夢日記 

(レム睡眠開始)

ふあみれす。ずっとすわってうざがられてるさんにんかぞくがいる。

メンヘルノコ深夜帰ろうとしてるところなんぱ。しばらく話してして一緒に店をでることに。

彼女を先にみせのそとにだして、じぶんは、白米くいまくったりしだす。

(しばらくノンレム睡眠)

(レム睡眠開始)

かなりじがんがたってもうめんへるのこいないとおもってみせをでようとすると、扉を開けたすぐ真横にいた!

もういっしょに渋谷ラブホにいこうとなったら靴がない。あわてててんないで這いつくばって盗める革靴を探す。

(しばらくノンレム睡眠)

(レム睡眠開始)

また結構じかんがたって、みせをでるとおんなはいない。女を探しに小走りでみせをでる。

あいつどこいったんだよ!と大声出してみたら、正面から若い子が、どこいったの?とかわいく返してくれた。独り言ですってごまかして照れながらその場を去るとなんだか、気分が良くなりテンションがあがってきた。無敵なきがしてきた。

そんな気分で宮益公園の階段を登ろうとしたそのとき、すごい可愛い子がまえからやってきた。それもすれちがいざまに 僕のことをすごく興味深く見てる。心で決心する間もなく自然とナンパをした。

かわいいね、いっしょに遊ばない?手を腰にまわす。女は凄くてれながらかたことの日本語で、イイデスヨという。

中国人か、と気づいて英語でガンガン話しかけた。旅行かとか、いつまでとかそんなお決まりの。すると、あわわわわとなっている。キャンユースピークイングリッシュorジャパニーズ?二、ニホンゴデス。

了解ということで、その場でセックスしだす。外だけど階段の踊り場でくらがりだった。どうやらはじめてのようだった。色々かたことでセックスのことをしつようにきいてくる。すごく興味があるらしい。

セックスしながら、はじめて女の子の顔を正面からアップでしっかりみてみた。その子は顔はかわいいけどガリガリで唇もガサガサしてる。

中国でご飯たべてる ときくと、女は、中国では地下で暮らしてた、そこで日本の男を捕まえる虎の穴にすんでいたという。

こんなこともできますよ、と、突然体を宙に浮かした。気持ちいい。ベットはマットレスだけでなくベット自体の性能も重要だ。

興奮してきて、キスがしたくなった。しかし不衛生さがきになって、単刀直入に病気とかないよねときくと、ダイジョウブデスと答える。

良しとばかりに思いっきりディープなKissをしようと、口に舌を入れる。すると、女が突然、思いっきり咳込み出した。えっ?と、自分の口の中から、血が混ざった痰が付着していた。

相当地下では酷い扱いを受けてたんだなと思った。この子にはセックスよりまずはご飯だ。

(目覚める)

ps
たまたま夢日記書いたけど、ツイッターでは上がらないし、でもせっかくなのでブログのほうに。もはや、読者もいないのでしめしめ。携帯で寝起きに書いたか ら意味わかんない文体になってます。忘れないようにがんばって書いた。作中の主人公はくそ野郎で、自分が見た夢なんで、俺がくそだと思うかもしれないけ ど、それは誤解だと言っておく。ちなみに、なんで夢日記なんかを書いたかというと、エッチな夢だったから。

富士山

富士山を登る人は蟻みたいだな~♪

DP

respect

反アート入門

さわらぎのいの「反アート入門」読了。ジャケットの西尾康之の即神仏かなりいいです。

かなり本にも触れられているのだが、日本で現代アートが全く普及しないで、ひたすら入門書が出版され続ける理由の一つに、現代アートが難しいというのがよく言われています。

しかし、現代アートは古典絵画や、印象派などの難しさに比べるとはるかに簡単だと僕は思ってます(本にも書いてあったきがする)。以下の文章はわかりやすい

p23

「ほんとうは印象派の絵などは、鑑賞がとてもむずかしいのです。でも、わかんなくたっていい。むしろ、わかんないほう がいい。だって、「アート」は高尚なのだ。高尚なものはわからないほどよい。なぜって、自分たちにわかる程度じゃ高尚でありっこない。」

現代アート以前の作品にはその作品単体に盛り込まれるコンテクストの多さ、難しさが高尚さと結び付けやすい。一方、表面的な現代アートの簡単さ(ピュアさ)は高尚なものではなく、芸術の言葉がもつイメージとは離れすぎている。逆に作品を成り立たせる現代アートの背景のコンテクストの難解さも純粋にハードルを上げているのでしょう。昔は作品の中に物語があったのに対して、今はいろんな作品を紡ぐことで理論なり物語が紡ぎだされているので、同じアートというくくりでも全く違うものですね。

また、日本人はアートがいまだにモノであるという考え方が強いです。この本のあとがきの言葉を使うならば「聖遺物(ご神体)」という言葉がかなり的を得ていると思いました。聖的な属性のものを求めているのではないでしょうか。古美術とか工芸が好きな人とかは特にそういう傾向があるでしょう。聖的なものとはエリアーデの定義だと、世界が創出するための道具であったり中心そのものであるので、なにやらわからなくて遠い場所とのつながりを感じる性質が求められます。なので(一見)単純明快な現代アートは聖的に見えない。現代アートそれ自体は背景のコンテクストによってその作品の存在価値を担保してもらっており唯一無二の存在では決してない(目の前にある作品の概念を全く違うアーティストが先に提示していたら、そのアーティストは全く認められないままであったかもしれない。)。美術館で音声ガイドを聞くときも、なんだかモノの説明というより出来事のように説明する。「モノ」より「コト」性が強く感じてしまう。おそらく、西洋諸国(古臭い響きだが)より、遙かに聖なるモノ性アート(あくまでアートの枠組みで。純粋に仏具とかいってるわけではない。)に関しては興味が高い(阿修羅展とかのこみ様からも・・・)。それが、悲しいかな今の現状を作ってるんですね。偏見だけど、ハンチングかぶってるデザイン好きのお兄さんとか、知的な感じしないもん。

あと、以上のことに関係するんだと思うんだけど、よく作品の説明で「あなたの感じるままに評価してください」というのがあるけど、あれも国民的にかなりダメなんだと思う。わからないものを孤独に対峙することに非常に不安を覚える人が多い人種なんだと思います。みな均等に貧しかった島国なんで。

防備録

(マイケルフリードのミニマリズム批判とは)p65ミニマリズムは、一つの大きな過ちをおかした。彼らは作品はそれが作られる素材や形式に忠実でなければならないというモダニズムの考えに馬鹿正直なほど忠実すぎた。その結果、作品からイメージや物語のたぐいは一掃されたけれども、その代り、作品は単なる箱や棒のような物的対象にまで還元された。

けれども、モダニズムに作品にとって重要なのは、絵画や彫刻というジャンルについての感覚を研ぎ澄ますことにある。彼らは、そういた最低限のジャンルについての規律すら溶解させてしまった。その結果なにがおこったか。結局、作品は見るに値する内容を失い、見るべきものを失った鑑賞者は、なすすべもなく作品の周りをグルグルと回るしかない。~これは、美術というより演劇の醸し出す事態に近い。これに対して、見るという経験は、いかなる時間的経過や身体も必要とせず、瞬時にして成立するものだ。~そのような明白な無時間的体験でなければならない。

p71こうして「郊外」は「領域的」であるよりすっと「境界的」であることがわかってきた。

araki & mapplethorpe


phillips de purryのオークションサイトを久しぶりに見て、SEXにかんする美術品のオークションがあって、ダントツ好みだと思ったのはこの二枚。arakiとmapplethorpe

やっぱり、セックスのイメージって暴力とは切れない。生命を生み出す行為から踏み外していくイメージに逆に固有のイメージとしての強さが宿るということか。久しぶりの更新でこんなのすいません。

ちなみに、さっきたまたま見たハンニバルシリーズの「Red Dragon」のタトゥーは凄かった。あれははっきりと神に変身していくための様式でしたね。

日本の入れ墨は神をおろすためのものだろうから、はっきりと日本と西洋のシャーマニズム観の違いがでてました。

凧揚げと一緒ですね。

日本 憑依型シャーマニズム  大陸 脱魂型シャーマニズム

このような違いは都市にも表象されてきます   というのが僕が昔書いた修論でした。。。

地域社会圏


僕が設計事務所で担当いたしました、山本さんの提唱されている「地域社会圏モデル」という書籍が発売されました。地方の中山間地域という建築家にとって馴染みのない場所での建築の提案です。おかげで農業に少し詳しくなりました。文章も書かせていただいているので、本屋さんでお気づきになられましたら、是非手にとって頂ければ幸いです。東浩紀さん、原広司さん、金子勝さんという濃いー鼎談ラインナップもあります。

合わせて、同じINAX出版からコンセプトシリーズで中村の作品集も出版いたしましたのでそちらも是非!そこにもいくつか載っております。

ちなみにAMAZONではなぜか建築ではなくて社会学のコーナーにあります。

Hell place in Phuket

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宇宙の塊

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良く分からないかもしれないけど、拡大すると細かいんです。

最近ハマった性的描写

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こんなもんアップしていいのか全然わかんないけどー。ししししししんめとりーー みみみみミラクル!

世界で最も悲しい犬と、鴨川?のまんなかでびしゅぬれの?誰なんでしょうか?

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出雲

すごい線的運動性のエネルギーによって一部が吹き飛ばされた山のごとく、出雲の地形は東西にきれいな平野が開かれて南北に山が取り囲んでいる。

山に対する谷の等間隔な感じも非常に不自然です。軸線の先にはcity of god リオ・デジャネイロとかがあります。furakutaru

ピクニック

めちゃくちゃ楽しかったです。なぜか、学生とフリーター率が異常に高かったです。

昼の出し物、闇ランチパック。

寝る前、人間オムレツ、かまぼこ・ピカチュー・フラッシュ

寝静まってから、….

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オリジナル

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最近、路上で手に入れたもの2点

1 本物の昆虫の死骸

2 本物のルイ・ヴィトン製品

「オリジナル」の意味を問う2題

くもくもく + 告知

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就職して、もくもくと作業しております

告知 ・ 9月13日新宿御苑 ごめんねピクニック 昼から 雨天不決行 → カフェでシャンパン

建築ノート

建築ノート7号にTOYの座談会がのっております。

場違いなTシャツを着ている人が私です。

どうぞ、御拝読ください。

しゅわしゅわしゅわ

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水声通信28号

ご報告が遅くなりましたが、水声通信28号 黒田アキ特集にかなりまとまった文章を書きました。

「ドラえもん、レム・コールハース、黒田アキ」

もし読まれましたらご一報ください。

千種

倫理について 住まうこと

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建築というのは機能があって初めて成り立つ。機能を満たす事が前提となってクライアントはお金を払う。機能に関わることはダイレクトに倫理に関わってくる。これは社会の一般認識であろう。

また、建築家は社会に対する倫理として地域または都市、文化について倫理観を持とうとする。このような事を考える建築家はより高度な建築術を用いることで機能の倫理と調停を交わす。

これらは時に衝突する。

そのことについてワイアードで以前掲載された「トロッコ問題」のパラドクスを紹介する。

「5人が線路上で動けない状態にあり、そこにトロッコが向かっていると想像してほしい。あなたはポイントを切り替えてトロッコを側線に引き込み、その5人の命を救う、という方法を選択できる。ただしその場合は、切り替えた側線上で1人がトロッコにひかれてしまう。

多くの人は遺憾ながらもこの選択肢をとるだろう。死ぬのは5人より1人の方がましだと考えて。

しかし、状況を少し変化させてみよう。あなたは橋の上で見知らぬ人の横に立ち、トロッコが5人の方に向かっていくのを見ている。トロッコを止める方法は、隣の見知らぬ人を橋の上から線路へ突き落とし、トロッコの進路を阻むことしかない。

この選択肢を示されると大抵の人はこれを拒否する、とBanaji氏は述べた。

興味深いことに、この問題の登場人物をチンパンジーに置き換えた場合、人間は躊躇なくチンパンジーを線路に投げ落とす選択をするという。

「自分たちとは異なる要素があると、人間は功利主義[善悪は社会全体の効用によって決定されるという立場。最大多数の最大幸福が目標になる]になる。しかし、自分たち自身のためには、カント主義的な原則に従うのだ」とBanaji氏は述べた。

[カントの義務論は、 功利主義と根本的に異なるとされる。つまり、最大多数の最大幸福による止むを得ない犠牲(他の義務を切捨てた事等)自体は善とされない。また、善悪判断に 関して、功利主義は目的や結果を評価するのに対し、義務論は意志や動機を評価する。義務論では、どんな場合でも無条件で、「行為の目的」や結果を考慮せず 道徳規則に従うという形になる。」

これに従うなら、建築家のクライアントに対する倫理感はどちらかというとカント主義的で、社会に対する倫理感は功利主義的なものだと考えられる。これらは根本的に別物で、同一平面上で語れないところがあるということだ。それを今まで散々どちらを取るべきか語ってきた節があるわけである。

功利主義と違って根拠なき道徳規範をカント主義が前提とするのは建築においても同じで、ここでは機能を満たすことが疑われない道徳規範である。建築は功利主義よりもカント主義がつよい。機能を満たすことは都市や地域を良くすることより前提というか原則というか(こういうの近代的だな)。これは先のトロッコ問題でも同様である。しかしここは建築がつまらないと思ってしまうポイントでもあるように思える。

ときにアートはカント主義的な倫理感が無いことをやったりする。おぞましい不快な映像を見せたり、物を破壊したり、それを喚起したり。これはほとんどが皮肉としてのメッセージとして成立している。これはものすごい面白い現象で60年代後期から70年代初頭のコンセプチャルアートが作り上げた社会とのコミュニケーションなんだと思う。

ゴードン・マッター・クラークは家に移りゆく光(という概念、時間の概念でもよい)を入れるためにチェーンソウとかで家を真っ二つに切ってしまうアーティストであるが、これは一方で建築の機能を成立させなくしてしまう。このような物はアートということで称賛されるのだが、こういう建築だと思うと徹底的に忌み嫌われる好例だと思う。

ここで僕が思うのは、ある意味「良い」家になったとするならマッタークラークは住むべきだったんじゃないかと。そうすれば彼は建築家でもありえたんだと思う。

そう、すめばよいのだ。コンセプチャル・アーキテクチャというのが仮にあって、機能をみたすというカント主義的義務をはたさなかったとしても、住むことで乗り越えることができる。住むこととはそういう効用があるのだ。森山邸は倫理的な議論を巻き起こしたが、住むことで、施主が満足することで、倫理的にOKとなったのではないか。住吉の長屋にしても、ホワイトUにしても施主が建築を建築たらしめていると言えなくはないか。

機能主義が倫理観の頂点にあるような建築倫理においても住まう主体があることはそれを乗り越えるより強い原理となりうる。もし住まうことを機能主義の(近代)建築倫理が否定したなら、あらゆる集落や歴史的建造物が否定されてしまう。住む(もしくは使用する)ことが建築においては非常に強い意味を持つからこそ機能を満たす倫理感が発達したのだが裏返せば住むことが上位なわけである。倫理感については延々と悩みがあったわけだがなんかそう気づいてすっとした。

Edgard Varêse and Le Corbusier

コルビジェのつくった動画発見しました。ubu web。 どうやらコルビジェが断ってクセナキスの建てたフィリップスのパビリオンのための映像みたいですね。そら豆みたいなのがぷよぷよ浮いてます。Varêseってのがエレクトロミュージックのすごい人。 映像は巨匠のお気に入りのモダンな画像コレクションといった感じ。最後は完全に自画自賛モードで自作の建築がつらつらと。あまり好きじゃない。音楽カッコイイ。

UBU WEBでお勧めはPAUL MACARTHY

フォルマリスト

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最近やっと空間というもの自体に興味が持て始めたが、そこで、我々が何もない場所と思っている場所、つまり空間には空気という物質があるという事に気がついた。

当たり前のことなのに、気が付くまでに建築を勉強してきてずいぶん経ってしまった。
何にもない場所を感じて「空間」とよんでいたこの感覚は、今では空気なるものに満たされている非常に密な場所と感じ替える事も出来よう。

これは一般の人にとっては単なる感覚の変化ともいえるが、建築家にとってはずいぶん重要なことだ。特にフォルマリストにとって極意とも言えるものではないだろうか。矛盾をもった言葉として「空間」を捉えると、「空間」は一般的な存在としての言葉を離れ、観念となる。「これは良い空間だ」とか言う前に、「空間って何だ」という疑問が湧いてくる。そんな感覚になってきた。だから自然な流れで、「空間って何だ?」を想起させてくれるような空間に興味が傾いてきたわけです。

空気の充足と物の欠落を同時にかんじるには、常識的に後者のイメージはあるとして、前者の空気の充足を感じるための形のイメージがなくてはいけないんだとおもう。フォルマリスト(形式じゃなくて形態主義)の成功者はおそらく空気の充足を感じさせる入れ物のイメージの構築に成功した人たちで、裏返すとフォルムに興味がない建築家っていうのは空間は物の欠落つまりヴォイドだと短絡的に考えているのかも?

ミースのバルセロナパビリオンの白ガラスと大理石に囲まれた光り輝く光箱、パビリオンのあらゆる反射光によって光そのものが光を享受している空間について鈴木了二はそれを受動性をもった様態である闇として次のように述べている。

「暗さの揮発した蜃気楼のような闇、

水のぬかれたプールの空洞のような闇、

照明弾によってすべてをさらけ出された逃げ場のない夜のような闇」

すごい表現です。ミース・ファンデルローエの戦場という本で田中純はこのような矛盾した両義性にパビリオンの本質を見ようとするんだけど、ここで言いたいことも割とそういうこと?

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良い

tamatama

人はどのように物に対して「良い」と評価するか。

「職人」と「ファッション」というのがまず考えられると思いました。

職人的な審美眼はそのものが生まれる過程が、他の物を作る過程よりいかに難しいかが、かっこいいとか美しいとかにダイレクトに変換されるものである。よって、生成行為に難易度が高い領域、たとえば、料理とか裁縫とか大工なんかが好きだったりして、革製品とか建築のディテールを愛す人の感覚。彼らは、ある種マゾヒストで、時の止まった清らかな精神性を求め、同じものを一生つくってきた老人とかを称賛する。それはモラリストの感覚であるが故に保守的でもある。

ファッション的感覚はもっとも相対評価主義である。これの本質にはフェティッシュ(物心崇拝)があり、それが相対評価をするための情報を手に入れることの原動力となっている。彼らの多くは新しいもの、ただし、ある流れに身を置いていて、ほかの作品などとの関連性が見出せるものを愛す。つまり、差異を求め続ける態度という言い方ではなく、差異の氾濫した世界に現れる類似性の世界を実は愛すのがこの感覚だ。

ファッションが新しさを基盤にしているため保守的職人的なものの審美眼を強く持ちすぎている人とは時折バッティングする。それゆえこの二つのものの見方は面白い。これらは「物」としてある対象を評価する感覚だ。

しかし、人はもうちょっとごりごり物を見ていくと、概念でものを見る、形而上学的な審美眼が備わってくる者もいるだろう。これは、前2つの感覚の不安定さというか危うさ、つまり職人的本質の論理的脆さ、ファッション的な美の時に対する脆さを嫌う感覚であろう。それが故に「物」の中から「事」を見つける感覚ともいえる。彼らは歴史などを用いて概念を相対評価する。まったく美しくないとおもっても、歴史的に意味があると思ったり、概念が新しい物の見方を提示していれば、なぜだか良いとおもってしまう不思議な感覚である。

身体的に良いという感覚もあるだろう。ある空間に身を委ねたときふと良いと思う。物や事じゃなくて「状況」に対する評価。色々あります。

良いって何だろう。これは迷宮です。それが故にまったく辛いと感じる時も楽しい時もあるのです。ある人にリンゴを差し出したとき、物として事として状況(場)として人は評価する。人と「良い」何かについて議論する時に、こういう違いがあることをお互いが認識しながら話す話はおもしろいのだ。