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水声通信28号

6月 5, 2009 · 2件のコメント

ご報告が遅くなりましたが、水声通信28号 黒田アキ特集にかなりまとまった文章を書きました。

「ドラえもん、レム・コールハース、黒田アキ」

もし読まれましたらご一報ください。

千種

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倫理について 住まうこと

4月 8, 2009 · 2件のコメント

2

建築というのは機能があって初めて成り立つ。機能を満たす事が前提となってクライアントはお金を払う。機能に関わることはダイレクトに倫理に関わってくる。これは社会の一般認識であろう。

また、建築家は社会に対する倫理として地域または都市、文化について倫理観を持とうとする。このような事を考える建築家はより高度な建築術を用いることで機能の倫理と調停を交わす。

これらは時に衝突する。

そのことについてワイアードで以前掲載された「トロッコ問題」のパラドクスを紹介する。

「5人が線路上で動けない状態にあり、そこにトロッコが向かっていると想像してほしい。あなたはポイントを切り替えてトロッコを側線に引き込み、その5人の命を救う、という方法を選択できる。ただしその場合は、切り替えた側線上で1人がトロッコにひかれてしまう。

多くの人は遺憾ながらもこの選択肢をとるだろう。死ぬのは5人より1人の方がましだと考えて。

しかし、状況を少し変化させてみよう。あなたは橋の上で見知らぬ人の横に立ち、トロッコが5人の方に向かっていくのを見ている。トロッコを止める方法は、隣の見知らぬ人を橋の上から線路へ突き落とし、トロッコの進路を阻むことしかない。

この選択肢を示されると大抵の人はこれを拒否する、とBanaji氏は述べた。

興味深いことに、この問題の登場人物をチンパンジーに置き換えた場合、人間は躊躇なくチンパンジーを線路に投げ落とす選択をするという。

「自分たちとは異なる要素があると、人間は功利主義[善悪は社会全体の効用によって決定されるという立場。最大多数の最大幸福が目標になる]になる。しかし、自分たち自身のためには、カント主義的な原則に従うのだ」とBanaji氏は述べた。

[カントの義務論は、 功利主義と根本的に異なるとされる。つまり、最大多数の最大幸福による止むを得ない犠牲(他の義務を切捨てた事等)自体は善とされない。また、善悪判断に 関して、功利主義は目的や結果を評価するのに対し、義務論は意志や動機を評価する。義務論では、どんな場合でも無条件で、「行為の目的」や結果を考慮せず 道徳規則に従うという形になる。」

これに従うなら、建築家のクライアントに対する倫理感はどちらかというとカント主義的で、社会に対する倫理感は功利主義的なものだと考えられる。これらは根本的に別物で、同一平面上で語れないところがあるということだ。それを今まで散々どちらを取るべきか語ってきた節があるわけである。

功利主義と違って根拠なき道徳規範をカント主義が前提とするのは建築においても同じで、ここでは機能を満たすことが疑われない道徳規範である。建築は功利主義よりもカント主義がつよい。機能を満たすことは都市や地域を良くすることより前提というか原則というか(こういうの近代的だな)。これは先のトロッコ問題でも同様である。しかしここは建築がつまらないと思ってしまうポイントでもあるように思える。

ときにアートはカント主義的な倫理感が無いことをやったりする。おぞましい不快な映像を見せたり、物を破壊したり、それを喚起したり。これはほとんどが皮肉としてのメッセージとして成立している。これはものすごい面白い現象で60年代後期から70年代初頭のコンセプチャルアートが作り上げた社会とのコミュニケーションなんだと思う。

ゴードン・マッター・クラークは家に移りゆく光(という概念、時間の概念でもよい)を入れるためにチェーンソウとかで家を真っ二つに切ってしまうアーティストであるが、これは一方で建築の機能を成立させなくしてしまう。このような物はアートということで称賛されるのだが、こういう建築だと思うと徹底的に忌み嫌われる好例だと思う。

ここで僕が思うのは、ある意味「良い」家になったとするならマッタークラークは住むべきだったんじゃないかと。そうすれば彼は建築家でもありえたんだと思う。

そう、すめばよいのだ。コンセプチャル・アーキテクチャというのが仮にあって、機能をみたすというカント主義的義務をはたさなかったとしても、住むことで乗り越えることができる。住むこととはそういう効用があるのだ。森山邸は倫理的な議論を巻き起こしたが、住むことで、施主が満足することで、倫理的にOKとなったのではないか。住吉の長屋にしても、ホワイトUにしても施主が建築を建築たらしめていると言えなくはないか。

機能主義が倫理観の頂点にあるような建築倫理においても住まう主体があることはそれを乗り越えるより強い原理となりうる。もし住まうことを機能主義の(近代)建築倫理が否定したなら、あらゆる集落や歴史的建造物が否定されてしまう。住む(もしくは使用する)ことが建築においては非常に強い意味を持つからこそ機能を満たす倫理感が発達したのだが裏返せば住むことが上位なわけである。倫理感については延々と悩みがあったわけだがなんかそう気づいてすっとした。

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Edgard Varêse and Le Corbusier

4月 7, 2009 · コメントを書く

コルビジェのつくった動画発見しました。ubu web。 どうやらコルビジェが断ってクセナキスの建てたフィリップスのパビリオンのための映像みたいですね。そら豆みたいなのがぷよぷよ浮いてます。Varêseってのがエレクトロミュージックのすごい人。 映像は巨匠のお気に入りのモダンな画像コレクションといった感じ。最後は完全に自画自賛モードで自作の建築がつらつらと。あまり好きじゃない。音楽カッコイイ。

UBU WEBでお勧めはPAUL MACARTHY

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フォルマリスト

4月 5, 2009 · コメントを書く

8

最近やっと空間というもの自体に興味が持て始めたが、そこで、我々が何もない場所と思っている場所、つまり空間には空気という物質があるという事に気がついた。

当たり前のことなのに、気が付くまでに建築を勉強してきてずいぶん経ってしまった。
何にもない場所を感じて「空間」とよんでいたこの感覚は、今では空気なるものに満たされている非常に密な場所と感じ替える事も出来よう。

これは一般の人にとっては単なる感覚の変化ともいえるが、建築家にとってはずいぶん重要なことだ。特にフォルマリストにとって極意とも言えるものではないだろうか。矛盾をもった言葉として「空間」を捉えると、「空間」は一般的な存在としての言葉を離れ、観念となる。「これは良い空間だ」とか言う前に、「空間って何だ」という疑問が湧いてくる。そんな感覚になってきた。だから自然な流れで、「空間って何だ?」を想起させてくれるような空間に興味が傾いてきたわけです。

空気の充足と物の欠落を同時にかんじるには、常識的に後者のイメージはあるとして、前者の空気の充足を感じるための形のイメージがなくてはいけないんだとおもう。フォルマリスト(形式じゃなくて形態主義)の成功者はおそらく空気の充足を感じさせる入れ物のイメージの構築に成功した人たちで、裏返すとフォルムに興味がない建築家っていうのは空間は物の欠落つまりヴォイドだと短絡的に考えているのかも?

ミースのバルセロナパビリオンの白ガラスと大理石に囲まれた光り輝く光箱、パビリオンのあらゆる反射光によって光そのものが光を享受している空間について鈴木了二はそれを受動性をもった様態である闇として次のように述べている。

「暗さの揮発した蜃気楼のような闇、

水のぬかれたプールの空洞のような闇、

照明弾によってすべてをさらけ出された逃げ場のない夜のような闇」

すごい表現です。ミース・ファンデルローエの戦場という本で田中純はこのような矛盾した両義性にパビリオンの本質を見ようとするんだけど、ここで言いたいことも割とそういうこと?

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良い

3月 12, 2009 · コメントを書く

tamatama

人はどのように物に対して「良い」と評価するか。

「職人」と「ファッション」というのがまず考えられると思いました。

職人的な審美眼はそのものが生まれる過程が、他の物を作る過程よりいかに難しいかが、かっこいいとか美しいとかにダイレクトに変換されるものである。よって、生成行為に難易度が高い領域、たとえば、料理とか裁縫とか大工なんかが好きだったりして、革製品とか建築のディテールを愛す人の感覚。彼らは、ある種マゾヒストで、時の止まった清らかな精神性を求め、同じものを一生つくってきた老人とかを称賛する。それはモラリストの感覚であるが故に保守的でもある。

ファッション的感覚はもっとも相対評価主義である。これの本質にはフェティッシュ(物心崇拝)があり、それが相対評価をするための情報を手に入れることの原動力となっている。彼らの多くは新しいもの、ただし、ある流れに身を置いていて、ほかの作品などとの関連性が見出せるものを愛す。つまり、差異を求め続ける態度という言い方ではなく、差異の氾濫した世界に現れる類似性の世界を実は愛すのがこの感覚だ。

ファッションが新しさを基盤にしているため保守的職人的なものの審美眼を強く持ちすぎている人とは時折バッティングする。それゆえこの二つのものの見方は面白い。これらは「物」としてある対象を評価する感覚だ。

しかし、人はもうちょっとごりごり物を見ていくと、概念でものを見る、形而上学的な審美眼が備わってくる者もいるだろう。これは、前2つの感覚の不安定さというか危うさ、つまり職人的本質の論理的脆さ、ファッション的な美の時に対する脆さを嫌う感覚であろう。それが故に「物」の中から「事」を見つける感覚ともいえる。彼らは歴史などを用いて概念を相対評価する。まったく美しくないとおもっても、歴史的に意味があると思ったり、概念が新しい物の見方を提示していれば、なぜだか良いとおもってしまう不思議な感覚である。

身体的に良いという感覚もあるだろう。ある空間に身を委ねたときふと良いと思う。物や事じゃなくて「状況」に対する評価。色々あります。

良いって何だろう。これは迷宮です。それが故にまったく辛いと感じる時も楽しい時もあるのです。ある人にリンゴを差し出したとき、物として事として状況(場)として人は評価する。人と「良い」何かについて議論する時に、こういう違いがあることをお互いが認識しながら話す話はおもしろいのだ。

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yoshimoto cube

2月 8, 2009 · コメントを書く

吉本キューブなるおもちゃがあることを知った。
一つのものから二つのキューブがうまれる様は何とも不思議。

災害用の住宅とかで使えないかとか、お菓子の箱が吉本キューブでできてていつでも二倍の食べれるとか、家が倒壊すると同時に吉本キューブ的に新しい家がプルんと生まれたりとか。

外見(表面積)と容積の関係が裏切られることってほとんど無いので斬新。

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secret3

1月 13, 2009 · コメントを書く

pr15pr13

maniac door series

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“I day-dream of furniture , yes”

1月 9, 2009 · コメントを書く

デビットリンチは家具の夢を見る。そんだけ家具とか大好きな映画監督で、実は家具を実際に発表して売ってます。http://www.casanostra.com/dl-index.htmfloatbeam1

この事実には正直萌えた。 なぜなら僕はリンチの映画で出てくる家具の大ファンだから。

パリのカルティエで幸運にも見れたリンチ展(電飾がバチバチいってる)

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でもかなり危ないリンチ空間が再現されてました。

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他にも「twin peaks」のブラックロッジとか

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「インランドエンパイア」のウサギの部屋とかもなかなかやばいです。

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特にブラックロッジの床材ってどう理解していいかよくわかんないんですよね。視覚的な効果を重視したのか、それとも記号的なものを狙ったのか。基本的にはリンチのデザインした家具はもろ記号性を重視したポストモダンデザインで、わりとそれ自体を穏やかに記号的な認識からずらしてやることで、空間全体にすごい違和感を作り出すっていうやつだと思うんだけど、あの床はそれにしては派手だし、記号としての親近感はないし。

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まぁ、それはいいとして、リンチ自体のデザインの趣味はバウハウス好きってどっかに書いてあったから、基本的には、モダニズム建築成立期というか、工業化する前の美学的チャレンジ期の空間が好きなんだと思う。コルビジェとかよりチョイ前の素材がまだ抽象化してないやつ。あと、ハリウッド的なというかケーススタディーハウス的な都会的建築と、カントリー調の木のちょっと使い古した手製家具。なんていうか、具象!そっからああいうポストモダンに行くのは割と王道です。そういう趣味って言うより、目的がはっきりしててデザインがそれをうまく具現化できてるから好きなんです。

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そういえばこういう邪悪なやつの対照的なの最近「でじーん」で発見した。

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噂のホワイトロッジ?(ツインピークスを見た人にしかわからないと思いますが。)

屋根と天井の間隙が非常にすきです。でもこういうのは抽象ではなくて具象でやるべきだ。

ちなみに最近のしせいどうのcmをリンチがやってます。主役、鈴木京香!!

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脱物質?作家的? ーせんとくんとコンセプチャルアートの出現

1月 4, 2009 · コメントを書く

trd0804151658021-p1岩波 世界の美術の「コンセプチャル・アート」を読みました。

とにかく、事例の数が膨大かつ一個一個の作品とコンセプチャル・アートの文脈の関係が複雑なため、全くもって消化不良。なので少しずつ復習(復讐)がてら思った事をブログにしようということです。

コンセプチャルアート成立の流れを個人的に解釈すると、コンセプチャルアートは運動名的にはダダ(デュシャン)→ネオダダ→ポップ→ミニマリスムという流れの先で生まれ、その中で政治性の有無、シリアスかユーモアか、物質的か脱物質的かなどで複雑に揺れながら、主として、アート作品の持つ審美性の層を徐々に剥いで行くことで、概念(コンセプト)化していき生まれていきます。

ポップアートまでは「アートって何?」や「これもアートなの?」という疑問を喚起させるもの、たとえば、デュシャンの「泉」みたいに「便器もアートだ」と言い、そこに元来アートが持っているとされる審美性つまり、美に関する思考を与えていきます。それがいったん終わるのがポップアート、特にウォーホルで、次のミニマリスムぐらいから「アートって何?ってどうやったら考えられるか。」「これもアート?と問う態度はなんなのか」といった一つ上位の発想、この本ではリフレクションと書いているけど、つまり批評性を外ではなくて内に、自己批評を起こすような作品に変わっていき、そこには審美性は必要でなくなっていき代わりに概念が現れてきます。

作者のトニー・ゴドフリーはコンセプチャルアートは「レディーメイド」「インターベンション」「ドキュメンテーション」「言葉」の4つの形態のどれかを取っていると言っています。しかし、多くの作品はこれですんなり分かれるというより、これを組み合わせて複雑に絡み合っているのが実情です。

これらの中心にある関心の一つとして脱物質化は重要です。これはコンセプチャルアートをすんなり理解するためには欠かせない考え方で、コンセプチャルアートの位置づけもはっきりします。

さっきあげたダダとかポップとかっていうのは、それを構成する物質や主題となっている物質の点で流れができているんじゃないかと思いました。ダダ以前はアカデミックな見地で美的なもの(新古典主義)、ただ美しいとされるようなもの(印象派とか)が主題となっていましたが、デュシャンの便器で突如、美しくないもの、特別でないもの、つまり日常品が主題として挙がってきます。これは審美性の枠組み自体を揺るがすアートという意味で、コンセプチャルアートに最も影響を与えた作品と言って良いと思います。その後、ポップアートでは商品が主題となり、ミニマリスムでは物質的にもまったく普通のものが主題になって、コンセプチャルアートでついに物質が主題から消滅するとようになります。これが乱暴な脱物質の流れで、以下の流れでコンセプチャルアートは物質を提示しない方向での提示の仕方が模索されます。

この脱物質的趣向を背景に、コンセプチャルアーティストが物質の代替として提示したのが、ゴドフリーがまとめた4つの類型、つまり言葉(概念や調査、提言)やドキュメンテーション(地図やノートなど記録、証拠となるもの)、制作者不在のレディーメイドです(インターベンションの位置づけはうまく理解してません)。この流れに伴って、制作者も創造主からただの平凡な人や知識人、共同制作者の一人といった地位になっていくし、鑑賞者も見る人から能動的に参加する人、理解しようと試みる人という位置づけに変わっていきます。ミニマリスムと同時代のアートであるフルクサスなどは、コンセプチャルアートの参加者主体の形式を先どったものでした。

このような能動的に参加するように仕向ける作品を、ロラン・バルトは「作家的」という言葉で説明したそうです。バルトは、我々は作家を読む(つまり、与えられる)のではなくて言語を読む(自分に与える)のであって、能動的に読まなくてはならないといった主張をしています。作家的作品とはこういうものを指します。これは、与えられているのに慣れている者にとって「苛立ちをおぼえるが、やがて活性化される」ものなのです。

この考え方はモダニズムからポストモダニズムへと時代認識が変わっていく際、大きな原動力になったものですが、それは納得できるものだと思います。お互いがコミュニケーションできるように共有言語を持とうとする形式化こそがモダニズムの根幹であったのに対し、作品が作家の手を離れて一人走りするものであるという真っ向から否定するような理論がここでは展開されているからです。

僕も、作品をある形式に当てはめすぎること(例えば東工大建築の構成論のような認識論に立ったあらゆるものの形式化)には否定的で、どんな意見でもいいけど豊かな批評を導けるものこそ素晴らしいという立場です。キュビズムの方がデ・ステイルより重要だと言い切る人がいるなら、大体がこの立場によるものではないでしょうか?

こういうとき、保守的な人がする拒絶反応は、バルトの言葉で言うと、「作家的」な作品が嫌いということになるでしょう。つまり苛々させるな、考えさせるなということです。この顕著な例が「せんとくん」です。これは僕の私的な理論なので、正しいとは限らないけど、まず、せんとくんを見た時、その形式がはっきりしていなかったことによるパターン認識ができなかった大衆は自分で対峙しなければならないという孤独感から、めっちゃくちゃ不安になったり苛立って反対運動とかして怒りました。しかし、不安な人たちが集まっているという共有意識や、メディア露出の繰り返しによる慣れとともにある形式が見えてくるようになって、親しみを覚えていきます。そして、今じゃ人気者です。これは北野武の映画に見られる「振り子理論」といっていて、悪い奴ほど良い奴になれるという理論に非常に似てますよね。このように、とっても良いものになれる(悪いものにもなる)可能性を持っていること、これこそが作家的な作品の良さなのです。

しかし、「作家的」作品の傾向が、現在のコンテンポラリーなアートにまで受け継がれているというのが「アートってのは難しくてとっつきにくくて嫌いっ」っていう大衆のアート離れの要因の一端となっているのも否めません。観客の能動的参加は消費社会に使った我々にはちょっとイライラする存在なのです。美術館の学芸員がしきりに、「わからなくていいんです、自分で思い通り感じてください」と作品に対して説明するのは、正しい言葉ではなく、正しい理解だけを必要に求めることで興味を持たれなくなることを警戒した折衷的な態度なのです。

まぁ、コンセプチャルアートは現代アートの生みの親的な存在で非常に興味深いものなので、この本読んで初めていろいろわかったけど、もうちょっと理論自体がメディア露出してもいいかもしれません。

ps
コンセプチャルアートの出現に関するまとめとして、ゴドフリーが言葉の出現の要因を6つにまとめていて、これが非常にコンセプチャル・アートのキャラクターをうまく説明しているのでザクッとあげとくと、
1.脱物質の代替 2.人との共有願望 3.人の頭に入ってみたい願望 4.すべての芸術作品は本質的に言語的だという主張をする人々が多かった 5.アートの意味の理論化 6.アート市場への嫌悪、商品としてのアートから脱するための言語
これらのうち、2,3は現代アートの基本的なスタンスに近いけど、1,4,5,6はそこまで率先してやられていなかったり、今では否定されているものなので、裏返せば特に、コンセプチャル・アートの精神とも言うべきものかもしれないです。特に、6のコマースぎらいは、のちにコンセプチャルアート自体が市場で高騰していく中で、自己矛盾を作り出していき、コンセプチャルアートの急激な衰退の要因となっていくのです。

続く?

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近代主義=モダニズムに関する勘違いしやすい項目

1月 2, 2009 · コメントを書く

ふと、書こうと思って書いてみました。

1 機能主義や合理主義は本質ではなくて一つのイデオロギーにすぎない。最も対立する物として宗教的価値観や魔術的価値観、地域・集落的価値観などがある。

2 美術と建築のモダニズムは違う。美術におけるモダニズムは平面性や形式を重視しており、純粋なものが目指された。社会的な物が加味された運動とは違う。建築におけるモダニズムの主題は大量生産、合理的建築で、その過程で表現された反復やデカルト幾何学が純粋であったことによって両者は同じと勘違いしやすい。

3 モダニズムは近代全般を占める思想ではない。もう一つの大きな文化運動の流れは芸術においては資本主義に対応したダダ、シュルレアリスムからポップアート・・・。建築においてはシカゴ、マンハッタンなどの高層ビルや遊園地などからベンチューリ、コールハースまでがそれに当たる。建築はコルビジェを今でも崇拝しすぎてて、その影響が強すぎる。両者はキュビスムに端を発している点は興味深い。

4 ミニマリスムはモダニズム(アート、建築)の美学の延長ではなく、本質的に逆。3の話の続きで、ダダとかポップアートの流れにミニマリスムは位置するため、モダニズムとは相反する(連続的な視点もありうるけど)。また、おさまりがいい均整な建築のディテールはそれがカッコイイとかきれいとかそういうことを語るのに対して、ミニマリスムのオブジェは概ね、何も語らない点で大きく精神が異なる。

5 日本において、モダニズムは皆に愛されているわけではない。大衆はよりキッチュなもの愛している。そうでなくては、町はもっと端正な面持ちであったはずだし、もっと現状に批判があがるはず。

6 コルビジェの思想は成功したのではなく失敗したと言った方がいい。ジェイン・ジェイコブスの「大都市・・・」でコルビジェ的都市計画の犯罪率が高いことが確認されている。また、ここ2,30年は(合理主義と地域主義の仲裁もしくは歴史主義との仲裁という苦肉の策以降)、モダニズムが進化したという感じの建築は現れてないのでは?むしろ成功したのは巨匠としての建築家というカテゴリーを最も初期に作ったこと。

ps モダニズムにネガティブな意見を書いたが、しかしモダニズム、モダニズム建築運動、モダニズム美術運動は近代最大の美学もしくは美学的運動であったことは間違えがないことを加えておく。現代においては???

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トランス感 二題

12月 24, 2008 · コメントを書く

すごい好き。どっちも。あげあげ

エロ本収集家のクリス・カンニンガムがジュリアナと気分的にシンクロしてもなんら違和感はないですよね?
どっちも聖なる儀式を思わせますね。

かなりBPMもかぶるよーな?一緒にみろってこと???はーどこあ杉っ!
嗚呼、視覚芸術万歳 

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逆説の可能性

12月 22, 2008 · コメントを書く

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好き!だからいじめちゃう。子供、特に少年によくみられるこの行動様式はほほえましいが、大人がやると、「めんどくさい奴だ」と扱われてしまう。

これはイメージの問題で、子供の好きだからいじめるのは純粋、大人は純粋じゃないから使ってはいけないという社会認識によるもの。

さて、私はこの逆説の詩性とでも呼べる行為を大人なのに成立させたい。こういうの、めっちゃ好き。というか社会のコミュニケーションはこれぐらい回りくどくあってほしい。目で見えること、耳で聞こえること感じることなどなどが常にまったく正反対の意味合いを示している可能性を了解して交流する社会圏で生きてみたい。効率は悪いが世界は広くなる。

しかし、実際の社会だと、逆説の詩性を使うと、ここまで理屈がわかってやっている時点で皮肉の意味合いにとられちゃうことがほとんどだ。

おそらくアーティストなら、アーティスト→純粋→逆説の詩性オッケイとなるのだろうな。本気でうらやましい。皮肉は一般的に隠語のような働きを持っているから使う側が意識することで発動されがちだと思われているけど、むしろ感知される度合いの方が多いんじゃないだろうか。

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ハイヒール

12月 7, 2008 · コメントを書く

ハイヒールが大好きです。最近靖国神社の蚤の市にて一足購入しました。

クエスチョンマークなる謎の安っぽいブランドの靴で、店長に元は3万するとか言われたけど、値切ったら2千円になったんだけど、ネットで後で調べたら、ふつうの売値がそんなもんだったっていう。

淵が透明でマシュー・バーニー的、近未来きっちゅ。特に素晴らしいとは言わないけど、確実に好みの路線ではあります。

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あとは、秘蔵画像コレクション 下に行くほどキッチュになる仕組み。

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自然/人工

11月 6, 2008 · 4件のコメント

「自然」、もしくは「人工」と聞いて我々は何を想像するだろうか。これが最近、興味のあることです。

これについて、ヤフー知恵袋で面白い質問があって、「なぜ自然の対義語が人工なのですか?納得できません。人間も自然の一部だと思います。」というのがあって、これは非常にもっともな質問だと思ったのです。

その答えが4つあって、意味分かんないのが二つは無視して、なんとなく正しそうな

「人間の手が関わらないことがら=自然ですから、その対義語は人の手によるもの=人工です。」

「人間は自然に生まれますが、盆栽は絶対自然には生まれません。」

という、形成過程に差異を見出す意見があります。僕の場合は、自然の物は樹木とか花とか谷とかで、人工の物は都市とか機械とかロボットとか、っていうところから、なんとなく表層的な物質性で対立させている対義語のイメージを持っています。

しかし、自然の対義語は一般的に人工なのですが、人工の対義語は「天然」であることが示すように、自然と人工は厳密な二項対立でない言葉で、「自然」の方がより指し示すものが広く深みのある言葉で、それが故に正確に対立する言葉が無いので差し当たり「人工」を使っているんだと思います。

英語を調べてみると自然はnature , works of God , God’s worksという三つが出てきて、人工はartの一つだけ。英語のartの意味を考えると、明らかに英語では、「art」と対応するのは「nature」ではなくておそらく「works of God」、「God’s works」の方であって、どうやら人工の反対の意味として自然を使う時には、その制作者を問うている可能性が高そうです。

ここで議論したいのは正に、英語の意味での対立、art(works of man)/works of Godの「works」です。この二項対立の際の自然/人工の意味をこれらに絞るならば、「人間も含めて自然なんじゃないか」っていう議論の答えは、宗教観によって、自然、もしくはどちらでもないとなるわけです。

(ちなみに人工をartに含める言語は良いですね。この意味だと日本人の最も得意なartはロボットとか。俄然かっこいいっていうか・・・。works of Godはキモイけど。他になんかないのか、っていう。)

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事の始まりはかなり個人的で身近なことですが、最近引っ越してそこの窓から、都庁と中央公園ががっつり見えるのですが、なんとなく、都庁の方が自然で中央公園が人工なものに見えたからです。この写真を見てもわからないと思いますが。一般的に緑は自然で超高層ビルは人工だとされるのに、その関係が簡単に逆転されてしまうこの言葉のイメージって異常だな、と。

でも上のように辞書を引いていくうちに、この対比をした瞬間にひとまず自然とか人工という個々の言葉の意味を離れて、人為的に作られたかそれとも謎のパワーで作られたかが問題になるのだとわかってきたわけです。だから、僕は無意識的に、なんとも居心地の悪い中央公園は人工的なものに見えて、逆に丹下の都庁に人知を超えた崇高さみたいなものを感じたのだと。ちなみに補足:都庁は丹下健三の建築というキャラクターでもあるけどポストモダンの文脈で多く語られる建築でもあって、つまりゴシック教会のパロディーなんです。そういうのも加味されての記号のイメージが作る崇高さかもしれません。大体、崇高なものの麓って邪悪なものの巣窟だったりするんだよなー。お見事。

と、言いたいことはここからで、それが物を自然と人工で区別しようとする時、誰が作ったものというのが最大の分け目であるが、まず現前としてそれらが置かれる場所が地球という自然(works of God)に包まれており、物の構成要素も細かく見ていくと原子とかに行き着くわけだからあらゆるものは当然、自然なわけです。しかし、なにかの区分をする事を目的とした言葉のセットなわけだからもうちょっと有益な区分の仕方のポイントを考えた方がよさそうです。自然/人工とは実のところ、物のどの観点においてその制作者を問うかがもう一つの重要なポイントであるのです。

例えば、科学的観点にたてば、さっきの原子の話からあらゆるものは自然となり、物のイメージという観点でその創造者を問えばあらゆるものは人工なわけです。最後に加工した者を創造者として公園内のもので問えば、落ち葉や樹木は神が作った自然物であるが、ベンチや遊具は人が作った人工物と言えます。このように自然と人工という対比の中には揺れ動く詩性があり、この曖昧さが言葉を混乱させているとも言えるが、それがこの対比自体に深みを与えるわけでもあります。

例えば、お茶とかの「わびさび」の世界は其処らへんに落ちているものを拾ってそのままの形にブリコラージュした点で評価すべきは、僕的にはロハス的ほにゃららな話ではなくて、自然/人工の観点を増やしその価値観を豊かにした点にあるように思える。ここら辺の詩性は今、サナー石上建築に始まる結構ホットな建築家の話題でもある。しかし、大体の物足りないと僕が思う感じは、自然と人工という深い解釈が可能な領域にもかかわらず、自然は緑だと決めつけたうえで(もしくは人工は建築だ)、ここでは短絡的に「家」と「緑」の接近の仕方を問う点にあるんじゃないかと思います。(たしかに緑はマイナスイオンを出すんだけどさー。)

やはり、僕の好みは前述のように自然と人工は何処でその解釈を切るかってとこです。

そこで、僕は人間の身体のスケールという点で自然/人工を切ることを発明したんです。形もスケールの延長上に置きます。この提案によると、「人工」物とは、人間の身体のスケールや形が加味されているもののことで、逆に「自然」物とは、人間の身体のスケールとは全く関係なく、形や大きさが決まっているものである、となります。これは本質のようなものを問うのではなく、区分をする主体である人間に重きを置いた考え方です。

(これも当然人間の身体のスケールを加味するとは、どの点においてであるか問われるわけだが、こういうことを考えていて思うのは、魅力的な言葉なり定義は(例えば「自然」とか)ある程度、複雑で柔軟な物の方が我々にとって魅力であって(つまりより想像力を働かせられ介入の余地がある)、物を魅力的、かつ、きっかり区別するっていうことはあまりない。あることに対してより相性のいい方向に定義を絞る事が妥当ではないかと。)

この考えだと、星や海の他にも、大体の都市は自然です。超高層も自然です。なぜならその大きさは土地の経済効率でその高さが決まったり形が決定したりします。当然そうでないときもあるわけだけど。逆に植樹された樹木や四角い部屋は人工物です。パンテオンは微妙なとこだけど、ピラミッドは自然になります。車も道路の幅も人工だけど、道路全体の網は一般的に自然です。

ちょっと不思議なんだけど、こうして考えると人工物と自然は同じものに対してスケールの違いをもって入れ子状を絶えず繰り返すものなのだとおもうのです。まさにイームズの「パワーオブテン」の世界。原子と宇宙という自然に挟まれて同じものが何回か人工物に変わるような。つまり自然物と人工物は起源をともにしたもので、頭の中に存在する世界なわけ。

原子→鉄→ネジ→ネジ山→イス→ゴミの山の中のイス→地表→宇宙→銀河

もしくは四角い部屋という人工の集積である大きな都市。

つまり、人が加工する事をコントロールできるものは大抵人工物ですが、人が加工できないもののみならず、加工しているがコントロールできないものの多くも自然物にカテゴライズできる考え方なのです。これは言い換えるとデザイン(コントロールと同義)できないものを賞賛する立場の物の見方でもあるのです。

これは、学部の卒業設計で僕が取り上げた創発(イマージェンシー)の考え方に非常に近いです。創発というのは、ざっくり言うと小さな挙動が大きな全体を作り上げる蟻塚とかが持つボトムアップの創造的性質のことで、蟻自体は何だかわからない小さな意志と本能でせっせと家の建設に勤しむわけだけど、そこには実は大きな意思が隠されているというやつ。このような創発的性質で出来上がった人工物も自然であると言ってしまうのがこの観点です。(創発にしても計画されたものはその時点で100%の自然ではないんだけどね。その意味で建築家は自然を限りなく模したものは作れるが、自然を作ることは言葉の解釈上は不可能。

「純粋に日常的なものであっても建築家が目を向けたとたんに、それは誠実さを失ってしまう。あるいは、少なくとも即興性や純粋性は失ってしまう。-建築家である我々は徳と呪いの両方である何かに取りつかれているのだと思います。」 レム・コールハース『コールハースは語る』

逆にトップダウンなコルビジェ・モダニズム建築は徹底的に人工的だと言えます。おかげで建築家の作る建築は身体性が無いとだめだとか言ってるひともいますが、それは僕の言葉で言えば人工物万歳なわけで、そういう人が作る世界(コスモス)はあまり面白くない。結局、都市や建築の知覚はその内部もしくは境界においてなされるもので俯瞰的にするわけじゃないからそのものの性質の中に(今定義した意味での)自然と人工が入り乱れていた方がそれ自体の解釈に深みを与えてくれて、世界を(身体的にも)面白くするんじゃないかなーって思って。逆にアーティストっていうのは今や人工ではなくて自然を作り出す職業になっているところがありますね。僕が思うのは、大抵の人間の作るものは身体スケールが加味されるのだから、たまには身体性から離れたスケールのもの(自然)を作り、それと人工的環境の対応で心地の良いものを探っていけばいいのではないでしょうか。

ps

そもそも、この事を思いついたのは自分の部屋の壁を見ていて、のペっとした壁と窓のプロポーションについて考えていた時です。壁の縦横比の種類×四角い開口の開け方を考えると、人間のパターン認識の可能な範疇ならば、たいして種類はないな、と考えたのだけど、ふと、その前提になっているのは、空間と人を相対化しないことだと気がついたからです。身体という尺度とそれを持って知覚する脳みそさえいなければ、どんなに大きな壁でも小さな壁でもプロポーションが同じならば同じ窓のあいた壁と考える事が出来るんじゃないかと。これ、恐らくトポロジーから来た発想だと思われ。時間だって認識する者さえいなければ一秒と1兆年は同じことと考えてもいいんでは。つまり、時空間はぐにゃぐにゃで、意志のあるものによって認識される事によってパキっと固まるんではないかと。これってミロのビーナスは見られていなければただのキャンバスと絵の具であるっていう昔の美学的思想と同種の考え方だけど、空間について考えられたことはあまりないのかもしれません。それは僕らの空間がより身体に根ざして作られているからなのではー?意味不明なことかいてる?大丈夫かしら

あと、近いことを過去にも考えました。→http://chiguhagu.wordpress.com/2008/08/04/605/

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物件案内

10月 18, 2008 · コメントを書く

御苑あたりで不動産見てたらすごいのに遭遇。

このライティングは家として反則。カッコよさ→気が狂うのは必須。

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ちょこちょこ小説書いてます。

10月 9, 2008 · コメントを書く

使わなくなったのが惜しい?ので挙げときます。シリーズ物(10作目)なのであまり流れがつかめないかもしれないけど、そもそも流れとかないです。

朝、顔を洗っていると左頬の先っちょに一つのニキビを発見してショックだった。この典型的思春期っぽい態度が後で落とし穴となる。

朝食の際にこのショックを誰かと共有したくておじさんに報告すると、おじさん、ちょっと興奮しながら、「はぁはぁ、よし!ちょっとみてあげよう。」と、僕の顔を手元に要求した。この時、僕はまだ寝起きで夢心地のうわの空。

顔をおじさんの手元に突き出すと、おじさんは髪を掻き上げながらしばらく僕の眼を見つめたあと、「アフリカではこうして治療するんだよ。」と言って、突然体をあり得ない角度にくねらせ僕のニキビめがけてしゃぶり付いてきた。唇の先を尖らせてピンポイントに吸いついたのだ。
うわxxx-。そう言えばおじさん、そばかすだらけの少年を教会でレイプしてカリフォルニアの刑務所に収監されてた過去のある超危険人物だった。脳内にGPSが埋め込まれてるんだ。口数少ないけど結構な繊細なところがあるのはきっと電波のせいなのかも。

しばらくして_

Dear おじさん

僕はあれ以来、家を飛び出して西荻あたりでネットカフェ難民になってます。大量のマンガを読むのも飽きてきたし、おじさんから懺悔のメールが毎日届くのもうんざりしてきたからそろそろ家に帰っちゃおうかなー・・・なんちゃって!? あはは。きっと僕たちの間柄はとってもぎくしゃくするものになっちゃっただろうけど、そもそも僕らが自然な感じだったことなんて無かったっけ。おじさんのおかげでニキビもすっかり治ったし、今ははっきり感謝してるよ。キッス。

僕より

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形式主義と建築の蜜月

9月 25, 2008 · コメントを書く

『美学への招待』よんで学んだ事を考察。ノリで書いてみたけど自分にとって結構重要な文章が書けた。

19世紀末から内容重視から形式重視、つまり、形式が内容に取り込まれて行く現象が生まれてくるらしい(例えば、マーレビッチ、マチス、ピカソ‥‥)。

ざっくり言うと、指し示す物の意味より形が重要もしくは、形あっての意味主義。

そこでちょっと形式について考えてみたが、

形式主義には2種類あるように思える。内容と形式を往復しながら形式を重視するタイプと、相対的に形式と形式を往復する事で形式を作ろうとするタイプ。

後者で重要な事は、ほとんどの者が、後者においても内容を捨てきる形式はあり得ないと考えている点であろう。形が指し示す意味がまったく無い形を人は許容できない。これは形に限らず、意味の空白(何も意味の無いもの)は人にとって恐怖なのである。相対化される形式も元を正せば内容があるという前提に基づくがゆえに、既に形式化された形式に対して、相対化を繰り返しながら形式化していけるわけだが、その反復作用によって前提である内容は擦り切れて極めて希薄になってしまう事が多くある事が予想される。何度もコピーを繰り返すとオリジナルがよくわかんなくなるように。その時、西欧をベースとした文明は歴史的に類を見ないほど意味が希薄な世界を目の当たりにする事となったのである。

例えば、都市空間。

中世の都市とかの装飾もそれなりに意味をなしていただろうし、広場の作られ方とか色々、まぁ内容がある訳だけど、中国の大量に建てられる高層ビル群は明らかに内容が希薄。キャドの性能や、CGの見栄えで決まる外観や、大量に量産される同等の質の空間を横断する体験。それらに差異を作るために頂部だけ歴史からサンプリングどかーんetc。

これは、きっと日本人とかそんなに抵抗無いけど、西欧人(のインテリとか)にとっては大変な衝撃なんだろうなーとおもいました。これをボードリヤールはいち早くきっと指摘してるのだろうけど(読んでないからわからない。)。頭で各々が構築する所謂「世界」が、「内容の世界」から「無内容の世界」へ。シュルレアリストが格闘した主体と客体の戦い(「シュルレアリスムは、主体と、われわれにとってはいわゆる現実が引き受けている形態である客体との戦いを抹消せんとする、徹底的な試みとして現れる。」by オクタビオ・パス)は、だいぶシュルレアリスト優位の展開になってきた訳です。これが、僕がシュルレアリスムに今注目する理由です。ちなみにこの戦いはロランバルトによって日本も引き合いに出されてます。

主題である建築の話をすると

建築には芸術としての側面とデザインの側面がある。アートにも両側面があるが(めっちゃださいアートはあまり成立しない現状がある。それは当然、アートは美学の範疇だから、美的でないという認識をされることは、作品の美学的内容に関わらず多くの誤解をよんでしまうきっかけになってしまうから。ちなみに、アートと藝術は違う概念だと思う。)しかし、技術的(職人的)側面が目立つ分、建築をデザイン分野として強く意識されるのが現状であろう。

では、そもそもデザインと芸術、両者は何が違うのであろうか?

『美学への招待』によると、芸術には内容があるが、デザインには内容がない(特筆すべき内容が無いという意味。)らしい。これは、芸術にはタイトルがあるが、デザインにはタイトルが無い事がこの状況を示している。タイトルとは、筆者が言うには「作品をしかじかのものとして見よ、という命令で、この知覚の命令は、作品が一つの精神的世界をもつことを前提とし、その世界についての解釈の方向づけ」であるという。これが無いということは、内容が無いと同義なのである。馬鹿でも見りゃ分かるだろってな具合に。

ここまでくれば、建築が形式主義と相性が良さそうだなーと予感が湧いてきましたか?

差異を作らなければいけないが、アートのように純粋な観念でなくても良い「建築」は、デザイン的側面を発揮する事によって、「ちょっと違うけど内容的には近似するコピーの量産」に対する要求を満たす事に秀でている。それが、現在の建築的状況といってよいほどである。だから、時代の美学としての形式主義自体に対しても百花繚乱な形式を持って、120%で建築は応える。このように、内容→形式の移行がアラブやBRICS(中国とか、分からんかったら調べて。)における急激なグローバル都市化の状況に伴い進んでいく事を背景に、建築の本質が重要な変質をしてきた気がします。後ろめたかった形式主義が前向きになってきた。

何がそうさせたのか?

責任もって、ここまで説明しとくと、形式主義の台頭はメディアと密接に関係があると思ってます。多分、一番の理由は絶対これ!「動物的」なメディア消費になってくれば当然、内容なんて追ってられない。メディアによって情報垂れ流し消費状態なので、とにかく形で違うもん見せろって感覚になってくるのは当然である。建築家における巨匠制からスター制への移行も、もろに、こういう背景があるであろう。学ぼうとする勤勉な態度と憧れ真似をする怠惰の態度はそのまま、メディアに対する我々の態度の変化の表れであると言えそうだ。需要者も供給者もこうなってくると、魂削って内容を切り詰めるアーティストも、職人技で頑張るマイスターもあまり報われない現状が待っている。特権的な立場でいられるのは、広告代理店とか、雑誌の編集者、内容を作って形式を量産させるよう多くの優秀な人材を集めたとこのボス、カイカイキキ(村上)/クマジム(隈)/OMA(レム)ってことになりますかね。

僕が危惧するのは(誰もが同様に思っていると願うわけだけど)、以上の状況(形式主義の超台頭)であろうとなんだろうと、建築は常に社会における公共性の重要な部分を担っている、という一言に尽きる。西欧における、建築や都市の「内容」はコモンセンスに関わる公共的なものであったはずだ。そのことを担う職能が建築家であるという認識が僕にはある。よって僕は形式を排除するタイプでは全然ないけど、完全に内容主義である。建築家という概念自体、本来、西欧的なものであるから至極当然の事に思うし。

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キッチュ 2題

9月 18, 2008 · コメントを書く

dezainnetとかDEZEENとかでまとめて最近のデザイン/アートニュース見ましたが、非常に面白かったのがどっちもポップアートに近かったんで一緒にコメント。

1つめ 今年のベネチアビエンナーレで金獅子とった、グレッグリンのインスタレーション。毎回ベネチアの金獅子は個人的趣味とかなりリンクします。

大量生産の子供のおもちゃを溶かしてくっつけたもの。切断の切り口が完全にCG大好きな人のデザイン手法で、キッチュな素材を使うのもアメリカのポップアートの王道行ってる。この組み合わせは今まで見た事が無かったので死ぬほど新鮮。単純すぎるかもしれないけど、コンピューター・サイエンスとウォーホルの美学が合体したみたいな。

大人のおもちゃでやったらもっといけてる気がするんだけどなー。YOUTUBEも!!

2つ目 ジェフ・クーンズがフランスのベルサイユでエキシビジョン!

この人、完全に狙ってたはずです。古典とキッチュはめちゃくちゃ相性がいい事、そして、それらは詰まるところ同じだっていう事を。

これを機に日本人とかも早く気付いてくれたら良いのに。結果的にそういう物が公共性を浮き彫りにするのになー。

なんかキッチュはいつまでたっても認められませんなー。オタク・カルチャーがあるじゃないか、って言うけど、誰も言わないけど、やっぱりどっかでめちゃくちゃ嫌われて(差別されて)て、この国民性は根が深い。多分、過去に徹底的に貧しかった島国の歴史を持つ大衆上位型社会構造だから上部も下部も排除したいのか?

結果的に公共空間におけるキッチュ(原宿で踊ってた人とか、秋葉の歩行者天国)は陰謀だってぐらいキレイに無くなるし。あれは「通り魔」とか「沢本あすか」のせいだけじゃないと思う。

っていうのも、先日、国立新美術館に行ってみたら(高いんで展示は入らなかったけど)、めちゃくちゃ醜悪な雰囲気に包まれてたんだよー(文句)。

おばちゃんはがんがんぶつかってくるし、おっさんチョッキ着てつまんなそうにしてるし。マナーが悪いとか、ファッションが西欧的でないとかではなくて、おじちゃんおばちゃんの醜悪さ(と僕が感じたところ)は多分、無関心さだと思う。 そんな感じはそのままキッチュの概念に近いのにキッチュ嫌いって……。まぁ彼らは、それを楽しむ余裕を持とうっというメッセージを送ってるわけか。

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secret2

9月 18, 2008 · コメントを書く

get chipped

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CGクリエーターの物質的審美眼

9月 9, 2008 · コメントを書く


このキュウイ、同じ形してるんですよ。昨今、CGの技術が異常に上がって、すごいことになってる。なんていうか、フォームジーとかはイラレの3D化って感じだけど、今はフォトショを3Dにした感じだわ。あほみたいにレンダリングに時間がかかるけど。

そのまじあり得ないクオリティーを誇る某レンダラのマテリアルギャラリーを眺めながら思ったのだが、一般的な素材っていうのは、その素材が放つ審美的価値が経済的価値に非常に依存されているっていう当り前のことが気になった。

ふつうの人は、ダイヤモンドはガラスとは圧倒的に違うという風な感じで、とうぜん高価なものは美しく見える。

それがわからない人はもう二流だねっていう、かんじの価値観。物の素材←→経済的価値の反復運動はあらゆるものを見るときに我々が無意識的に通すフィルター。

しかし、3Dソフトでマテリアルをあてがう態度は全くそこらへんの価値基準が不安定になる。ダイアモンドでできた住宅を人類が初めて見たのはこの手のソフトだと思うんですが、そういうのも真に迫る画質でぱぱっとできてしまう世界なのです。要するに、リアルな世界にも認知限界があり、そこに画像が到達している状態、つまり見分けがつかないレベルにまでCG技術は達している。

ここで、物にアウラを求める人(いわゆる、もの派)を不安にさせるのだけど、ほんとに素材に対する審美眼がCGを作っていると変わるのだ。これがこの投稿のテーマ。

素材とは複製不可能な経済的価値の高いものであればあるほど、素晴らしく見えるというのは前述した通りであるが、CGを作る現場においては「交換」ではなくて「複製」が行われる。そのことは物に対して徹底的に審美眼が変われる契機を生み出す。この審美的世界は残念ながら見る人より作ってる人がもっとも体験できる世界なのだが、だとしても、今までこういうことはほとんど無かったように思える。

マテリアルのデータっていうのは当然、情報の階層があって、上に載せる画像であったり、効果であったり、色であったり、反射、透過の性質であったりを組み合わせて作っていく。非常に構造的で、結構だれでも理解できる世界。

そこでは例えば、クロムとニッケルとステンレスの差、ガラスとプラスチックとダイヤモンドの差は反射、透過といった光に対する性質の差にすぎない。そこに微細なテクスチャが上乗せされると見事にリアルな物質に見えてくる。裏返せば、現実に存在する物が、これらの数値性能のマトリクスのすべてを網羅しているのわけではないので、より、組み合わせの分だけ発見的に多様な物を表象していくことができる。

当然現実がどうか、とか関係ない世界なので、より感知者があるイメージに近い表象を目指すわけだから、そこには当然、いわゆる「素材の美学」のような「鉄」なら「鉄」なりの使い方があるとかそういう職人性はなくて、もっと現象学者のような視点が存在する、と思います(僕がそうだから)。

このような物の価値判断を、物とそれが生み出す現象に 忠実であるという観点から、より「物質的な」視点になったといってしまおう。バーチャル世界だからというのが、逆説的に働く。(邪険に取る人がいるかもしれない けど、むしろ、この逆説はポエティックな現象だと思う方が素直ちゃん。)

CGデザイナーっていう人たちは多分、この膨大なマトリクスの上でダンスをする人たちである。個人的には写真の発明と似てる気がする。あんま気付かなかったけど。

良いとか悪いとか言ってるんじゃないですよ。いろいろ違くて新しい。

このようなものを賛美する美学に対して補足的な文章として、たまたま昨日読んだものから、

「哲学者が詩人たち、ミロシュのような大詩人に、

世界をいかにして個性化するかという教えをもとめると、

哲学者はただちに、世界は名詞の秩序にもとづくものではなくて、

形容詞の秩序にもとづくことを確信するにいたる。」

『ガストン・バシュラール / 空間の詩学』

なんか大海原に投げ飛ばされるような文章だけど、以下のようにも言っていて、

「愛された曲線は巣の力をもつ。すなわちそれは所有せよとよびかける。」

物の審美性にはこういう本質的なものも存在すると、僕も考えていて、それと環境によって揺れ動く審美性はある程度の相関関係にもあるし、どちらも含めて、知覚する際に審美的に感じたものは優れていると思うわけだから、両者をぐちゃぐちゃに混ぜて「世界を個性化」するために、CGってのは非常に面白い「素材」なんだと思います。(ぐだぐだ‥‥‥)

最後に今まで話してきた審美眼、経済的価値を除いて、「色・反射・透過・形」を重視する姿勢、ここに個人的には「記憶のイメージ」を付け加えたい。受け手の知覚はここから始まる気がするのです。

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