2006年11月のアーカイブ

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イタリアの墓

In ダンス, 建築 on 11月 24, 2006 : chiguhagu

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イタリアのユダヤ人の墓って凄いんです。荒廃っぷりが 。これ、デコンストラクションって感じ。

何でこうなっちゃたのかは、知る由は有るかもしれないけど、とりあえず省きますが、 これは石の造形としてはいいですよ〜。もたれ合う、各々が違う方向に傾く、折れて倒れる、一つ一つは造形的。神妙な感じもあって80年代、建築家が目指した理念に非常に近いですね(馬鹿)。

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これらもいいですよ。なんでかな。死者を辱めている点かな、後ろから見たらださっ!みたいな。p1030148.JPG

グリッドなんだけど大量だと2方向に開いてるみたいにみえるなー。

こういうのも、うん、良いと思う。ごめん全然文章になってなくて。墓フェチなので、のろけてるだけかも。

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MICHELANGELO

In 美術 on 11月 19, 2006 : chiguhagu

うん。イタリアに行ってきました。11日間。トレビソ、ベニス、ヴェローナ、ミラノ、コモ、ジェノバ、チンクエテッレ、フィレンツェ、ボローニャ、ヴィツェンツァ、トレビソっていう具合にハードに回ってました。一日一回は世界遺産みたはず。

このたびでヤバいと思ったものが何個かあるのでこだしで書いていきます。一応今のうちに書いとくと義務が発生するので、とりあえず列挙すると、ベネチア建築 ビエンナーレ(中国、アメリカ、イタリア館(OMA))、ルネサンス建築(ブルネレスキ、パラーディオ)、アルド・ロッシ、チンクエテッレ、ミケランジェ ロですわ。カルロ・スカルパは凄さは分かったけど、あれを批評する言語を僕は持ってないです。 テラーニはまじめなおっさんですな。みてて面白さがちょっとたりないかも(あくまで個人的な意見だけど)。グローバルスタンダード(インターナショナルス タイルの歴史的弁証法的な流れ)とイデオロギーの間で揺れたのではないでしょうか。

と、さらっと流して、ミケランジェロ。やばーーーーーい。まじびっくらこいた。 リアルな人間以上の身体の艶かしさを石は表現しうるのですね。大袈裟だけど膝ががくがく震えました。

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結構、この旅ではまっていた事に、凛々しい彫刻をださく撮るっていう事があるんだけど、それはつまり、多分表現に現代的知性を感じない物が多かったからなのさ。だから馬鹿にしてやろうと。 まぁそれでも全然かっこいいんだけどね。それはつまり、物に時代性が帯びる事によって起こる普遍的な現象なんだけど、ミケランジェロの彫刻はそれがないんすよね。

もう、すっかりファンです。ちなみに僕は普遍的に良いものというのを全く信じてない(というか憎しみさえある)のですよ。ポストモダニストだから。つまり、良い物 を司るのは時代の感覚であるから社会の変動と人間の感覚(SENSITIVE?みたいな)は同様に普遍的安定的なり得ない、と考えるんです。でも、でも、だからこ そ、そう言う物って、僕の中で長い安定をもたらすであろうアルカディア となっていて、求めてしまうんだろう(もしかすると他人以上に)。若干、頭に人参つけられて走る馬のような感覚かもしれないですね。まぁそういうのがお似 合いですよ、どうせ。‥‥そうミケランジェロは人参なんです。僕にとって、きっと永遠に。それぐらい強い表現と、ぶっ飛んだ感性でした。いやほんっと良い彫刻と悪い彫刻って差があるね。もとい、厳密に言うと表現力の強い彫刻と弱い彫刻でした。

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こいつは潮吹きポセイドン。

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GEGO / THINKING ABOUT LINES

In 美術 on 11月 19, 2006 : chiguhagu

gego_01.jpgよいですよ。ちょっと古いけど。

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MIKAN LACATON &VASSAL

In 建築 on 11月 3, 2006 : chiguhagu

パリから電車で1時間の街、オルレアンで毎年アーキラボ展が行われる。今年はたまたま、日本人特集であったので、若干誇らしげな気分で会場へと足を運んだ。

これほど日本人の模型が集まる事は見た事が無かったので、知ったプロジェクトがほとんどであったが、非常に面白かった。自らの作品を輸出する気持ちでか、日本では個展レベルの気合いの入った模型が並んでいたが、特に僕が興味を持ったのは「MIKAN」である。

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写真のように、壁は布で作られていて、めくれるようになっているのだが、一見何がコンセプトか非常に伝わりにくい。というのは、各住戸のコンセプトを伝える気がないのである。

一瞬戸惑ったが、つまり「コンセプトが無い」というコンセプトの展示だったのではないだろうか?これは、良い家と面白いコンセプトのギャップに対する批評を投げかける。別に彼らの住宅自体にコンセプトが無い訳ではない。しかし、それ自体に焦点を当てない態度は他の建築家と明らかに、一線を画していた。それが僕は好みかといったら違うし、この展覧会自体の総評的には、ペット・アーキテクチャーやユニット派など、ポスト巨匠世代の寄せ集めると集合として一つの巨匠的作家性を持つという、今までの作家論的には世にも奇妙な作家性が浮き彫りになった画期的な展覧会ではなかったか?という見方をしていて、日本の成熟を一人で祝っていたので、MIKANはむしろ浮いている。

なのに取り上げたのは、彼らが現代のフランスの作家と非常に近い位置にいるからと思ったからである。MIKANにマニュエル・タルディッツがいるのも関係がない訳ではないだろう。

まぁざっくり言うと、現代フランス建築界は「普通さ」であふれているのだ。

その代表作家として注目しているのが「パレ・ド・トウキョウ」の改修でも有名なLACATON&VASSALである。

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彼らの態度は、徹底的に見てくれを考えない事にある。

“When you are on a beautiful carpet placed directly on the sand, with maybe some beautiful women, drinking some tea and with some very nice music, it’s really luxurious.”

ちなみに僕も大学2年のころ、後藤武に、良い建築的空間より、良い音楽やかわいい女の子が居る方が良い空間じゃないですか? と聞いたところ、「建築家には建築家の職能があるから、それをやるのみ」と言われたのを覚えているが、そのパラドクスを解く作業を彼らが建築家という職能としてプロフェッショナルにやっているのだろう。

それに付いての言及がこれ

“I think luxury is not related to materiality, it’s just some incredible situations. And as architects, you have to produce incredible situations.”

&抜粋 

「They showing how its ideas of economy and often cheap and basic construction techniques can make as much sense in Europe as in Africa.」

またまた抜粋、

Andreas Ruby, who has written extensively about their work, says that their ideas of economy are a threat to the French architectural establishment, and they are thus seen as outsiders. “There is a clear line of criticism in France. French architects find Lacaton and Vassal’s position problematic as it gives politicians reasons to cut budgets. If, as they are doing in Nantes architecture school, you can give twice the space for the same budget, why not cut the budget in half? This is the big fear. But on a more subconscious level, their aesthetic of roughness is not like the typical French elegance of Perrault or Nouvel.”

ここらで説明すると、バッサルはモロッコで生まれて、アフリカでプロジェクトをしていた特殊な経験もあるフランス人である。アフリカの厳しい気候と限られた素材において、経済的かつ恒久的な建築が必然的に求められたらしく、ドローイングなしで建築を建てると断言している。そのかわり、ディスカッションは死ぬほどするとか。かつて、ドローイングを書かずに有名になった建築家がどれほどいたか、考えると、いかに彼らが面白い建築家か分かってもらえるだろうか。

 

激しく予算を削っていく手法が表現として認められた背景には、どうやらフランスの現代建築界の興味がそこにあるからである。
僕が、フランスの建築を研究しているフランス人になぜフランス建築はextreamでないものを作っているのか聞いたところ、彼らは今、政治に興味があるからだと言われた。
まさにそのような事が Andreas Rubyの発言にも書いてあったので、どうやらそこが核心らしい。

 

その政治的な事についてvassalはこう述べている。

“The question of the money is not to work with less money, [it] is to do the maximum with the money you have. If you have a lot of money you can do more and more.”

ようするに、フランス現代建築界は、anti-ザハ・ハディド anti-フランク・ゲーリーが吹き荒れているのだ。結果、普通の建築が出来るって所が今回のポイントで、う〜ん、おもしろい。MIKANは表現のメタレベルで普通を押し出してるのに対して、LACATONは政治レベルで普通を作っている。両者はメッセージの方法こそ違えど、出発点も過程も結果も非常に似ているのだ。北山、難波〜とかはこんなフランスの心情にぴったり来るのではないか?まぁパリに今度ゲーリー×LOUIS VUITTONで美術館で来ますけど‥‥‥。fondation-louis-vuitton.jpg

前回のブログで、建築の自動生成を想定してデザインしている建築家について書いたが、フランスは逆にもっともっと現実的で、建築デザイン(ハード)の無力さを 後期近代、メタボリなどのメガストラクチャーの都市から学び、ソフトウェア志向でそれを実践しているのではないか?

これを建築家としてどう受けるかは非常に問われるところである。

詳しく知りたいならhttp://www.icon-magazine.co.uk/issues/020/lacaton.htmこれなので。

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建築→自動生成

In 建築, 都市 on 11月 1, 2006 : chiguhagu

どうやら日本では伊東豊雄展がやってるらしいね。いいなー。フランスでもやっていたけど。ちなみにsanaaより断然、豊雄の方が海外では知名度が高くて驚きます。

で、講演会行きてー、てことで、レポートだけよんでまた、驚いたんだけど、
http://www.japandesign.ne.jp/HTM/JDNREPORT/061101/toyoito/6.html

やっぱ、この人も将来建築が、自動生成される技術が生まれる事を想定して形を考えている事が判明したから。なんで海外のvirtual architectはしこしこ出来もしない空想の建築をデザインしているのか?
つまり基本は皆こんな事考えているんですね。納得。ちなみに僕がr&sieを押すのはこんな絵を彼らが描いていたからです。

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まぁ、そのあとのデカルト幾何学うんぬんの話は、都市とか身体とかいってるけど、表現の話ですね、明らかに。やっぱ取って付けたように公共性を語る癖はもはや建築家の職業病ですね。
てか、誰かとよお、バルモンド、たきこうじの講演会レポート、キボンヌ!

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Fernanda Gomes

In 美術 on 11月 1, 2006 : chiguhagu

ちょっと遡るんだけど、ポルトガルのPORTOに行ったとき、Alvalo Sizaの建てたMUSEU DE ARTE CONTEMPORÂNEA DE SERRALVESで、Fernanda Gomesというブラジルの女性作家の作品を見た。

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結構、批評的な作品を作る人だが、今回のexpositonはもっとポエティックな物で、抽象的なイメージで構成されている彫刻空間である。日常から切り出してきた、最も繊細で壊れやすいもの、見えにくいものを抽象化して美術館の空間に配置している。おそらく、ブラジルのスラムから持ってきたイメージであろう。

これは’清潔で散らかってない部屋’というアイコンの反対なんだと思った。しかし表と裏は一緒なのだ。本当に気をつけないと踏んでしまいそうになるものも 家具や建築の構造を与えてやらないと完結しない。同様に清潔できれいな部屋もこのような、小さくて見えにくく、壊れやすいものを与えてやらないと完結しない。そこが狙いなのだろうけど、皮肉さを感じてしまったのは、これらがまさに、ホワイトキューブである美術館空間に置かれて初めてアートとして成り立つ点である。

建築というよりもっと艶かしい日常に対して示唆的な、パラドックス・アートであった。

そう言えば、先日パリで行われたFIACという国際コンテンポラリーアート見本市なるものにあった、どこぞの作家か分からんけど、似たようなテーマの写真。白い部分が衛生空間であり、対比を示している。より分かりやすいが深みはあまりない。

日本のスーパーフラットのような表現(これももう古い概念であるが)に対する、戸惑いの現れなのだろうか?

やはりここでも、一方で均質に見えるグローバル資本主義社会と、飛散的な構造を持つテロや貧困のリアリズムの対立構造を垣間みてしまう。なんちゃって

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