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宇宙の塊

In 1 on 10月 29, 2009 : chiguhagu

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良く分からないかもしれないけど、拡大すると細かいんです。

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最近ハマった性的描写

In 1 on 10月 20, 2009 : chiguhagu

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こんなもんアップしていいのか全然わかんないけどー。ししししししんめとりーー みみみみミラクル!

世界で最も悲しい犬と、鴨川?のまんなかでびしゅぬれの?誰なんでしょうか?

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出雲

In 都市 on 10月 6, 2009 : chiguhagu

すごい線的運動性のエネルギーによって一部が吹き飛ばされた山のごとく、出雲の地形は東西にきれいな平野が開かれて南北に山が取り囲んでいる。

山に対する谷の等間隔な感じも非常に不自然です。軸線の先にはcity of god リオ・デジャネイロとかがあります。furakutaru

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ピクニック

In その他 on 9月 14, 2009 : chiguhagu

めちゃくちゃ楽しかったです。なぜか、学生とフリーター率が異常に高かったです。

昼の出し物、闇ランチパック。

寝る前、人間オムレツ、かまぼこ・ピカチュー・フラッシュ

寝静まってから、….

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オリジナル

In 美術 on 9月 3, 2009 : chiguhagu

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最近、路上で手に入れたもの2点

1 本物の昆虫の死骸

2 本物のルイ・ヴィトン製品

「オリジナル」の意味を問う2題

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くもくもく + 告知

In 建築 on 8月 31, 2009 : chiguhagu

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就職して、もくもくと作業しております

告知 ・ 9月13日新宿御苑 ごめんねピクニック 昼から 雨天不決行 → カフェでシャンパン

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建築ノート

In その他, 建築 on 7月 29, 2009 : chiguhagu

建築ノート7号にTOYの座談会がのっております。

場違いなTシャツを着ている人が私です。

どうぞ、御拝読ください。

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しゅわしゅわしゅわ

In その他, エロ, 建築 on 7月 15, 2009 : chiguhagu

estt17

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水声通信28号

In 1 on 6月 5, 2009 : chiguhagu

ご報告が遅くなりましたが、水声通信28号 黒田アキ特集にかなりまとまった文章を書きました。

「ドラえもん、レム・コールハース、黒田アキ」

もし読まれましたらご一報ください。

千種

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倫理について 住まうこと

In 1 on 4月 8, 2009 : chiguhagu

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建築というのは機能があって初めて成り立つ。機能を満たす事が前提となってクライアントはお金を払う。機能に関わることはダイレクトに倫理に関わってくる。これは社会の一般認識であろう。

また、建築家は社会に対する倫理として地域または都市、文化について倫理観を持とうとする。このような事を考える建築家はより高度な建築術を用いることで機能の倫理と調停を交わす。

これらは時に衝突する。

そのことについてワイアードで以前掲載された「トロッコ問題」のパラドクスを紹介する。

「5人が線路上で動けない状態にあり、そこにトロッコが向かっていると想像してほしい。あなたはポイントを切り替えてトロッコを側線に引き込み、その5人の命を救う、という方法を選択できる。ただしその場合は、切り替えた側線上で1人がトロッコにひかれてしまう。

多くの人は遺憾ながらもこの選択肢をとるだろう。死ぬのは5人より1人の方がましだと考えて。

しかし、状況を少し変化させてみよう。あなたは橋の上で見知らぬ人の横に立ち、トロッコが5人の方に向かっていくのを見ている。トロッコを止める方法は、隣の見知らぬ人を橋の上から線路へ突き落とし、トロッコの進路を阻むことしかない。

この選択肢を示されると大抵の人はこれを拒否する、とBanaji氏は述べた。

興味深いことに、この問題の登場人物をチンパンジーに置き換えた場合、人間は躊躇なくチンパンジーを線路に投げ落とす選択をするという。

「自分たちとは異なる要素があると、人間は功利主義[善悪は社会全体の効用によって決定されるという立場。最大多数の最大幸福が目標になる]になる。しかし、自分たち自身のためには、カント主義的な原則に従うのだ」とBanaji氏は述べた。

[カントの義務論は、 功利主義と根本的に異なるとされる。つまり、最大多数の最大幸福による止むを得ない犠牲(他の義務を切捨てた事等)自体は善とされない。また、善悪判断に 関して、功利主義は目的や結果を評価するのに対し、義務論は意志や動機を評価する。義務論では、どんな場合でも無条件で、「行為の目的」や結果を考慮せず 道徳規則に従うという形になる。」

これに従うなら、建築家のクライアントに対する倫理感はどちらかというとカント主義的で、社会に対する倫理感は功利主義的なものだと考えられる。これらは根本的に別物で、同一平面上で語れないところがあるということだ。それを今まで散々どちらを取るべきか語ってきた節があるわけである。

功利主義と違って根拠なき道徳規範をカント主義が前提とするのは建築においても同じで、ここでは機能を満たすことが疑われない道徳規範である。建築は功利主義よりもカント主義がつよい。機能を満たすことは都市や地域を良くすることより前提というか原則というか(こういうの近代的だな)。これは先のトロッコ問題でも同様である。しかしここは建築がつまらないと思ってしまうポイントでもあるように思える。

ときにアートはカント主義的な倫理感が無いことをやったりする。おぞましい不快な映像を見せたり、物を破壊したり、それを喚起したり。これはほとんどが皮肉としてのメッセージとして成立している。これはものすごい面白い現象で60年代後期から70年代初頭のコンセプチャルアートが作り上げた社会とのコミュニケーションなんだと思う。

ゴードン・マッター・クラークは家に移りゆく光(という概念、時間の概念でもよい)を入れるためにチェーンソウとかで家を真っ二つに切ってしまうアーティストであるが、これは一方で建築の機能を成立させなくしてしまう。このような物はアートということで称賛されるのだが、こういう建築だと思うと徹底的に忌み嫌われる好例だと思う。

ここで僕が思うのは、ある意味「良い」家になったとするならマッタークラークは住むべきだったんじゃないかと。そうすれば彼は建築家でもありえたんだと思う。

そう、すめばよいのだ。コンセプチャル・アーキテクチャというのが仮にあって、機能をみたすというカント主義的義務をはたさなかったとしても、住むことで乗り越えることができる。住むこととはそういう効用があるのだ。森山邸は倫理的な議論を巻き起こしたが、住むことで、施主が満足することで、倫理的にOKとなったのではないか。住吉の長屋にしても、ホワイトUにしても施主が建築を建築たらしめていると言えなくはないか。

機能主義が倫理観の頂点にあるような建築倫理においても住まう主体があることはそれを乗り越えるより強い原理となりうる。もし住まうことを機能主義の(近代)建築倫理が否定したなら、あらゆる集落や歴史的建造物が否定されてしまう。住む(もしくは使用する)ことが建築においては非常に強い意味を持つからこそ機能を満たす倫理感が発達したのだが裏返せば住むことが上位なわけである。倫理感については延々と悩みがあったわけだがなんかそう気づいてすっとした。

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Edgard Varêse and Le Corbusier

In 1 on 4月 7, 2009 : chiguhagu

コルビジェのつくった動画発見しました。ubu web。 どうやらコルビジェが断ってクセナキスの建てたフィリップスのパビリオンのための映像みたいですね。そら豆みたいなのがぷよぷよ浮いてます。Varêseってのがエレクトロミュージックのすごい人。 映像は巨匠のお気に入りのモダンな画像コレクションといった感じ。最後は完全に自画自賛モードで自作の建築がつらつらと。あまり好きじゃない。音楽カッコイイ。

UBU WEBでお勧めはPAUL MACARTHY

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フォルマリスト

In 建築 on 4月 5, 2009 : chiguhagu

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最近やっと空間というもの自体に興味が持て始めたが、そこで、我々が何もない場所と思っている場所、つまり空間には空気という物質があるという事に気がついた。

当たり前のことなのに、気が付くまでに建築を勉強してきてずいぶん経ってしまった。
何にもない場所を感じて「空間」とよんでいたこの感覚は、今では空気なるものに満たされている非常に密な場所と感じ替える事も出来よう。

これは一般の人にとっては単なる感覚の変化ともいえるが、建築家にとってはずいぶん重要なことだ。特にフォルマリストにとって極意とも言えるものではないだろうか。矛盾をもった言葉として「空間」を捉えると、「空間」は一般的な存在としての言葉を離れ、観念となる。「これは良い空間だ」とか言う前に、「空間って何だ」という疑問が湧いてくる。そんな感覚になってきた。だから自然な流れで、「空間って何だ?」を想起させてくれるような空間に興味が傾いてきたわけです。

空気の充足と物の欠落を同時にかんじるには、常識的に後者のイメージはあるとして、前者の空気の充足を感じるための形のイメージがなくてはいけないんだとおもう。フォルマリスト(形式じゃなくて形態主義)の成功者はおそらく空気の充足を感じさせる入れ物のイメージの構築に成功した人たちで、裏返すとフォルムに興味がない建築家っていうのは空間は物の欠落つまりヴォイドだと短絡的に考えているのかも?

ミースのバルセロナパビリオンの白ガラスと大理石に囲まれた光り輝く光箱、パビリオンのあらゆる反射光によって光そのものが光を享受している空間について鈴木了二はそれを受動性をもった様態である闇として次のように述べている。

「暗さの揮発した蜃気楼のような闇、

水のぬかれたプールの空洞のような闇、

照明弾によってすべてをさらけ出された逃げ場のない夜のような闇」

すごい表現です。ミース・ファンデルローエの戦場という本で田中純はこのような矛盾した両義性にパビリオンの本質を見ようとするんだけど、ここで言いたいことも割とそういうこと?

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良い

In その他, 美術 on 3月 12, 2009 : chiguhagu

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人はどのように物に対して「良い」と評価するか。

「職人」と「ファッション」というのがまず考えられると思いました。

職人的な審美眼はそのものが生まれる過程が、他の物を作る過程よりいかに難しいかが、かっこいいとか美しいとかにダイレクトに変換されるものである。よって、生成行為に難易度が高い領域、たとえば、料理とか裁縫とか大工なんかが好きだったりして、革製品とか建築のディテールを愛す人の感覚。彼らは、ある種マゾヒストで、時の止まった清らかな精神性を求め、同じものを一生つくってきた老人とかを称賛する。それはモラリストの感覚であるが故に保守的でもある。

ファッション的感覚はもっとも相対評価主義である。これの本質にはフェティッシュ(物心崇拝)があり、それが相対評価をするための情報を手に入れることの原動力となっている。彼らの多くは新しいもの、ただし、ある流れに身を置いていて、ほかの作品などとの関連性が見出せるものを愛す。つまり、差異を求め続ける態度という言い方ではなく、差異の氾濫した世界に現れる類似性の世界を実は愛すのがこの感覚だ。

ファッションが新しさを基盤にしているため保守的職人的なものの審美眼を強く持ちすぎている人とは時折バッティングする。それゆえこの二つのものの見方は面白い。これらは「物」としてある対象を評価する感覚だ。

しかし、人はもうちょっとごりごり物を見ていくと、概念でものを見る、形而上学的な審美眼が備わってくる者もいるだろう。これは、前2つの感覚の不安定さというか危うさ、つまり職人的本質の論理的脆さ、ファッション的な美の時に対する脆さを嫌う感覚であろう。それが故に「物」の中から「事」を見つける感覚ともいえる。彼らは歴史などを用いて概念を相対評価する。まったく美しくないとおもっても、歴史的に意味があると思ったり、概念が新しい物の見方を提示していれば、なぜだか良いとおもってしまう不思議な感覚である。

身体的に良いという感覚もあるだろう。ある空間に身を委ねたときふと良いと思う。物や事じゃなくて「状況」に対する評価。色々あります。

良いって何だろう。これは迷宮です。それが故にまったく辛いと感じる時も楽しい時もあるのです。ある人にリンゴを差し出したとき、物として事として状況(場)として人は評価する。人と「良い」何かについて議論する時に、こういう違いがあることをお互いが認識しながら話す話はおもしろいのだ。

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yoshimoto cube

In 1 on 2月 8, 2009 : chiguhagu

吉本キューブなるおもちゃがあることを知った。
一つのものから二つのキューブがうまれる様は何とも不思議。

災害用の住宅とかで使えないかとか、お菓子の箱が吉本キューブでできてていつでも二倍の食べれるとか、家が倒壊すると同時に吉本キューブ的に新しい家がプルんと生まれたりとか。

外見(表面積)と容積の関係が裏切られることってほとんど無いので斬新。

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In 建築 on 1月 13, 2009 : chiguhagu

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“I day-dream of furniture , yes”

In 建築, 美術 on 1月 9, 2009 : chiguhagu

デビットリンチは家具の夢を見る。そんだけ家具とか大好きな映画監督で、実は家具を実際に発表して売ってます。http://www.casanostra.com/dl-index.htmfloatbeam1

この事実には正直萌えた。 なぜなら僕はリンチの映画で出てくる家具の大ファンだから。

パリのカルティエで幸運にも見れたリンチ展(電飾がバチバチいってる)

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でもかなり危ないリンチ空間が再現されてました。

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他にも「twin peaks」のブラックロッジとか

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「インランドエンパイア」のウサギの部屋とかもなかなかやばいです。

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特にブラックロッジの床材ってどう理解していいかよくわかんないんですよね。視覚的な効果を重視したのか、それとも記号的なものを狙ったのか。基本的にはリンチのデザインした家具はもろ記号性を重視したポストモダンデザインで、わりとそれ自体を穏やかに記号的な認識からずらしてやることで、空間全体にすごい違和感を作り出すっていうやつだと思うんだけど、あの床はそれにしては派手だし、記号としての親近感はないし。

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まぁ、それはいいとして、リンチ自体のデザインの趣味はバウハウス好きってどっかに書いてあったから、基本的には、モダニズム建築成立期というか、工業化する前の美学的チャレンジ期の空間が好きなんだと思う。コルビジェとかよりチョイ前の素材がまだ抽象化してないやつ。あと、ハリウッド的なというかケーススタディーハウス的な都会的建築と、カントリー調の木のちょっと使い古した手製家具。なんていうか、具象!そっからああいうポストモダンに行くのは割と王道です。そういう趣味って言うより、目的がはっきりしててデザインがそれをうまく具現化できてるから好きなんです。

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そういえばこういう邪悪なやつの対照的なの最近「でじーん」で発見した。

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噂のホワイトロッジ?(ツインピークスを見た人にしかわからないと思いますが。)

屋根と天井の間隙が非常にすきです。でもこういうのは抽象ではなくて具象でやるべきだ。

ちなみに最近のしせいどうのcmをリンチがやってます。主役、鈴木京香!!

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脱物質?作家的? ーせんとくんとコンセプチャルアートの出現

In 美術 on 1月 4, 2009 : chiguhagu

trd0804151658021-p1岩波 世界の美術の「コンセプチャル・アート」を読みました。

とにかく、事例の数が膨大かつ一個一個の作品とコンセプチャル・アートの文脈の関係が複雑なため、全くもって消化不良。なので少しずつ復習(復讐)がてら思った事をブログにしようということです。

コンセプチャルアート成立の流れを個人的に解釈すると、コンセプチャルアートは運動名的にはダダ(デュシャン)→ネオダダ→ポップ→ミニマリスムという流れの先で生まれ、その中で政治性の有無、シリアスかユーモアか、物質的か脱物質的かなどで複雑に揺れながら、主として、アート作品の持つ審美性の層を徐々に剥いで行くことで、概念(コンセプト)化していき生まれていきます。

ポップアートまでは「アートって何?」や「これもアートなの?」という疑問を喚起させるもの、たとえば、デュシャンの「泉」みたいに「便器もアートだ」と言い、そこに元来アートが持っているとされる審美性つまり、美に関する思考を与えていきます。それがいったん終わるのがポップアート、特にウォーホルで、次のミニマリスムぐらいから「アートって何?ってどうやったら考えられるか。」「これもアート?と問う態度はなんなのか」といった一つ上位の発想、この本ではリフレクションと書いているけど、つまり批評性を外ではなくて内に、自己批評を起こすような作品に変わっていき、そこには審美性は必要でなくなっていき代わりに概念が現れてきます。

作者のトニー・ゴドフリーはコンセプチャルアートは「レディーメイド」「インターベンション」「ドキュメンテーション」「言葉」の4つの形態のどれかを取っていると言っています。しかし、多くの作品はこれですんなり分かれるというより、これを組み合わせて複雑に絡み合っているのが実情です。

これらの中心にある関心の一つとして脱物質化は重要です。これはコンセプチャルアートをすんなり理解するためには欠かせない考え方で、コンセプチャルアートの位置づけもはっきりします。

さっきあげたダダとかポップとかっていうのは、それを構成する物質や主題となっている物質の点で流れができているんじゃないかと思いました。ダダ以前はアカデミックな見地で美的なもの(新古典主義)、ただ美しいとされるようなもの(印象派とか)が主題となっていましたが、デュシャンの便器で突如、美しくないもの、特別でないもの、つまり日常品が主題として挙がってきます。これは審美性の枠組み自体を揺るがすアートという意味で、コンセプチャルアートに最も影響を与えた作品と言って良いと思います。その後、ポップアートでは商品が主題となり、ミニマリスムでは物質的にもまったく普通のものが主題になって、コンセプチャルアートでついに物質が主題から消滅するとようになります。これが乱暴な脱物質の流れで、以下の流れでコンセプチャルアートは物質を提示しない方向での提示の仕方が模索されます。

この脱物質的趣向を背景に、コンセプチャルアーティストが物質の代替として提示したのが、ゴドフリーがまとめた4つの類型、つまり言葉(概念や調査、提言)やドキュメンテーション(地図やノートなど記録、証拠となるもの)、制作者不在のレディーメイドです(インターベンションの位置づけはうまく理解してません)。この流れに伴って、制作者も創造主からただの平凡な人や知識人、共同制作者の一人といった地位になっていくし、鑑賞者も見る人から能動的に参加する人、理解しようと試みる人という位置づけに変わっていきます。ミニマリスムと同時代のアートであるフルクサスなどは、コンセプチャルアートの参加者主体の形式を先どったものでした。

このような能動的に参加するように仕向ける作品を、ロラン・バルトは「作家的」という言葉で説明したそうです。バルトは、我々は作家を読む(つまり、与えられる)のではなくて言語を読む(自分に与える)のであって、能動的に読まなくてはならないといった主張をしています。作家的作品とはこういうものを指します。これは、与えられているのに慣れている者にとって「苛立ちをおぼえるが、やがて活性化される」ものなのです。

この考え方はモダニズムからポストモダニズムへと時代認識が変わっていく際、大きな原動力になったものですが、それは納得できるものだと思います。お互いがコミュニケーションできるように共有言語を持とうとする形式化こそがモダニズムの根幹であったのに対し、作品が作家の手を離れて一人走りするものであるという真っ向から否定するような理論がここでは展開されているからです。

僕も、作品をある形式に当てはめすぎること(例えば東工大建築の構成論のような認識論に立ったあらゆるものの形式化)には否定的で、どんな意見でもいいけど豊かな批評を導けるものこそ素晴らしいという立場です。キュビズムの方がデ・ステイルより重要だと言い切る人がいるなら、大体がこの立場によるものではないでしょうか?

こういうとき、保守的な人がする拒絶反応は、バルトの言葉で言うと、「作家的」な作品が嫌いということになるでしょう。つまり苛々させるな、考えさせるなということです。この顕著な例が「せんとくん」です。これは僕の私的な理論なので、正しいとは限らないけど、まず、せんとくんを見た時、その形式がはっきりしていなかったことによるパターン認識ができなかった大衆は自分で対峙しなければならないという孤独感から、めっちゃくちゃ不安になったり苛立って反対運動とかして怒りました。しかし、不安な人たちが集まっているという共有意識や、メディア露出の繰り返しによる慣れとともにある形式が見えてくるようになって、親しみを覚えていきます。そして、今じゃ人気者です。これは北野武の映画に見られる「振り子理論」といっていて、悪い奴ほど良い奴になれるという理論に非常に似てますよね。このように、とっても良いものになれる(悪いものにもなる)可能性を持っていること、これこそが作家的な作品の良さなのです。

しかし、「作家的」作品の傾向が、現在のコンテンポラリーなアートにまで受け継がれているというのが「アートってのは難しくてとっつきにくくて嫌いっ」っていう大衆のアート離れの要因の一端となっているのも否めません。観客の能動的参加は消費社会に使った我々にはちょっとイライラする存在なのです。美術館の学芸員がしきりに、「わからなくていいんです、自分で思い通り感じてください」と作品に対して説明するのは、正しい言葉ではなく、正しい理解だけを必要に求めることで興味を持たれなくなることを警戒した折衷的な態度なのです。

まぁ、コンセプチャルアートは現代アートの生みの親的な存在で非常に興味深いものなので、この本読んで初めていろいろわかったけど、もうちょっと理論自体がメディア露出してもいいかもしれません。

ps
コンセプチャルアートの出現に関するまとめとして、ゴドフリーが言葉の出現の要因を6つにまとめていて、これが非常にコンセプチャル・アートのキャラクターをうまく説明しているのでザクッとあげとくと、
1.脱物質の代替 2.人との共有願望 3.人の頭に入ってみたい願望 4.すべての芸術作品は本質的に言語的だという主張をする人々が多かった 5.アートの意味の理論化 6.アート市場への嫌悪、商品としてのアートから脱するための言語
これらのうち、2,3は現代アートの基本的なスタンスに近いけど、1,4,5,6はそこまで率先してやられていなかったり、今では否定されているものなので、裏返せば特に、コンセプチャル・アートの精神とも言うべきものかもしれないです。特に、6のコマースぎらいは、のちにコンセプチャルアート自体が市場で高騰していく中で、自己矛盾を作り出していき、コンセプチャルアートの急激な衰退の要因となっていくのです。

続く?

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近代主義=モダニズムに関する勘違いしやすい項目

In 建築, 美術 on 1月 2, 2009 : chiguhagu

ふと、書こうと思って書いてみました。

1 機能主義や合理主義は本質ではなくて一つのイデオロギーにすぎない。最も対立する物として宗教的価値観や魔術的価値観、地域・集落的価値観などがある。

2 美術と建築のモダニズムは違う。美術におけるモダニズムは平面性や形式を重視しており、純粋なものが目指された。社会的な物が加味された運動とは違う。建築におけるモダニズムの主題は大量生産、合理的建築で、その過程で表現された反復やデカルト幾何学が純粋であったことによって両者は同じと勘違いしやすい。

3 モダニズムは近代全般を占める思想ではない。もう一つの大きな文化運動の流れは芸術においては資本主義に対応したダダ、シュルレアリスムからポップアート・・・。建築においてはシカゴ、マンハッタンなどの高層ビルや遊園地などからベンチューリ、コールハースまでがそれに当たる。建築はコルビジェを今でも崇拝しすぎてて、その影響が強すぎる。両者はキュビスムに端を発している点は興味深い。

4 ミニマリスムはモダニズム(アート、建築)の美学の延長ではなく、本質的に逆。3の話の続きで、ダダとかポップアートの流れにミニマリスムは位置するため、モダニズムとは相反する(連続的な視点もありうるけど)。また、おさまりがいい均整な建築のディテールはそれがカッコイイとかきれいとかそういうことを語るのに対して、ミニマリスムのオブジェは概ね、何も語らない点で大きく精神が異なる。

5 日本において、モダニズムは皆に愛されているわけではない。大衆はよりキッチュなもの愛している。そうでなくては、町はもっと端正な面持ちであったはずだし、もっと現状に批判があがるはず。

6 コルビジェの思想は成功したのではなく失敗したと言った方がいい。ジェイン・ジェイコブスの「大都市・・・」でコルビジェ的都市計画の犯罪率が高いことが確認されている。また、ここ2,30年は(合理主義と地域主義の仲裁もしくは歴史主義との仲裁という苦肉の策以降)、モダニズムが進化したという感じの建築は現れてないのでは?むしろ成功したのは巨匠としての建築家というカテゴリーを最も初期に作ったこと。

ps モダニズムにネガティブな意見を書いたが、しかしモダニズム、モダニズム建築運動、モダニズム美術運動は近代最大の美学もしくは美学的運動であったことは間違えがないことを加えておく。現代においては???

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トランス感 二題

In エロ on 12月 24, 2008 : chiguhagu

すごい好き。どっちも。あげあげ

エロ本収集家のクリス・カンニンガムがジュリアナと気分的にシンクロしてもなんら違和感はないですよね?
どっちも聖なる儀式を思わせますね。

かなりBPMもかぶるよーな?一緒にみろってこと???はーどこあ杉っ!
嗚呼、視覚芸術万歳 

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逆説の可能性

In その他 on 12月 22, 2008 : chiguhagu

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好き!だからいじめちゃう。子供、特に少年によくみられるこの行動様式はほほえましいが、大人がやると、「めんどくさい奴だ」と扱われてしまう。

これはイメージの問題で、子供の好きだからいじめるのは純粋、大人は純粋じゃないから使ってはいけないという社会認識によるもの。

さて、私はこの逆説の詩性とでも呼べる行為を大人なのに成立させたい。こういうの、めっちゃ好き。というか社会のコミュニケーションはこれぐらい回りくどくあってほしい。目で見えること、耳で聞こえること感じることなどなどが常にまったく正反対の意味合いを示している可能性を了解して交流する社会圏で生きてみたい。効率は悪いが世界は広くなる。

しかし、実際の社会だと、逆説の詩性を使うと、ここまで理屈がわかってやっている時点で皮肉の意味合いにとられちゃうことがほとんどだ。

おそらくアーティストなら、アーティスト→純粋→逆説の詩性オッケイとなるのだろうな。本気でうらやましい。皮肉は一般的に隠語のような働きを持っているから使う側が意識することで発動されがちだと思われているけど、むしろ感知される度合いの方が多いんじゃないだろうか。