2006年12月のアーカイブ

Post

陽子 嫁 せくはら

In エロ on 12月 30, 2006 : chiguhagu

もうブログをぐちゃぐちゃにしてみたいのでながれをかえてみます。
飲み屋で憤慨した荒木氏が「帰るぞ」の一言で店を出たことを回想して、亡くなった妻の陽子の本にこういう一節が有るらしい(mixiで拾ったので確かめてないです)。

『そんな時には、残った酒や料理を気にしたり店側との間に割って入って取り成したりせず「アイヨ」とさっと腰をあげるものなのだ。それが夫婦の「ツキアイ」という、大事なことである』

rimg0093.JPG

これはすごくよい。僕の今まで見てきた飲み屋の世界が教えてくれたのはまさにこれなのだ。これを男尊女卑と見る人は死んでいいかも。これはジェン ダーの差異の演劇的振る舞いのクイズのようなものである。男と女は同じ人間である以上に、性別が違うのである。性別が違う以上に、同じ人間であるという テーゼはもうどうしようもないぐらい問題性を孕んでいなすぎて語る意味はあまり無い。性差をいかに無くすかは、社会的不平等をいかに無くすかという問題に 主に収束して行く。それに対して、性差をいかに振る舞うかは、もっともっと複雑で、社会的、文化的、哲学的な問題、様々な問いを我々に投げかける。
今日ポルトガール達がパリに来たので、お酒を飲んでいたときセクハラの話になった。こういう事である。一元的なセクハラは、女子(たまにシャイ な男子を女子が)を辱めて男子の優位性を楽しむ行為である。しかし、より高次のセクハラという物が有る。性差を確認する、様式的な作法として行う種の物で ある。つまり、優位に立とうとする行為を女子が理解して、逆にそこを指摘する事で優位性を逆転させる、という事を期待して、自発的に自分を辱めようとする 行為である。つまりマゾヒスティックな行為である。これを2元的なセクハラといえるだろう。そうすると、さらに期待される高次のセクハラは、それをお互い が認識した上で確認しあう、つまり価値感の共有をはかる3次のセクハラである。これはもう既に厳密にはセクハラではない。優劣の無いフラットなコミュニ ケーションである。
例えば、
「今日何色のパンツ履いてるの?でへへ。」
「透け透けの水玉よ。あなたそういうのが好きなの?」
「うん。大好き!」
という感じ。これが僕の理想。(ほんと大した事じゃないな‥‥)お互い対等な演劇的振る舞いによって、ジェンダーの差異を表面化して、お互いに主体(人が自立した唯一の個体であるという意味付け)を与える行為。これをrimg0093.JPG

「優しさ」と、名付けてみました。優しさがすきです。

話を戻すと、本当に陽子のこの言説は、僕の未来のお嫁さんがこうあったら良いなーという感じ。前述の理論を残すとこなく表象しております。これ自身が僕自身のしがない希望的観測であるが、最低条件にして唯一の条件と言い切ってしまいたくなる。

Post

歩く机

In ダンス, 建築 on 12月 13, 2006 : chiguhagu

これ欲しいー

31.jpg51.jpg7.jpg
これもたのぴー

Post

Emio Greco HELL

In ダンス on 12月 13, 2006 : chiguhagu

Emio Grecoのカンパニーのダンスを見ました。久しぶりにダンスのトピ。っていうかダンスの批評とか感想って凄い難しいし、パンフレットがフランス語だけなので、翻訳機で英訳してよんでいるのだが、書いてある内容が、いかにもなフランスの文章、なんというか例えば、Of the hell to the dance, there would only be a step, a passage, a crossing? It is what seems to tell us Emio Greco and Pieter C. Scholten with their last creation, Hell. という走りから始まる感じ。翻訳機の英語だからあやしいけど、「彼らはなんと誉れ高き競走馬のようだ!」(千種が作った例え)チックな大袈裟な下りが多くてあんま意味分かんない。

とりあえずパンフの写真を見てみましょう。greco.jpggr.jpg

非常にギャップが有るけど同じダンサーの同じcreationです。

タイトルのhellは例のごとくダンテのコンテンポラリーダンスへの翻訳です。 よって若干断片的では有るが、演劇的な作品としてみる事も出来ます。特に哲学的な作品では無さそうなので、深読みをしてもあまり楽しめないので、ありのまま(!!!)をじっくり見ておりました。1枚目はシリアスな感じですが、基本的に2枚目路線です。

the purest entertainment and a deep reflection on the human. ざっくりいうとこういう事。

やっぱりコンテンポラリーダンスは説明する言語を持たないっすね。言葉で感動を説明するのは無理。上のように 写真にしても、テイストが違うと全く違う作品に見えてきます。つまりただひたすら、見るのみ!なところがいいです。最近はまっている理由はそこら辺に有ります。要するに消費しづらいメディアなのです。この大スペクタクルが当日券で学割り13ユーロで結構良い席で見れるのが僕にとって、パリの一番良い点かもしれないです。やはり世界中で一番集まってくるんです。ここ↓が世界最強の劇場です。

パリ市立劇場

ちなみに裸の踊りは初めて見たんだけど、股間や胸はコントロールできないのに突起してるから、非常に表現には向かないです‥‥‥。筋肉の動く躍動感はもう、最高にいい!けつ筋が特によし。

忘備録

今まで見た人

Padmini Chettur / Louise Lecavalier / Daniel Larrieu / Emio Greco

後は フランス国立バレエ団 と もう一組名前忘れた。

Post

パリは飯がまずい。

In 都市 on 12月 12, 2006 : chiguhagu

という不満以上にこの国は、差別大国である。
更にそれ以上に地域コミュニティーみたいな物すら、満足につくれないので、色々社会のシステムがきしみまくっている。
とにかく都市であるパリの地下鉄には失業者がいっぱいうろついている。その多くはぶつぶつ心の声が漏れてしまっている人たちである。同じ場所で、お金をねだるという同じ行為を繰り返す異常さは日本に居る時にはあまり感じなかったものだ。彼らを見ていると、彼らではなくて、社会の方に疑問が湧いてくるところが日本とは違う。隠蔽しきれない量の「彼ら」がいるのだろうか?(彼らを固有の人として何故だか感じない。)たしか、東京のホームレレスの数は、NY LONDON PARISと比べて1/10にも満たない。都市としては全然、全うです。
失業というか、この先の大きな不安と心のゆがみの関係は非常に強く有るのは間違いが無いのだけど、本当のところ、あまり分からないのだ。そんな経験無いし。先日のYAHOO NEWSで脱北の7割以上(?だっけ)が、PTSD(だっけ?)ていうのをみたけど、多分パリの失業者も相当の割合で病んでいる。同じ例として、先ほど、NHKスペシャル映像の世紀 第10集 「民族の悲劇 果てしなく」をみたのだが、ユーゴ問題でクロアチアの強制収容所から解放された人の眼が凄かった。完全に虚ろっていうか精神が壊れてた。他にも難民達の眼はどれも一様に所謂、死んでるっていう状態である。すごいわ。衝撃。この死んだ眼、というのを絶えず社会が抱えてきた世界が欧州なのではないか?主体の無い人々と主体を見つけている人々が何事も無かったかのように共存する世界のようにみえる。

3.jpg%e3%83%94%e3%82%af%e3%83%81%e3%83%a3-3.jpg

動物の生体とかのドキュメントとか見てて精神的に病んでる動物ってあんま見た事無いかも事を考えると、相当人間って荒んでます。唯一精神病と思われる動物を見たのは上野動物園のおりの中でぐるぐる回りまくってる虎。とにかくそんな感じ。

パリで病んでる人は主に移民。アラブ系とアフリカが多い気がする。人種差別はもろに、生活に関わってくる。本気でこっちの人は差別をする事が自分の職をゲットする事に結びつくと考えている。その発想がまじすごい。否定は出来ないが明日は我が身だと考えないのが理解できない?つまり、やったらやり返されるという可能性についての思考の無さ。
まぁ僕日本人だからとりあえずいいんだけど、
日本に居た時は、どっちかっていうとフランスってヨーロッパの中で一番倫理観があるんじゃない、と思っていたが、ちょっとこの人たちで構成されている国は怖いですね。

Post

Jon Cage 4/33

In 美術 on 12月 10, 2006 : chiguhagu

凄いじわじわだけど、ものすごく来ますね。こういうアートがすきなのさ。

音が無い という音楽の発見は数学で言う0の発見から比べると、ずいぶん遅く発見されたなぁという感じであるが、その発見の素晴らしさにも増して、そこには非常に高度な社会の演劇性をみることができる(このビデオで)。

このコンサートにいって、「ふん。つまらん。」と思うか、つまらないがアート作品としての感銘をそのまま 良い演奏を聞いた時のアクションに置換して、拍手を送るか、の差は大きい。

つまり、与えられるという一方的なエンターテイメントでは無い、と、観衆が悟ったとき参加型エンターテイメントに置換されるという文化度の高さが特筆に値すると考えています。

なんでこんな感想をジョンケージの作品に対して送るのか?(じつはこの文章ジョンケージあまり関係ないの。)

僕は歴史的弁証法でものを考えるのが好きなので、ある文化的表象を比較するとき、どちらかがベースとなり後者がなし得ているとき、後者を一応「優れている」という表現で言ってしまう事にしています。優れてるっていうのは、評価できるっていう意味。裏を返せば、それぐらいでしか、評価は出来ないというか。これに対する批判として心に残っているのは、「物事をドキュメントとしてしか扱ってない」という批判。つまり心が感じた情景は?っていうお話。

しかし、なんか心に感じるインパクトみたいな物って、所詮それ自体もドキュメントの記憶が作り出している2次的な感覚で、虚構なのさ。

僕、結構むかしからこういう主張をしてきたんだけど、流行んないんですよ、とにかく。夢が無いから?いや、ドキュメントを発見するのみならず、(直接的な、もしくは1次的な)ドキュメント自体を作るモチベーションになっているのだから、非常に夢があるのさ。あるのにー。

ちょっと前から思ってるんだけど、建築とかって良いとかいいすぎなんだよね。
ファッションデザイナーが雑誌の企画で喋るクリティーク や、インタビューって非常に独特で淡々としている印象が有る。川久保/マルジェラ(ミーハーっぽくて気持ち悪いけど‥あんましらないから、他にも色々。)。なんかそこには、自分の言葉を歴史のドキュメントのように操るというか、「私はこう思う。」というのだが、他の人もこう思ってください色がを微塵も感じさせないよう意識して喋っている、かつ、その言葉は「ドキュメントだ。」という激しい主張を混ぜるような感じを、僕は感じた事があって、これっていわゆる1次制作なんですよ。政治性の無い言論という新しい分野。しかし一応僕の勘だと、そろそろ廃れ始めている、と予言しちゃう。若干他の分野でも流行ってるよね。女のアーティストに多いかも。

ってそんなかんじ。

Post

キリスト教の柄

In 美術 on 12月 3, 2006 : chiguhagu

はビューティホー。なんかこのブログ、色彩に花が無いので入れときます。p1030086.jpgp1030085.jpg