。
それについては追々。

In エロ on 6月 3, 2007 : chiguhagu

もっぱらセクシーな唇に興味有り。舌がよこにペロッと出ると色気は上がるみたいですね。
ところで、このホームページは筆者の帰国に伴い、sexualなspamっぽいエントリーと敷居の高い美術、建築論が交差したブログを目指す事とします。

In その他, 建築 on 6月 1, 2007 : chiguhagu


アウシュビッツはよく工場に例えられる。死の工場と言う。他にも強制収容所とも言うし、絶滅収容所とも言う。これはある意味、今の空間文法のベースを築いてしまっている。空間がアクティビティーに照らし合わされ効率化される。
この地域には、初めに作られ、後の収容所のモデルとなったの第一収容所と、より殺戮を実践的に行った第二収容所ビルケナウ、それから、その周りに元囚人たちが働かされていた工場、鉄道線路が今も残されている。観光客が多いのは、第一の方だが、建築家としては圧倒的にビルケナウに興味を持つだろう。そこで提示されているのはまさに前述のようなモダニズムそのものなのだから。平行配置、大量生産、繰り返し、無装飾、効率化、視覚による管理空間、行為と空間の照らし合わせ。当時は病気や鼠が大量発生していたそうだが、天窓、医務室などに衛生に対する意匠も見れないわけではない。これは感動的でもある。この規模での平屋平行配置は他に例を見ない規模である。
必ずしも、繰り返される等間隔の配置計画の嫌さがアウシュビッツから来ているわけではないが、団地等で見られる嫌な感じと近い感覚をここでも感じる事が出来る。この嫌な感じについて、人間感覚の欠如、もしくはヒューマンスケールの欠如などという言葉を使うと思う。ここでは文字通り、人は人として扱われなかった。この歴史は人間性についての本質に示唆的だ。本当に悲しい歴史だと思う。
展示はあまりスペクタルにならないよう、そのまま保存されていると言った感じだ。よく残っている第一の収容所の建物内に、展示があり、ビルケナウは、戦後ssの残党による証拠隠滅の爆破が行われた事により、7割ほど失われた状態で、そのままある意味、展示されている。この背景には、今も根強く残る、ホロコースト(無差別大量殺戮?)は無かったという主張に対する証拠の提示としての意味合いが強い事を後で知った。この事に興味を持った。
例えば、ネオナチ一つとっても、彼らって結構いるんじゃないか?と思って不安になった。プラハからポーランドに向かう列車の中で、ハードロックバンドのベーシストをやってる兄ちゃんと旅行客のおばちゃん2人と同室で、煙草を吸いながらしゃべっていたのだが、ベーシストの彼は完全にアナーキストで、彼なんかは、その熱いアンチグローバリズムの話のしゃべり口から、未だにナチと戦っているというか、人種闘争の波の中で生きているというような実感を感じ取れた。彼は言っていた。「まだ、ナチは世界にいっぱいいるぞ!」
おう、おう。それは日本のぬるま湯でふやけてたオイラには、ドキッとさせられました。ユダヤのマークが首括られてるグラフィティーとかもアウシュビッツ近くの線路後の壁で見つけたし。うー。人間って成長しないなー。歴史を背負えよ、って感じです。最近なんでこんなに人種や国家間対立や強調が語られるか。グローバリズムって、国境が希薄になる事ではないのか。戦争の匂いがぷんぷんします。というか、おそらく世界は何時でも戦争をしていることに気付いて来た、ただそれだけなのだ。日本のメディアにまったく触れなかった事で、それらを気づかないような仕組みが社会にある事に気付いたのかもしれない。
現代の戦争についてはもうちょっと勉強してみようかな。

ちなみに、ドイツで数年前に制定された法律で、インターネット上で、ホロコーストは無かったというような主張を書くと、ドイツ国外でも逮捕する事が出来るらしいですよ。これはいろんな意味ですげー法律だと思う。僕はその法律に反対だけど。これに関しては、ネット上の越境的な言論の自由が犯されたと、もの凄い批判があったらしい。ある文化圏の「正義」が「抑圧」を招くいい例ですね。