
In 建築, 美術 on 1月 23, 2007 : chiguhagu
パリに来た事、パリに来てファッションの勉強をしてる友達が数人出来た事、自分の興味の対象としての服が徐々に値段が上がってちょうどハイファッションに到達した事、が重なって、結構ファッションについてじっくり考えたり見たり話したりしています。
東京に居る時、ジュンヤ・ワタナベとかフセイン・チャラヤンとかそういう記号的な服(服の部分の記号(ポケットとかボタンとか)、モードの記号(アディダスとか軍服))を作ってる人の服に興味が有ったのに対して、バレンシアガとかリック・オーエンスとかラフ・シモンズとかそういう、シルエットの構造をいじっている人たちの発見がありました。ちなみに僕は着飾るより鑑賞したり部屋で一人でいろいろ着てみて組み合わせてみたりするのが好きです。そういうの東京っぽいでしょ。日本のギャルソンファンの多さは社会表象としては素晴らしい。


(pic 1 モードが自己言及的に モードを問う物が多いなか、モード以外の服の記号をモードに昇華 , pic2服のデザインの元ネタが直喩。)
しかし、本音をいうと、早く消化して飽きちゃいたいという自分がいます。将来的にそんなに興味が無くなるという自信が有るのだ。しかしモードは字のごとく、一番社会の感覚のレスポンスが早い分野で、最近だいぶ建築の分野でもモードの流れを追おうとしているので、モードに対する興味は現代の建築家の必然なのだ。
だって上に書いたように、記号的な物があって構造的な物があって表層的なものがあってと。ジェンダーとかはあまり建築にはないし、身体も表現としてモードと比べると遥かに中途半端なアプローチしかないのだけどね。一応いまんとこ世の中は消費型資本主義なので、やってない事はいずれやられると勝手に思うので、やっぱモードのお勉強は必須なのさ。


(pic 3,4 記号から距離をとり、ディテールの表現が構造を決定。か?)
まぁ、 そんなこんなで前振り長かったけど、本とかよんでると興味深い事を数点発見したので。
結構ファッションデザイナーはソーシャルな事を興味にしていて(現在のデザイナーなら社会がそこら辺の知性は要請するので当たり前だが)アンチファッション のためにファッションをやっていると言っている人が結構いるということ。ここで言うファッションとは、おそらく、商業資本主義的な流行の事も有れば、着飾る事自体でもあるし、インターナショナルに流通しすぎる洋服市場のことでもあるし、メインはオートクチュールとかの伝統的なファッションの売り方、発表形式のこと。
あと、自分はレボリューション(革命)でなくてエボリューション(進化)したいのだ、という人。tachenからでている’fashion now’で、大御所デザイナーがまったく同じ事言ってたのでこれは!とおもった。きっと俗にいう「業界」に革命をではなくて、漠然とした自分自身や、美学的な感覚を進化させるんだっていうかんじだと思う。
どっちも凄いスタンスは似てて、あーそう言う事に興味が有るんだ、。ってかんじ。似てますね。ていうか、それぐらいしかいう事無いんじゃないの、と思ってしまった。しかしまぁ、より人生とか愛とかを作品で語れる感じが非常にうらやましい。もしくはそのうさんくささも含めて。(ソーシャルな話はファッションにおいては、ほとんど成功してないかもね。マルジェラ、ファイナルホームとか。多分、フィジカルに社会変える気ないのでは。建築の方がその点は断然面白い。アメリカン・アパレルとかのポスト植民地的な低賃金で働かせるのではなくてアメリカに工場つくって、って話は特別、面白いと思いますが。)
あとは、凄い今っぽくてドルチェ&ガッバーナとかトムフォードとかの哲学とか本質はいいから楽しもうぜ、っていう主張。これは楽しみたいって言うか、楽しまない批判という意味で結局アイロニーを使いながら本質的な事をやりたいんだと思う。ファッションデザイナーという職能が広がり切ったところでちょっと再構築みたいな?僕、ちょっと意味分かんないけど、まぁそういうことを言う心情はよくわかる。


(pic 5,6 全体を流れる構造コンセプトがディテールを決定。)
ちょっと前のデザイナーならジェンダーのあり方とか、ジェンダーのあり方を少しも加味しないデザインとかが主題だったのでしょうか?っていうかそれらの言説は時代遅れな感じですね。ユニセックスな服は多いっすね。でも、いまもうちょっと一般向けの服、ディーゼルとかH&Mとかその逆で相当ラグジュアリーなの流行ってて、Pコートとかパリにはあんま売ってないんですよ。ラグジュアリーってジェンダーを強調するスタイルだから、そう言う事考えるとやっぱ前時代的な物が遅れてはやるんだって改めて思いました。
はい。以上だらだら書いてしまいました。服は専門的な事を全然知らないのに適当な事を書いたので まぁ気にしないでください。

In ダンス on 1月 17, 2007 : chiguhagu

In 建築, 美術 on 1月 9, 2007 : chiguhagu
考えてみたけど、大して興味はないや。でも、装飾をしてしまう人の行動心理は非常に面白いと思います。下の写真のように。



上から、パリのカタコンブ バルセロナの市場 グラナダのアルハンブラ宮殿 好きな装飾を並べてみました。パリの街を彩る装飾たちは労働力の象徴として(つまり権力の表象として)の装飾であるのに対して、これらは若干違う気がします。色気を作ろうとしたり、マテリアルに対するレスポンスがあったりなど。
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ところで、巷ではherzogの装飾回帰に皆興味が有るみたいだけど、やっぱあんま面白くないです。
スペインに行ってきたのでエルクロを凄く安く何冊か買ってきて最近パラパラと読んでいるのだが 、OMAの方が建築としてもドキュメントとしても断然おもしろのさ。TASCHEN の出してるcontentという雑誌とかよく見てると、マーサ・スチュアートをREMがインタビューしてたりする記事とか、へーって感じ。刺激は有るわな。決して、中の文章を読もうなんて気にさせない本だけど意外と結構おもしろい。
新しい装飾性とかはあんまわからないので置いといて、古い装飾にこういう介入は有りなのではという写真↓。結構かわいいと思います。ただそれだけだけど、まぁ、いいじゃん。


In ダンス on 1月 4, 2007 : chiguhagu
Sylvie Guillem & Russell Maliphant
“Push”をみました。この踊りには表現の構造が非常にシンプルに含まれております。しかしそれを記述するのは複雑な作業です。
僕が思うに、基本は ’スムーズに動く事’ と動きの断片が下の写真のように ’構成的である事’が組み合わされたとき、ダンスは非常に美しく見えます。
古典である、バレエはひたすらこれを磨き続けたものなのだが、コンテンポラリーダンスは日本語で現代舞踏であるから、とにかく、古典に対して現代なのである。そうなると、「何が現代的か」というのが、ダンスの制作者にとってまず乗り越えなければならない最も重要かつシンプルな問いです。この文章の始めに、「表現の構造が非常にシンプルに含まれて」いると書いたのは、つまり、「何が現代的か」という問いに対する答えがシンプルであるという意味で書きました。それはクリエーションする人たちが意識したかどうかはあんま分かんないけど、「現代的とは、古典の延長としての現代である」という答えを出したように僕には見えました。
もともギエムは20世紀後半、最大の天才バレリーナとしてのキャリアを持っているので、彼女が現代ダンスをやれば自ずとそうなるといえば、なるのだが、それ以上の表現、つまりポストモダン的な(モダンの後の、という意味ではなく記号的なといった)表現を入れず、現代的美学に照らし合わせた「構成」(コンポジションと言った方が良いか?)を踊りに挿入したと感じました。それは僕にとって古典の延長なのです。
下のダンスの写真が作る構成は現代的だと思うのですが、言語化までは出来ません。話が冗長になりそう。どうですか?そう思いませんか?これらの美しさは機械のメタファーが無いのです。‥‥あ、一つぐらいあったかも。
結構、ダンスを見てる感じ入るのは、特徴的な動きの構造だったり、単純な動きの集まったとき見えてくる運動の構造なのだけど、Sylvie Guillem & Russell Maliphantのダンスは「構成」をみて非常に感心しました。すごい!少し、まともな身体表現を構想する地平に立てるようになったと思いたい。







In 美術 on 1月 3, 2007 : chiguhagu
2/1/2007 パリ デンファー・ロシュロン

aki kuroda のアトリエを訪れ、4時間ほど話す。こんなに長く話したのは2年ぶり。素晴らしいアトリエ。上に火星に水があった事を発見した数学者のアトリエ。その向かいにアラン・ミクリの家。
http://akikuroda.com/
政治の事、女の子の事、生物学の事。もちろん建築の事、アートの事。印象深かったのは、
今は世界的な民族移動の時代だという話。
4足歩行のとき発情したお尻を追っていた人間が二足歩行になって、お尻が見えなくなったから、尻に似せて唇に口紅をするようになった話。
僕が非常に影響を受けた、原広司、aki kuroda、どちらも穴がテーマの人生。前者が建築におけるトポロジカルな穴、後者は絵画における塗料と図像が生み出す穴。お互い構造に穴を持ちながら、螺旋状に作品を展開している。kurodaは、ミノトール(牛の頭をした人ね。)が住んでいる塔の中の螺旋状の階段を上がりながら、たまに外に飛び出そうとする。そこは下が海になっていて、飛び出ると落ちてしまう。そして、また螺旋に戻って行く。2年前は地中海にある7つの島を巡りながら絵を描いているといっていたが、いつのまにかミノトールの塔になっていた。きっと同じ事なのだろう。